大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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都甲路を行く その3(豊後高田市)

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 前回、行園の山神宮まで紹介しました。今回は説明の都合で、少し離れた普賢洞(ふげんどう)からスタートします。

 10 普賢洞

 長岩屋の谷を下り、都甲小中学校付近の県道三叉路(長岩屋と東都甲の追分)を右折し市街地方面に行きます。道路左側に「普賢洞」の標識がありますので、そこを左折します。田んぼの中を進むと、正面の三叉路のところに普賢洞が見えてきます(冒頭の写真)。自動車は三叉路の道路端に停められます。
 こちらは「洞」というよりは「岩屋」といった方が適切かと思われるような、浅い掘り込みです。看板に「堀岩屋」とありますが、これはこの辺りの通称地名で、岩屋(普賢洞)ありきの地名のように思われます。そして普賢洞という呼称は多分に漢語的な響きがございまして、これは後補のものであるような気がいたします。戦前まで、全国各地の名所旧跡に旧来の地名・字とは別に漢語的な美称をつけることが非常に流行しました。たとえば「耶馬溪」という地名や、耶馬溪の「競秀峰」等がそれにあたります。こちらも、その流れに乗ってこの岩屋を「普賢洞」と呼んだものなのかもしれません。もしそうであれば、かなりの信仰を集めた名所であったということでしょう。

 内部は矩形の掘り込みにて、左右それぞれに龕がございます。まず、右側から見てみましょう。

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 このように非常に立派な祭壇が設けられ、灯明立てや花瓶など、行き届いています。お花は造花ではございませんで、まだ新しい切り花でした。今も近隣の方の信仰を集めていることがわかります。私のように他地域からお参りに来る方もあるのでしょう。

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 いずれの仏様も均整の取れた彫像にて、衣紋の皺の表現などたいへん緻密なお細工がこらされております。お顔の表情もよく、秀作といえましょう。横向きの龕の中にて日当りが悪く地衣類の浸蝕が気にかかります。でも、荒々しい岩肌とちょうどよく馴染んでいますし、今のところ大きな傷みはみられません。長い年月の歴史を感じさせられる、ありがたい仏様でございます。

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 左側の龕です。双胎道祖神のような石造物と、その左には正体不明の石が安置されていました。こちらもきちんと整備されています。左右どちらも、自由にお灯明をあげられるようになっています。ありがたいことです。

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  岩屋のすぐ外には、一石五輪塔が数基、安置されていました。おそらく道路拡幅か何かで崖際に寄せられたものでしょう。

 

11 大力の稲荷社

 普賢洞の三叉路を左折して山裾の道を行きますと、道路右側に稲荷社の鳥居があります。よく気を付けませんと通り過ぎます。普賢洞から山裾を行き、最初の民家の手前にて右側の路肩が僅かに広がるところの、擁壁が切れたところが上り口です。こちらの字がわかりませんでしたので、一応大字名から仮に「大力の稲荷社」としました。

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 参道の上がりはながやや荒れていますが、難なく通行できます。 ふつう、お稲荷さんというと赤い鳥居が次から次に立っている様子を思い浮かべます。こちらは赤い鳥居ではありませんが、形を観察しますと所謂「台輪鳥居」で、お稲荷さんの赤い鳥居と同じ形です。ただし「稲荷鳥居」と「台輪鳥居」は狭義では異なるものであるそうです。そのあたりはまだ無勉強ですので、今後図書館でよく調べてみたいと思っています。

 こちらは、参道を上がりますと正面に岩屋がございます。神社というよりは仏跡のような立地でありますのも、もしかしたら神仏習合の名残であるのかもしれません。元は権現様であった可能性があります。

 

12 吉名川のいわれ

 今度は金宗院(きんそういん)跡を目指します。金宗院跡のすぐ下に駐車場が整備されているのですが、その手前、県道入口の駐車場に興味深い説明版がありますので、先にそちらから紹介します。 

 大力の稲荷社を過ぎて道なりに行き橋を渡ると、先ほど通ってきた県道に突き当ります。正面が西都甲簡易郵便局です。ここを右折して、内陸方向に進みます。ほどなく左側に都甲八幡社がございますが適当な写真がありませんので、今回は飛ばします。道なりに少し行くと左側に金宗院跡入口の標識があり、その十字路の角に駐車場があります。先述の通り金宗院跡のすぐ下まで車で上がれますが、こちらにも立ち寄ってみてください。興味深い説明版が3つも立っています。

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 まだ新しい名所案内版です。「都甲地域散策マップ」とありますように、この地域の主要な名所旧跡が網羅されておりますので、参考にされるとよいでしょう。このブログで紹介しているようなマイナーな場所は掲載されておらず、名所めぐり・史跡探訪というよりは「観光案内」といった趣向ではありますけれども、だいたいの位置関係や道路の把握にはとても役立ちます。色刷りにてイラストがたくさん入っていますし簡単な説明も添えられた、よい案内板です。豊後高田市は、このような散策マップや民話の説明、名所旧跡の解説といった案内板が充実しているように感じます。市のホームページの文化財説明も非常に充実していて、特に田染郷関係の記事は必見です。都甲の歴史の解説もありますので、ご覧になることをお勧めいたします。f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210117225319j:plain

