大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

都甲路を行く その6(豊後高田市)

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234534j:plain

 「都甲路を行く」のシリーズの続きを書きます。いよいよ東都甲の谷の奥詰めまできました。鬼城岩峰からスタートします。

 19 鬼城岩峰

 東都甲の谷を登っていきますと、道路左奥に大きな堰堤が見えてまいります。これが並石(なめし)ダムで、下から見上げますとその大きさに圧倒されます。旧県道はダムの底に沈んでおりまして、今は堰堤手前より右に上がる付替え道を通ります。小さなトンネルを抜けるとすぐ左側がダム公園「こっとん村」で、トイレや食事処(お蕎麦屋さん)、小さな水車や花壇などが整備されておるほか、ダムの周りを自由に散策できるようになっています。この辺りは紅葉の名所として知られております。ほかに、春先にヒワやメジロの声が聞こえてくる頃もほんによいもので、お花見に訪れる方が後を絶ちません。

 冒頭の写真をご覧ください。ダム湖の向こう側に荒々しい岩山が見えます。ひときわ高い岩峰に大きな横穴が開いているのがおわかりでしょうか。この穴には鬼が棲んでいたという伝承がございまして、この鬼というのは所謂土蜘蛛の類の比喩なのかまたは修正鬼会の鬼なのかは分かりませんけれども、とにかくそのような伝承が今に残るのも納得の、ほんに恐ろしげな岩峰でございます。この岩山から並石、さらに三畑方面にまで広範囲に広がる岩峰群を並石岩峰と申しまして、ちょうど耶馬溪方面の岩山の景観によく似ていますので並石耶馬とも呼ばれています。その中でも並石ダム向い側の岩峰については鬼が棲んでいた云々から特別に鬼城(きしろ)と申します。あの穴に至る道もあるようですが大変な難所で鎖渡し等もなく落ちたら命の瀬戸、わたくしにはとても荷が勝ちましてとても登れそうもありません。

 並石ダムは昭和44年着工、昭和60年竣工とのことです。ダムがなかった頃の景色を知りませんので、図書館で郷土の写真集のような本をいくつも見てみたのですが、今のところダム以前の風景の写真に行き当たっておりません。今はダム湖に鬼城が映えて、水辺の風景は気持ちのよいものですけれど、ダムがなかった頃はどんな風景であったのでしょう。段々畑が広がっていたのではないかと思うのですが、なにせこのダムの水かさが下がっているのを見たことがございませんで、想像するよりほかありません。

 並石ダムは治水・利水のために大事な役割をはたしており、今やこうして観光名所としてたくさんの方が訪れるようになっています。でも失われたものもございます。できればダム湖畔に、昔の景色の写真などをパネルにして展示されますと、皆さんの興味関心を引くでしょうし、この地域で一所懸命に暮らしていた昔の方(苦労して山田を拓かれたと思います)へのある種のお供養にもなるような気がいたします。豊後高田市は名所案内や昔話のパネルなどあちこちに興味深い看板を設置してくださっていますので、いつかダム公園に昔の風景のパネルが設置されるのではないかなと楽しみにしているところです。

 

20、大内岩屋

  並石ダムを左に見て進むと、道路が二股になっています。ここは左に行きます(右に上がると一畑の上に出ますが走水峠方面に行くにしても却って遠回りになるだけですし狭いので通行はお勧めできません)。そのすぐ先の二股で東都甲の谷が二手に分かれており、左が並石、右が一畑(いちはた)です。まず並石方面に登ります。

 並石集落のかかり、橋の手前に「大内岩屋観音」の手作りの標識がありますので、ここを右折ます。道なりに行き、急な右カーブの突端に駐車できるようになっています地域の方による手作りの案内板があり、駐車可能な位置を示して下さっていますのですぐわかります。

 細い道を奥へと歩いていくと、たくさんの手彫りの仏様が並んでいます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234718j:plain

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234721j:plain

 ひとつひとつの石に、たくさんの仏様が彫られているのがおわかりでしょうか。こちらはそう古いものではございませんで、この集落の方がお一人で一つひとつ彫られたものです。いずれも素朴で、愛らしくて、優しそうなお顔でございまして、山路を辿ってお参りに来た方々をあたたかく迎えてくださっているような気がします。たくさんの仏様が野もせに無造作に並べられ、周囲の自然とよくとけ合うています。

 ところで、大昔の方は、石、水、木、火、天、いろいろな事象のそれぞれに神様・仏様を見出して、そこに素朴な信仰がございました。それは、何々でありますようにといういわば能動的な願いというより、「生かされている」という根源的なものです。このシリーズの初回にて申しました通り並石は豊後高田随一の高所にて、特に自動車が上がるようになるまでは、この地域での生活はさぞや厳しいものであったであろうことが推察されます。おそらく昭和40年代も半ばまではその状況が続いていたことでしょう。それは、六郷満山の仏教文化が花開いて長い年月を経ても、根源的な信仰というものが保持される環境であったということです。意識的なものではなくて、この土地でで生きる方の中に元からあったものです。その意味で、こちらの仏様は野にあってこそ意味のあるものであって、堂様に安置される類のものではないのだと思い至りました。わたくしのような部外の者にも、とても大切なことを示唆してくださる仏様です。こちらを訪問される方はきっと一様に、仏様のかわいらしいお姿、優しそうなお姿に目を細められることと思います。そのときに何か感じるものがあれば、それこそ何の願い事よりもありがたい御利益ではないかと思います。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234725j:plain

