大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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北杵築の名所・文化財 その4(杵築市)

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 引き続き、北杵築地区の名所旧跡を紹介します。下記の内容です。

○ 「おとう」の用字について

14 轟地蔵(轟の渕)

15 小平の庚申塔

16 四辻の弘法様と庚申塔

○ 国東半島の弘法様について

 北杵築地区のうち大字溝井は、二の坂・西溝井・東溝井に大別され、これが行政区になっています。このうち東溝井は、小平(こびら)・乙壬(おとう)・荒平に大別されます。今回は小平と乙壬の名所旧跡です。

○ 「おとう」の用字について

 乙壬(乙王)は北杵築地区の中心部で、小学校・農協・郵便局があります。「おとう」は、今は乙王と書きますが、以前は「乙壬」と書いているのをよく見かけました。この「壬」の字について、通常「じん」や「みずのえ」と読む漢字なのかとも思ったのですが、読みから推しておそらく王の異体字であって、「じん」とは別字であるような気がしてきました。調べてみますと、下記リンクに、王の異体字として「壬」が掲載されています。推測が当たっていたようで嬉しくなりました。

u738b-itaiji-001 (王) - GlyphWiki

 いま、昔からの地名・字名が急速に忘れられてきています。わかる範囲でこれらの事項にも触れながら記事を書いていこうと思っています。

 

 14 轟地蔵(轟の渕)

 轟地蔵は中津屋・小平・乙壬の境界にある「轟の渕」の谷間にあります。小字を轟と申します。標識が充実しておりますので、道案内は省略します。駐車場やトイレが整備され、道路の反対側から谷間に下りて行く参道があります。手すりもありますが、お年寄りは難渋されるかもしれません。この参道ができる以前の旧参道も残っておりそちらの方がなだらかなのですが、入口がたいへんわかりにくく適当な駐車場もありません。 

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 この道を下りて行きます。途中よりカーブした石段になっています。下の様子が道路からはなかなかわからないのですが、下ってみるとあっと驚く景勝地です。

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 狭い谷間を霊場となしています。4月には小平地区の方によりお祭りが開かれており駐車場周辺の桜が見事なのですが、それにも増して素晴らしいのが紅葉です。この狭い谷間に色とりどりのもみじと常緑樹の青とがよく調和し、しかも昼間にも薄暗いところを、枝の掻い間からちょっと日が差したときの風情などなんとも言えないよさがあります。

 左奥の赤い幟が並んでいるところが、今の参道です。上の写真は旧参道側から撮りました。

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  この奥が「轟の渕」です。昔は小さな滝の体をなしていましたがこの上には轟の池があり、その水口を整備した関係かと思いますが今はチョロチョロと水が落ちている程度です。でも、荒々しい岩崖が見事で、諸々の石仏が風景によく馴染んでおり、まるで箱庭のようです。左側に写っているのは比較的新しいお地蔵さんです。こちらは今なお近隣在郷の信仰を集めており、右側の方にもたくさんの新しいお地蔵さんが並んでいます。

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 こちらは市の文化財に指定されております十王様です。この辺りはじめじめとしたところで夏は藪蚊に悩まされます。十王様にも地衣類が多く付着しておりますが、状態は比較的良好です。

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 崖の上の方には、比較的古い時代のものかと思われますが、大きな観音様も残っています。やさしいお顔です。赤い前掛け、よく「おちょうちょ」などと申しますが、これがときどき新しいものに替わっています。お祭りのときなどに地域の方がお世話をして下さっているのでしょう。

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 彫りが見事なお不動様です。堂々とした立ち姿、厳しい表情、衣紋の表現など、何もかもが素晴らしいではありませんか。その足元にはかなり古いものと思われるお地蔵さんが並んでいます。

 さて、この轟地蔵には、悲しい言い伝えがあります。竹ノ尾城のお姫様「豊姫様」が、あらぬ噂で婚約が流れたことを悲観して轟の渕に身投げをしたのです。その経緯は盆口説になっています。短い口説なので全文を紹介します。

