大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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蛇渕の磨崖仏(山香町)

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 山香町の磨崖仏を紹介します。今回は鳥ノ江(とりのえ)にあります蛇渕(じゃぶち)の磨崖仏です。この磨崖仏は前回紹介しました西鶴の磨崖仏よりもずっと行きやすいので、気軽にお参りすることができます。けれども入口が分かりづらいので、詳しく説明いたします。

 

1 蛇渕の磨崖仏

 神田楽市近くからライスセンターの横を通って、峠を越えて吉野渡方面に向かいます。道なりに行きますと突き当りになって、右は立石、左は安心院方面(山浦経由)です。この三叉路の辺りが鳥ノ江の集落です。車は三叉路手前の路肩が広くなっているところに停められます。

 三叉路を右に行って、道路右側、道路際に民家が1軒あります。その民家の手前左側に、冒頭の写真のようにガードパイプが切れているところがあります。ここから畦道に下りて、奥までまっすぐ進みます。この奥に、史談会による文化財の標柱がございます。そこから正面の川を渡ります(ごく小さな橋がかかっています)。この辺りを蛇渕と申しまして、昔は川の屈曲部が深い淵になっていたそうですが、今はその淵も土砂で埋まりまして昔日の面影を残しておりません。

 沈み橋を渡りますと、細い道が川に沿うて右方向に続いています。この道を進んでいくと栗林に出ますが、そこまで行くと間違いです。ほんの少し右に行ったら、すぐに折り返すように左上の竹藪に上がります。ごく僅かな踏み跡がありますが見落としやすいので、よく気を付けてください。f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20210204004336j:plain

 この竹藪に上がったら、左奥の岩壁を目指します。道らしい道はないので、適当に進んでください。ここまで来れば目と鼻の先ですので、すぐわかると思います。

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 こちらが蛇渕の磨崖仏です。岩壁を矩形に彫りくぼめて、三体の仏様を彫出しています。彫りが浅いうえに風化摩滅が進み、像容が不鮮明になっているのが残念です。素朴かつ小規模な磨崖仏ですので、よほど興味関心のある方でなければお参りには来られないようです。でも、西鶴の磨崖仏の記事で申しましたように風化摩滅した磨崖仏をじっくり拝見しますと、今ちょうど岩壁から仏様が現れつつあるように見えてまいります。こちらも、この岩壁から3体の仏様が現れてきているように想像しますと、なんともありがたいではありませんか。昔の方はどんな思いで手を合わせたのかななどいろいろなことに思いを馳せますと、こちらの仏様が現代を生きる我々と昔の方をつないでくださっているような気がしてきました。文化財というものは私達にいろいろな示唆を与えてくれる、ほんにありがたいものだと思い至りまして、ひとり感慨にひたった次第でございます。

 

2 蛇渕の磨崖仏の由来

 蛇渕の磨崖仏について興味深い伝承がございますので、簡単に紹介します。

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 この磨崖仏の手前に川が流れています。昔、その川の屈曲部が深い淵になっていて、そこに大蛇が棲んでおりました。この恐ろしい淵を蛇渕と呼んで、みな警戒していました。

 天文3年、勢場ヶ原の合戦で怪我をした阿部備中守が鳥ノ江に暮らしていました。その娘の名を菊姫というて、まだ幼子でした。ある日、親の目の届かないうちに菊姫が蛇渕のところで遊んでいました。いつの間にか姿の見えなくなった娘を心配して近所を捜しましたところ、蛇渕に菊姫の手まりが浮かんでいました。菊姫は誤って蛇渕に落ち、大蛇に食べられてしまったのです。

 我が子を奪われた両親は大蛇を退治しようと、菊姫の着物にたくさんの縫い針を仕込んでそれを藁人形に着せて、蛇渕に投げ入れました。するとそれを丸呑みにした大蛇はのたうち回り、そのうち淵の底に沈んで姿が見えなくなりました。

 その後、何かと不吉なことばかりが起こりますので大蛇の祟りを恐れて、我が子のお供養と祟り避けのために、付近の岩壁に弥陀、観音、勢至の三尊を彫りました。これが今に残る蛇渕の磨崖仏です。
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 ざっと、このようなお話です。きっと小さい子が危険な淵に近づかないように言い聞かせるため、この近隣で語り継がれてきたのでしょう。これと似たような民話はよその土地にも伝承されているかもしれませんが、磨崖仏の造立にからんでいるのは類を見ないのではないでしょうか。できれば現地に説明版等があるとより分かり易いと思います。