 少し行くと、小川の横の岩に磨崖仏が見られます。こちらも、先ほどの仏様を彫られた方によるもので「川中不動」とのことです。その名の通り天然寺の川中不動を模したもので、おそらくこの地域の治水を願うてのことでありましょう。

 この先は段々畑の横を上がっていきます。山田を拓いた昔の方の苦労はいかほどであったことでしょう。そんなことに思いを馳せながら頑張って登ると、ほどなく大内岩屋に到着します。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234730j:plain

 立派な宝篋印塔が残っています。こちらが大内岩屋です。大きな岩屋の中に、二階建ての立派な堂様が建っています。こちらは絶対に秋がお勧めです。大きな銀杏の木があって、一面に銀杏が散り敷いた時季の夕方に訪れますと、ちょうど堂様に日が差して、なんともいえない風情がございます。この辺りまであがってきますと休耕田が目立ちます。昔の方が苦労して拓いた田んぼが休耕田になっているという実情には胸が痛みますけれど、秋には尾花や茅が風になびき、その波が夕陽を受けて金色に輝く光景が広がります。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234732j:plain

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234734j:plain

 岩屋の上段、下段それぞれ自由にお参りができます。階段は踏み板が薄くちょっと不安になりますが、いつもきれいに掃き清められています。有名な場所ではございませんが名所中の名所でありますので、秋の日長に景色を楽しみながらお参りをされてはいかがでしょうか。

 

21 梅遊寺

 梅遊寺(ばいゆうじ・現在無住)にはたくさんの興味深い石造物がございまして、興味関心のある方がときどきお参りをされるようです。こちらは標識が一切ございませんで参道入口までの道順がたいへん分かりにくいので、詳しく説明します

 並石ダムから数えて2つ目の二股を右折し、一畑に登っていきます。急坂を登りますと段々畑が広がり、この急傾斜に見事な石垣をついて民家が並んでいます。この集落のかかり、道路左側に貯水槽とゴミ捨て場があります。この先適当な駐車場所がなく、こちらに邪魔にならないように停めさせていただくよりほかありません。その少し上、道路の両側に小屋があります。右側の小屋のすぐ先を右折し、背戸を入って行きます。民家に突き当たったら右に曲がり、そのまま左側に民家を、右側に田畑を見ながら左奥に回り込むように進んでいきますと、左側に参道石段があります。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234752j:plain

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234756j:plain

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234802j:plain

 こちらの仁王さんは補修の痕が痛々しく、腕は折損しています。例によって三点指示にて立っていますけれども、昔転倒してしまったか、または廃仏毀釈の煽りを受けたのかもしれません。目鼻立ちのくっきりとしたお顔はいかいも厳めしげな感じがして、よく整っています。昔、傷みが進む前はさぞや立派なお姿であったと思われます。境内にはたくさんの石造物が並んでいます。中には文化財指定を受けているものもあります。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234915j:plain

 写真がよくないので分かりにくいと思いますが、板碑の梵字を見てください。とても立派な彫りです。大きなものではございませんが、よく整った秀作といえましょう。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234919j:plain

 こちらの板碑には、三段にわたって13もの梵字が彫られています。これは十三仏の種子であって、この小さな板碑一つに十三仏が表現されているというわけです。ほんにありがたい板碑でございます。十三もの仏様を一つの板碑に表しているのは、かなり珍しいのではないでしょうか。この近くには庚申塔も2基見られます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234930j:plain

(左)青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

(右)青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 残念ながら両方とも傷みが進んでしまっており、細かいところは全くわかりません。右の塔は笠も落ちてしまっていますが、碑面はまだこちらの方がいくらか良好です。両者は造形がそっくりで、いずれも元禄14年の造立です。今から320年も前の塔ですから多少は傷んでいても仕方ないとは思いますが、それを考慮しても傷みが深刻です。石材の質によるところが大きいのでしょう。加工し易い軟らかい石材を使用したために、傷みが早かったと思われます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234924j:plain

 こちらの石幢も、笠が落ちています。でも塔身の仏様が比較的よく残っているのが救いです。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234928j:plain

 こちらの宝塔は比較的良好な状態で、格挾間など細かいところもよくわかります。

 以上、梅遊寺の石造物を紹介いたしました。傷みが目立つものが多いのが残念ですが、いずれも貴重な文化財です。どうにかこれ以上傷みが進むことなく今の状態が保たれればと願っています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210130234747j:plain

 一畑の集落です。こちらは田植の時季や稲刈りの頃ももちろんよいのですが、春が特にお勧めです。棚田の石垣と菜の花がよく調和しています。こちらには、梅遊寺畑(ばいゆうじはた)の呼称もございます。一畑よりは狭い範囲を指す地名ではないかと思うのですが、詳しくは存じておりません。梅遊寺ありきの地名であることは言うまでもございませんが、単純に「梅遊寺畑」の字面を見ますとなんとなく風雅な感じがいたしまして、この菜の花の光景とも相俟って、いよいよ「一畑は春」の印象を強くした次第でございます。

 

 以上で、このシリーズはいったん打ち切ります。途中で飛ばした名所旧跡がかなりございますので、また折を見て紹介したいと思います。これまで地域ごとのシリーズ記事では、1回の更新でだいたい3から4か所の名所旧跡・文化財を掲載してきたのですが、これが連続するとなると思いのほか大変で、骨が折れました。その一つひとつを単独で紹介するのではなく地誌的なところも含めて紹介するにはこのような書き方の方が都合がよいのですが、今後はもう少し、一記事あたりの分量を減したいと思います。ご覧いただく方には若干分かりにくくなるかもしれませんが、無理なく長く続けていきたいと思っています。今後ともよろしくお願い申し上げます。