〽国を言うなら豊後の国で 音に名高き竹ノ尾城主 木付四代は頼直公に 思想堅固の一人の娘 さてもその名は豊姫君と 容姿艶麗起居淑やかに 兎角城下にうたわれたるが 姫が御年十九の春に 安岐の城主は田原の氏で 五代権九郎親治公が 姫を妻にぞめとらんものと すでに婚約調いたるが 丁度その頃誰言うものか あらぬ噂を流布なしければ 田原の親治これをば聞きて ついに婚約空しくなりぬ 姫はこれより世情を離れ 親に孝養尽くすの他は 奥の一間に閉じ籠られて 深くえん名哀しみ給い 日々に三度の食事も忘れ 地蔵尊をば信仰せしが ついに菩薩に身を捧げんと 委細詳しく書置せられ 切りし縁の黒髪添えて これを形見と仏間に残し 鏡取り出し本願経と 共に菩薩の画像を抱き 頃は元中六年春の 弥生半ばの或る夜のことよ 草木眠れる丑三つ時に 姫は密かに人目を忍び 住まい慣れたる館を後に 玉の露草踏み分けられて 独りすごすご轟淵に 向う姿や月影淡く 女心のその一筋に 姫は程なく淵にと至り 遥か南の空伏し仰ぎ さても懐かし御父母よ 親に先立つ不孝の罪を 何卒お許し遊ばしませと 髪に差したる櫛簪を 淵のほとりに置き残されて 今を名残と山見渡せば 谷の嵐も無情を告げて 響くそのとき豊姫君は 袖にしぐるる涙を払い いとも優しく両手を合わせ 地蔵菩薩の声諸共に 花の蕾のその身を捨てて 哀れなるかや轟淵の 水の泡にぞ消え失せ給う さても御父頼直公は 姫の残せし書置見られ 哀れ果て無き最期を知りて 心狂わんばかりに嘆き 深くこれをば哀れみ給い 姫の冥福祈らん為に 石を選びて石工に命じ 地蔵尊をば刻造なして 淵の上にぞ安置し給う

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 こちらのお地蔵さんが、豊姫様の供養のために安置されたものです。おしろいを塗ると別嬪さんになるという伝承があって、いつもお顔は真っ白です。同じ石から、このお地蔵さんと、以前紹介しました「竹ノ尾地蔵」のお地蔵さんとを彫出して、ここ轟の渕と竹ノ尾城裏手の崖口に安置したそうです。ですから轟地蔵にお参りをされた方には、ぜひ竹ノ尾地蔵にもお参りをしていただきたいと思います。

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 北杵築地区には、有名な地蔵尊が4か所あります。轟地蔵、竹ノ尾地蔵、北村地蔵、芦刈地蔵です。この中でも轟地蔵は高熊山と並ぶ北杵築きっての名所といえましょう。

 

15 小平の庚申塔

 轟地蔵の駐車場から小平公民館を目指します。駐車場付近にト字分岐があります。どちらに進んでもよいのですが、左前方向(2車線の下り坂)に進む方が分かり易いと思います。右側に田んぼを見ながら道なりに右カーブし、右側が木立になるところのかかりに電信柱があって、右方向に簡易舗装の道が分かれています。この小道を上ります。途中より舗装されていませんが、そのまま道なりに行くと小平公民館に出ます。

 公民館の坪には、生目様などの祠と3基の庚申塔があります。おそらく、これら全てが元々ここにあったわけではなくて、道路工事または圃場整備などでこちらに移されたものもありましょう。

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 このように、岩盤の上に立派にお祀りされています。この辺りには古墳があったそうで、もしかしたらその関係の岩盤なのかもしれませんが説明版がなく、詳しいことはわかりませんでした。

