大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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櫛海越を行く―伊美の名所・文化財その3―(国見町)

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 1月から2回チャレンジして見つけられなかった伊美中須賀組の庚申塔に、先日やっと行き着きました。それで、久しぶりに伊美の名所・文化財を巡るシリーズの続きを書くことにします。今から慈雲寺を振り出しに、パイロット道を上がり櫛海越の旧道を辿っていきます。昔は自動車が上がったパイロット道もみかん園の廃絶により荒れており、徒歩以外は困難です(4駆であれば通れるかもしれません)。集落内に適当な駐車場所がありませんので、近くの「みんなん館」に駐車させていただくのがよいでしょう。

 

7 慈雲寺

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 みんなん館に駐車したら、橋を渡って中須賀地区を目指します。慈雲寺の立派な建物が遠目にもすぐわかります。見事についた石垣の中を上がる石段の両側に、均整のとれた石燈籠と石造仁王像が並んでいます。

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 いかがですか。頭身比など違和感がございませんで、写実的なデザインが見事です。衣紋の下部が大きく後ろになびいて、たっぷりとひだをとった裾まわりのなめらかなカーブの美しさは特筆ものでございます。こちらの仁王様は、昔は伊美別宮社に安置されていたそうで、神仏分離に伴いこちらに移されたそうです。別宮社からは比較的平坦な道ですのでおそらくコロを利用して運んだのでしょうが、下の道路からこの石垣の上にどのようにして上げたのでしょうか?その時代クレーン車などなかったでしょうに、この重そうな石造仁王像を2体、石垣に上げるのは一筋縄ではいかなかったと思います。櫓を立てて綱をかけ、ヤレ引けソラ引けの木遣音頭にて引き上げたのかもしれません。でも、どうにか真上に上げても、そこから中空を横移動して石垣に移すのは困難を極めることでしょう。どんな方法で移したのか気になります。

 ところで、慈雲寺には国東塔やマリヤ観音様などの文化財がございます。ぜひお寺参りをさせていただき文化財を間近で見学したかったのですが、仁王像の間を上がる正面入口の上部に横木を渡して通行止のようになっておりました。別の入口から入ればよかったのでしょうが何となく気が引けて、境内には上がらずじまいです。

 

8 中須賀の庚申塔(下)―長田平―

 慈雲寺のすぐ右側から、境内裏の墓地の方に上がっていきます。かつて慈雲寺の裏山にパイロット事業でみかん園が拓かれていましたが、先述の通りそのみかん園は廃絶し、墓地を過ぎると路面が荒れています。

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 道なりに行きまして、ここを左に折り返すように上がります。

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 こちらは直進します。ここはX型の交叉点になっていて、Xの左下から進入して左上に抜けるようなイメージです。目印として、このすぐ先の右上にお墓があります。この道が櫛海越の旧道で、チギリメン隧道の開通以前に伊美と櫛海(くしのみ)の往来に盛んに通行された道路であったとのことです。おそらくその当時は自動車が通る幅はありませんで、今の道幅はパイロット事業によるものでしょう。あとは一本道です。分かってしまえば簡単なもので、どうして2回も辿り着けなかったのか不思議に思いましたが、2回とも間の悪いことに違う方へ違う方へと進んでしまったようです。

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 中須賀の庚申塔(下)に到着しました。所在地の小字は長田平です。道路の右側、大きな椎の木の根元に安置されておりすぐわかります。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏

 こちらは塔の外周をあまり加工せず自然の形を生かしたうえで、碑面を5角形に彫りくぼめてあるのが特徴です。その彫り込みと外周との間の広い余白に、正徳元年(1711年)の銘が見えます。頭巾をかぶった金剛さんはにっこりと笑顔を見せて、まったく怖そうな感じがしません。やさしいお顔にほっといたします。頑張って捜してやっと見つけた喜びに、金剛さんも「よかったね」と言ってくれているような気がしまして、いよいよ嬉しくなりました。比較的厚肉の彫りで、立体感に富んでいます。三叉戟や蛇などの持ち物も太めのタッチでくっきりと表現しており、そのためか風化摩滅もほとんど気になりません。猿や鶏のささやかな感じの表現もまたかわいらしいではありませんか。2匹の札と鶏に囲まれた中央部分の余白と、猿の足元側の余白にはやや段差があります。それで猿の下半身以外と鶏の背中がそれぞれレリーフ状になっており、おもしろい表現方法だと感じました。

 ところで、国見町にはこの塔に酷似した像容の庚申塔がいくつかございます。近隣では、峯の清正公様の庚申塔がこれにそっくりです。ほかに岐部や竹田津にもこの種の塔が数基見られますほか、香々地にもございます。ところが、国見町香々地町以外には全く見られません。同じ石工さんによるものであることが推察されますが、このタイプの塔は主尊の像容が一般的な青面金剛とはあまりに違うことや、蛇を握っている等の特徴から潜伏キリシタン・伝承キリシタンの遺物ではあるまいかとも言われております。所謂「異相庚申塔」です。その真偽のほどはさだかではありません。所謂「北浦辺」の地域(香々地町国見町)は確かにキリシタンの多かった土地でありますが、像容のみをもって一概に決めつけることはできませんし、もしキリシタン云々の伝承がないからといって一概に違うとも言えないのです。たとえ庚申様を隠れ蓑にした仮託信仰の対象物であったとしてもその信仰が土着化したり、または伝承の途絶により、本来的な庚申様としてのみ認識されるようになった可能性も考えられます。

