大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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都甲路を行く その4(豊後高田市)

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 前回、金宗院への道中の石造物まで紹介しました。今回はいよいよ金宗院跡です。こちらは興味深い石造物が多々ございまして、近隣の名所旧跡の中でも指折りのお勧めスポットです。

 14 金宗院跡

  県道脇の駐車場から、標識に従って脇道を斜めに入ればあとは一本道です。右に左にカーブし、ゆるい登り坂を経て金宗院跡に着きます。

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 境内入口には石造の仁王様が睨みをきかせています。このような造形の石造仁王像は上部の細い部分が破損している例が多い中で、こちらは驚くほど良好な保存状態にて、破損個所がほとんどございません。上体をぐっと反らして、威厳に満ちた立ち姿です。その表情も相俟って自信満々に威張った感じがします。両足と衣紋の裾の3点指示というのはお馴染みのパターンでして、バランスのとり方に難渋したことが推察されます。

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 文字が見にくいかもしれませんが、金宗院のいわれと石造物の位置関係については説明板の写真を参照してください。

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 個性豊かな羅漢様です。近隣では四日市の「東光寺五百羅漢」が著名で、あのようにものすごくたくさんの羅漢様が並んでいる場合は別として、十六羅漢様などは普通、ある程度の列をなして配置されていることが多いような気がいたします。ところがこちらは、その数のわりには列をなすこともなく、自由気ままに並べられているような雰囲気が感じられました。

 羅漢様がめいめいにいろいろな格好でおわしますのを拝見して、子供の頃の「羅漢廻し」の遊びを思い出しました。これは文殊講などで子供が大勢集まったときの室内遊びです。車座になりまして、〽羅漢さんが揃うたらそろそろ廻そじゃないかいな、ヨーヤサヨヤサ、ヨーヤサヨヤサ…云々を斉唱します。はじめは手拍子をしておいて、囃子にかかるところから手振りをつけます。「ヨーヤサ」でめいめいに好きなポーズをとります。そうしましたら次の「ヨヤサ」で、めいめいに右隣の人のポーズを真似します。次の「ヨーヤサ」では、まためいめいに右隣の真似をします。これの繰り返しで、徐々にテンポを上げていきまして誰かが所作を間違えたら、また「羅漢さんが揃うたら…」から始めます(間違えた人は輪から外れます)。次から次に右の人の真似をするのを繰り返すことで、人はその場から動きませんのに、所作が車座の輪を右回りにどんどん廻っていくことになります。その所作の一つひとつをいろいろな羅漢様の格好と見まして、あたかも羅漢様がぐるぐる廻っていくかのようでありますので、羅漢廻しと呼んだのでしょう。懐かしい遊びです。ほかにも「じょうり隠し」や「狐取り」など、今は全く見なくなった遊びがございました。〽じょりかん隠しくーねんぼ…や、〽いーちくたーちくたーよむさんが…、〽おんきょんきょろ橋はしづめの…、〽おんしろしろしろお城のさん…、〽一列らんぱん破裂して…などの唄を覚えておいでですか。今は、唄いながら遊ぶ子供を全く見かけなくなりました。隔世の感がございます。

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 私はこちらのお方の表情が特に気に入りました。頭巾の細かい文様も見事です。

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 こちらが堂宇の跡地です。残念ながら崩れてしまい、今は石積みが残るのみとなっておりますが、ご親切に昔の写真を掲載した案内板を設置して下さっています。これは大変よいことだと思います。こちらのような○○跡といった名所旧跡のみならず、たとえば街角にちょっとこういう看板がありますと皆さん興味を持たれるでしょうし、郷土を知るきっかけになります。家族の会話のきっかけにもなりましょう。

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 六地蔵様と三尊形式の仏様が並んでいます。いずれも石板に半肉彫で表現されており、立派なものです。殊に右の三尊に至っては、仏様のみならでめいめいの上部の枠の細かい装飾が見事ではありませんか。

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 堂宇跡の上がりはなには、背の高い仏様が参道の両側に向かい合って立っています。入口の仁王様とは対照的に、やさしいお顔にほっといたします。よく見ますと右の仏様(上の写真)は蓮華座におわしますのに、左の仏様はお手水の上におわしますではありませんか。こちらは何らかの原因で台座が破損したのかもしれません。

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 たいへん立派な国東塔と、いぐりんさん(五輪塔)です。こちらの国東塔は、後年修復されたものとのことで造立時のものではありません。でも周囲の石造物の中にあって違和感が全くございませんし、返花のところが豪華な感じで素晴らしいと思います。

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 堂宇跡の左側から上がると、小さなお稲荷さんで突き当りになっています。後ろの木の枝ぶりが特徴的で、大きなこぶがいくつもあります。ねきに何かをお祀りしたくなる気持ちがよくわかる、立派な木でございます。このように大きなこぶのある木は、昔よくお乳の出ないお母さんが願掛けに、こぶに小さな傷を入れた云々の伝承をよく聞きますが、こちらは、案内板にはそのような言及はございませんでした。

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 お稲荷さんを右に行くと旧堂宇の跡地に至りまして、いぐりんさん、道祖神らしき石造物等がたくさん見られます。吉弘統幸公の供養塔もこちらにございます。植物の浸蝕がものすごく、しかも崩れたものを積み直したのか形状に違和感のある塔もございまして、荒廃の二字が脳裏をよぎりました。それでもこちらは日当りがようございますし周囲の整備が行き届いておりますのが救いです。