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 3基とも傷みが進んできていますが、諸像の姿はよくわかります。それぞれに個性のある塔が3基も並んでいて、嬉しくなりました。向かって左から詳しく見てみましょう。

(左)青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 ややO脚気味の金剛さんの、まん丸のお顔がなんともかわいらしく、親しみを覚えます。笑顔で首をかしげているように見えて、まるでおどけているようなポーズです。足元には両脇に鶏、中に猿が、1列に並んでいます。身を寄せ合った小さな猿もかわいらしい立ち姿です。

(中)青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 こちらの金剛山はツンとすまし顔にて、悪霊や病魔もどこ吹く風の芯の強さを感じました。向かって左の童子は、金剛さんに向かって柄杓か何かを差し出しています。その先端が金剛さんの脚に干渉しているのですが、両者を重ねて表現することは諦めて、なんと金剛さんの右脚のみ異常に細くして重ならないように表現しています!なんという離れ業!自由奔放な表現方法です。金剛さんの台座には細かい文様が刻まれているのですが、よくわかりませんでした。その下部には鶏が中央に2羽、さらに下には猿が横1列に並んでいます。猿は単調に手の動きだけ変えて「見ざる言わざる聞かざる」を表現するのではなくて、それぞれが少しずつしゃがみ方を違えていて、とてもいきいきとしています。

(右)青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 日月・瑞雲の表現が見事です。肥満体型の金剛さんはまるでお相撲さんのようで、どっしりと力強そうに見えます。そして髪型が洒落ています。太った金剛さんに押し出されそうな童子が、まるで鶏の上に立っているかのように見えるのもステキです。そして猿は、先の2基とは違って横向きにて表現されています。小さな体を丸めてしゃがみこんだ猿のかわいらしいことといったら、金剛さんとは対照的です。

 

16 四辻の弘法様と庚申塔

 轟地蔵の駐車場付近のト字分岐を小平方面に進むと、旧県道に出て突き当りになっています。左手には北杵築地区公民館(旧北杵築中学校)があります。ここを左折すると、乙壬地区に入ります。道なりに下っていくと、信号機のない十字路があります。この辺りの通称地名を四辻(よつじ)と申します。十字路を直進しますと道路が下りの右カーブになり、そのかかりの左側にお弘法様と庚申塔が並んでいます。その一角を塀で囲み、坪は狭いものの立派に整備されています。車は、路肩の広いところに邪魔にならないようにとめるしかありません。

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○国東半島の弘法様について

 国東半島は昔からお弘法様の信仰が篤い土地柄で、道路端、屋敷の坪、また山の上に谷間に、ものすごい数の弘法様が残っています。お弘法様で思い出すのは「おせったい」で、今なお半島各地で行われている懐かしい行事です。昔は、お弘法様を信仰していても本場の四国八十八箇所を巡拝するのは容易なことではありませんでした。それで、弘法様の縁日である3月21日に村の弘法様を次から次にお参りをして廻ることが広く行われました。そのときに、お弘法様を祀る個人または講組は、お参りに来てくれた人にお接待としてお菓子などを渡します。それは、お参りの人をお接待することで、自分も一緒に巡拝する霊験が得られるということです。

 昔は「めがね菓子」や「吹き寄せ」などを赤いめいめい皿(おてしょ)に少しずつ持ったものを「もろぶた」等にいっぱい並べておいて、お参りの人の袋に入れてくれたものですが、最近は袋菓子やジュースが主になっています。今でもときどき、あの赤いお皿を並べているところを見かけますと、とても懐かしく感じます。商売をしているところなどは、お寿司を配ったりすることもありました。お接待を出しているところは赤い幟を立てているので、すぐわかります。杵築では今でも旧の3月21日にしていますが、山香など新暦でするようになったところもあります。新暦で行う場合にはお彼岸のお中日にて必ず学校が休みなので、子供達にとっては新暦の方が都合がよいようです。