 こちらは吉弘統幸公の説明版です。先の「都甲地域散策マップ」には、吉弘統幸公に関係のある場所に印がついていますので、両方をよく見てからこの地域を探訪されますといっそう興趣が増すことでしょう。

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  私がもっとも興味をもったのが、こちらの説明版です。「吉名川悲話」とあります。文章をこちらに転載いたします。

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 きらびやかな文化の時代、安土・桃山。その一つの時代の終わり頃、関ヶ原の戦いの二日前のお話です。屋山城主であった吉弘嘉兵衛統幸は、黒田如水(官兵衛)の大軍八千と別府石垣原で戦いました。しかし、統幸の軍二千では勝利を収めることはできず、とうとう統之は戦死しました。そしてその首は、石垣原の獄門台にさらされました。敗戦を聞いた菩提寺、金宗院の住職は、統幸の霊をとむらうために、その首を石垣原へ取り戻しに行きました。統幸の首は、風に光るかや原の中に変わり果ててさらされていました。住職が涙ながらにその首を背負い、鹿鳴越から奥畑をとおりやっとの思いで松行まで帰り着き、前の川で首を洗おうとした時です。統幸は「カッ」と目を開け、「ああ、住職、よしな(吉名)」と叫んだのです。住職は驚き、洗うのをやめました。そして、寺に持ち帰り厚く供養しました。それからは、いつしかこの川を「吉名川」と村人は呼ぶようになりました。

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  なんとも興味深いお話ではありませんか。生首がカッと目を開けて「よしな」と叫ぶというくだりを親やおじいさんおばあさんから聞かされて恐怖のどん底に落ちた子供も一人や二人ではなかったことでしょう。ただ、安土桃山の時代に、豊後出身の統幸公が「よしな」という関東言葉を喋っているところには若干の違和感を覚えますけれども、それはそれとして、吉名川の由来は生首が叫んだ「止しな」であると分かりました。あまりのインパクトに、一度聞いたら忘れられない話です。

 このように、地域に昔から伝わる民話には、しばしば地域の名所旧跡や地名の由来といった類のものが一分野として存在いたします。今後も、ときどき紹介していきたいと思っています。いま、こういった民話が親から子へと語り継がれることが稀になっています。ですので、こういった看板の設置や書籍の出版は非常に意義深いと思います。近年では、土屋先生による民話集の出版がニュースになりました。または、こういった民話を盆口説に作り替えることも伝承の一助となりましょう。

 

13 松行の石造物

 県道脇の駐車場から歩いて金宗院を目指しました。その道中に興味深い石造物を見つけましたので、先に紹介します。所在地の字がわかりませんでしたので、項目名は大字から「松行の石造物」としました。

 標識に従って、駐車場から斜め奥に入っていく道を進みます。しばらく行くと、道路の左上に石造物が見えましたので上がってみました。庚申塔がないかなと思って寄ってみたのですが、そこは昔のめいめい墓でした。今は竹藪の中です。その墓原で見つけた石造物から紹介します。

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 こちらのみ、石造りの部屋を設けて安置されていました。丁重にお祀りされていることがわかります。昔の墓標は、普通想像する所謂「墓石」とは違って、お地蔵さんや五輪様の体をなしているものもございます。でも、こちらはお墓ではないような気がしました。全体的に直線的な表現が目立ち、殊に株の蓮の花にはそれが顕著です。朱がよく残り、保存状態が良好です。

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 こちらは、自然石の表面を浅く彫りくぼめて「南無阿弥陀仏」などと刻まれています。お墓なのでしょうか、または供養碑の類なのでしょうか。よくわかりませんが、あまり見かけない石造物だと思います。この手前に、いろいろな形のめいめい墓が並んでいますが、それらとは明らかに様相が異なります。

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 こちらは、上部は板碑型のようで、下部を見ますとまるで木彫りの仏様のような表現です。全体的に彫りが細かく、均整のとれた見事な表現ではありませんか。手足の指などごく細かい部分にもほとんど傷みがございませんで、非常に良好な保存状態です。周囲の竹がいよいよ繁ってきておりまして、倒伏が懸念されます。

 お墓の横からは山道が上に上にと続いていました。上の方に耕作地があったようですが行き止まりになるだろうと思って、元の道に返って金宗院跡へと進みました。すると今度は、下の道路に何やら石造物が見えました。

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  遠目に見ると、国東半島でよく見かける大型のお弘法様なのかなと思ったのですが、違いました。赤子を抱いた子安大師様です。さても朗らかなるお顔立ちに目が釘付けになりました。たいへん親しみ易そうな、そこら辺のおじいさんのようなお顔です。こちらはよほど信仰を集めたのでしょうか、石燈籠もあり、台座も高く、丁重にお祀りされています。

 私は名所旧跡を次から次にたくさん回りたくて、狭い道であっても行けるところまで自動車で行くことが多うございます。でも少し離れたところに自動車をとめて歩いて行くのも、新しい気付きがあってなかなかよいものだと感じました。車の通う道であっても、徒歩なりゃこそ目に入る景物がございます。

 

次回は金宗院跡からスタートします。