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 先ほどのお稲荷さんに返りまして反対に行きますと、賽ノ神の堂様がございます。こちらは建てなおされたもののようで、下部の煉瓦状の装飾などなんともハイカラな雰囲気がございまして、瓦屋根との対比に和洋折衷の妙が感じられます。賽ノ神は、伊美の別宮社にてよく知られておりますそれと同様のもので、たいそう立派です。子孫繁栄の神様で、今も近隣の信仰を集めているのでしょう。

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  もと来た道を振り返ると、なんとものどかな風景が広がっています。気持ちのよい場所ですし興味深い石造物が数々ございますので、ぜひ立ち寄ってみてください。

 

15 鶴の大師堂

 金宗院跡の駐車場から、県道を東都甲方面に進みます。都甲小中学校付近の二股を、左に行けばこのシリーズ第1回・第2回の長岩屋方面に戻りますので、今度は直進します。少し進んで長安寺入口の大きな看板を左折しましたら、左方向にト字分岐がありますので左折して小さな橋を渡ります。鶴の集落に着きました。屋敷の前を道なりに右に行き、川に沿うて進みます。ほどなく正面に大きめの貯水升、その左側にコンクリ舗装の狭い階段(手すりつき)があります。この階段が大師堂の参道です。自動車は、貯水槽手前左側が広くなっていますので邪魔にならないように駐車します。

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 堂様の前にお弘法様が立っています。以前訪ねたときは頭に日よけのきれをかぶっていたのに、今回はピンク色のチョッキを着ていました。きっと、近所の方が着せてさしあげたのでしょう。地域の方の素朴な信仰心に、どんな立派な仏様を拝見したときよりも大きな感銘を受けました。私のように名所旧跡を探訪するかたでに思い出したようにお参りをするのとはわけが違う、生活に根差した信仰がここにございます。先日の寒波で、国東半島は大雪に見舞われました。お弘法様が寒くないようにチョッキを着せてさしあげたお方の心根の、なんと清らかで、なんと優しいことでしょうか。今でもときどき、お地蔵さんに毛糸の帽子をかぶせてあげているのを見かけますが、こちらのように服まで着せているのは久しぶりに見ました。チョッキを着せてもらったお弘法様ばかりか、全く無関係の私の心まで温かくなったような気がいたしまして、寒空も何のその、元気がぐんぐんと湧いてまいりました。

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 足許に注目してください。じょうりを履いた足の指が細やかに表現されています。

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 お弘法様は丸々と太っていて、メリヤスが伸び気味です。後ろにひっくり返らないようにつっかえ棒で支えられているのが微笑ましいではありませんか。

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 こちらが以前お参りしたときの様子です。日よけのきれを被せてもらっています。

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 堂様の前を右に行きますと、境内隅に庚申塔などの石造物がございます。

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 青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 傷みが進み細かい部分が不鮮明になりつつあるのが残念です。金剛さんは実に堂々とした立ち姿で、衣紋を立体的に表現しています。特に下の方の波模様が見事ではありませんか。ところが脚は、裾の広がりにくらべるとやや細すぎるような気もいたします。弓の上端が枠にかかるように配置されているところがよいと思います。童子は、表情がよくわからなくなっていますけれども、ちょんまげのような髪型が個性的です。金剛さんの足元の小さな部屋の中には、猿が身を寄せ合っています。その下、向かって左の鶏の首が欠けているように見えるのですが、よくよく考えますと、おそらく左向きの鶏が首をひねって右の鶏を見返る形になっていて、その首が猿の下の枠に重なっており、摩滅によりその段差が不鮮明になっているためでしょう。シンプルながらよく整ったデザインの塔であると感じました。

 下部の文字は、小部屋の右に「靏村施主」、左に「末田氏」、さらに部屋の下部には4名の名前が刻まれています。「靏」は雨冠に鶴です。これは鶴の異体字で、ときどき苗字で目にする漢字です。こちらの地名は、今は「鶴」と書いていますが、当時は「靏」の用字が通用していたということでしょう。「末田氏」については、その意図するところが今一つ不明です。この塔は造立年が不明ですがおそらく江戸時代以前と思われます。苗字の名乗を許されていた階層の人が造立に関っていたわけではないような気がします。江戸時代の庶民は、苗字の名乗りを許されなかったといっても苗字(或いはそれに代替するもの)を全く持たなかったわけではなくて、たとえば屋号や小字名、通称地名その他を明治以降苗字に援用した事例が甚だ多かったようにありますが、「末田氏」とはこれいかに。或いは「末田」が苗字ではなくて組名のようなものであったのかもしれませんが「氏」とある以上、苗字のような気もいたしまして、そうであれば塔の表に堂々と刻むものだろうかなどと考えたのですが、確からしい答えは思いつきませんでした。この件について何か思い当たる方は、ご教示いただきたく存じます。

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  ものすごく湾曲した「記念碑」です。何の記念碑かよくわかりませんでした。おそらく境内を整備したか、または堂様の普請の記念でしょう。この湾曲した形は、玖珠町庚申塔(文字塔)にそっくりです。厚みのある、たいへん立派な形状です。

 

次回に続きます