 お菓子を配りきってしまったら幟をおろして、個人で出す方は別として、講組にて出す場合には座元(回り番です)の座敷や公民館などでお座をします。お接待は集落の女性が中心に行いますので、お座にも女性が参加することがほとんどです。お接待というと子供の喜ぶ行事のようですが、集落の大人(女性)にとっても昔はとても楽しみな行事でした。

 もう一つ、お弘法様関連の年中行事としては、お弘法様の盆踊りがございます。大昔は旧暦の7月20日か21日に踊っていたそうですが、大分県は月遅れの8月盆が一般的になっておりますので、今は8月20日か21日に踊ります。お盆には、旧暦の7月盆(旧7月13日~)、新暦の7月盆(新7月13日~東京のお盆がこれにあたります)、月遅れの8月盆(新8月13日~)の3パターンがあります。この「月遅れのお盆」を「新暦のお盆」という方もいますが、実際は違っていて、旧暦がだいたい新暦の1か月遅れですので、新しく8月13日からと固定したものです。お弘法様の盆踊りも、供養踊り等の一連の盆行事から連続したものですので、月遅れの8月20日か21日になったのでしょう。お弘法様の盆踊りは、耶馬溪の方では辻々のお弘法様の前で輪を立てて短時間踊っては次のお弘法様に移動してまた踊るというふうに、初盆の門回りの踊りと同じようにしていたところもありますが、国東半島では昔から寄せ踊りです。お弘法様のある広場などで、大きな輪を立てて踊りました(集落内のお弘法様を踊りの坪に寄せるところもありました)。

 お弘法様の盆踊りでは、特別の踊りはございませんで「六調子」「れそ」「やってんさん」など、初盆の供養踊りのときと同じ演目を口説で踊ります。この盆踊りは子供の喜ぶ踊りで、輪に加たって踊ると、お弘法様のお供えを壊してお菓子などを次から次に配ってくれていたところも多く、お接待踊りとして親しまれました。今はもう少なくなってしまいましたが、まだ点々と残っています。中でも、黒土の椿堂の踊りが著名です。

 なお、お弘法様の踊りの日の昼間に、夏のお接待をするところもあります。杵築周辺では見られなくなっていますが、国見など北浦辺の方では、まだずいぶん盛んに行われています。夏はうどんをくれるところが多いようです。

 このように、昔から地域の方々に親しまれていたお弘法様。今もこうして、道路端にたくさん見られます。お気づきの際には、手を合わせていただきたいと思います。それでは、庚申塔を詳しく見てみましょう。こちらの庚申塔は近隣のものとは一線を画す表現方法をとった、秀作です。

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青面金剛6臂、3猿、2童子、ショケラ

 いかがですか。微に入り細に入った緻密な彫りが見事です。日月を隅に配して、その間を切り取るように彫りくぼめて、盤面めいっぱいに金剛さんを配しています。その堂々とした立ち姿はいかにも強そうな感じで、小平の庚申塔に見られた愛らしい感じは微塵もありません。輪郭は深く彫っているものの、像自体は平板な彫りに見えます。でも衣紋の重なりなど細かく前後差をつけてあり、まるで絵を見るかのような写実的な表現で、かなりの腕前の石工さんによるものと推察されます。ショケラを側面にはみ出すことなく体前に彫出しているのも珍しいと思います。また、猿や鶏も輪郭をしっかりととっていて、くっきりした印象です。体を丸めるようにしゃがみこんだ猿がかわいらしいではありませんか。そしてなんと、文政二年の銘がありました。200年前の塔とはとても思えない保存状態に驚嘆いたしました。

 

 今回は以上です。乙壬の用字と弘法様の年中行事について補足説明しましたので、3か所のみの掲載となりました。東溝井には、ほかにも乙壬の秋葉様・庚申塔、天神様などの名所旧跡があります。適当な写真がありませんので紹介はまたいつかということにして、次回は西溝井の名所旧跡です。

(次回に続きます)