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 こちらは、中には石が置かれてあるだけでした。その石も、何か意味があるのでしょう。側面に「六月十一月 庚申日守」と彫られています。勉強不足で意味がよく分かりませんでした。もしかしたら6月と11月に庚申様のお座をするという意味かなとも思ったのですが、必ずしも6月と11月に庚申の日があるとは限りません。庚申講は「六庚申」と申しまして、1年に6回廻ってくる庚申の日にお座をします。ときどき7回庚申の日がある年もありますが、その年もお座は6回のみです。この六庚申が、あまり回数が多すぎて座元の回りが早く講員の負担が大きいとして、四庚申、二庚申など数を減していた講組もかなりございました。ですからこちらが年2回のお座であってもおかしくはないのですけれど、「六月十一月」がひっかかります。もしかしたら農作業に障りのないように、庚申様が田植前の「地獄入り」や田植後の「さなぶり」、または稲収納後の収穫祝い等の集まりと融合し、庚申の日がその月にない場合は7月・12月の庚申様を前倒しで6月11月にした可能性も考えられます。これはあくまでも仮説ですので、『国見物語』などの資料にまた目を通して、真相が判明したら追記したいと思います。

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 庚申塔の後ろには、椎の木の周りに庚申石、所謂「庚申様の家来」がいくつも見られました。

 

9 中須賀の庚申塔(上)―東葛原―

  長田平を後に、櫛海越の道を先に進んでいきます。ほどなく、道が二股になっているところの突き当りに庚申塔が見えてきます。

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 中須賀の庚申塔(上)に着きました。こちらは小字を東葛原と申します。長田平、東葛原ともに中須賀組の庚申塔ですので便宜的に上下をつけましたが、実際には標高差はさほどございません。同じ講組の塔であれば同じ場所に2基並べてもよさそうなものを、どうして少し離してあるのでしょうか。この2か所の共通点として、櫛海越の道から枝道の分かれる三叉路に位置するということが挙げられます。そして、中須賀から上がっていきますと下の庚申塔は進行方向(集落と反対方向)を向いて、上の庚申塔はいま来た方向(集落の方向)を向いて立っています。このことから察するに、下の庚申塔は集落に悪霊などが入って来ないように外を向いて、上の庚申塔は集落の作の神的な霊験を期待して内を向いて立っているのではないかと思います。ただし、これは2つの塔が本来的な庚申塔であればの話であって、先述の通り潜伏キリシタンの仮託信仰の対象として造立されたのであれば全く筋違いの推測になってしまうので、判断に迷うところではあります。

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 上の庚申塔は道路から一段高いところに安置されているうえに、下の塔よりもどっしりとした形でありますので、いよいよその迫力を感じます。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏

 細かい違いはありますが、デザインとしては下の庚申塔に酷似していることにすぐ気づきました。大きく違うのが、主尊のお顔です。目鼻の辺りがやや傷んでいることもあってか、こちらはやや厳しそうな表情に見えます。頬が膨れて、むっちりとしたお顔立ちでございます。頭にはターバンのようなものを巻いているのでしょうか。手に持った蛇の大きさといったらどうでしょう、まるで青大将でも握っているかのような迫力です。

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 横から見ますと厚肉彫りにて諸像をくっきりと表現しており、しかも重なる部分の前後差も違和感がございません。国見町香々地町のみに見られるこのタイプの庚申塔の表現方法として、完成されたものであったのでしょう。先ほどデザインとしては下の庚申塔にそっくりだと申しましたが、実は下の庚申塔にもまして、これによく似た庚申塔香々地町にございます。夷谷の、焼尾公園の下の観音堂と国東塔の中間にある3基のうちの1つです。諸像のデザインばかりか塔全体の形(左上が突出している)もそっくりなのです。こちらを見学したときには不整形の自然石に近いものとばかり考えていましたが、後になって焼尾の庚申塔にそっくりであることを思い出しまして、もしかしたら意図的にこのような形に仕上げたのかもしれないと思い至りました。ただ、それがどのような目的であるのかは分かりません。

 

10 櫛海越の石造物

 庚申塔に手を合わせて、櫛海越の道を少し歩いてみたくなり塔の前を左にとって先に進んでいきますと、興味深い石造物を2つ発見しました。

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 こちらは道路の右側に立っている「大乗妙典千部」の塔です。よく一字一石塔を見かけますが、千部とはこれいかに。推測ですが写経した紙を千部、この下に埋めてあるのかもしれません。

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 こちらは、大乗妙典千部の塔と道を挟んで反対側にあった記念碑です。興味深い内容ですので碑文を起こします。

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昭和三十三年国見町初めての大事業総合開発事業
大柑橘園造製に付町民の同意を得る為日夜
誘導に専念し今日に至る又昭和三十七年農業
構造改善事業にも率先して区民を誘導して今
日に至る総合開発は昭和三十八年度 農業構
造改善事業も三十八年度から両事業に全力を
尽し実を結びたるを記念し此の碑を建立
  昭和四十年七月
       俗名 野田 豊
            アサヲ

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 旧字のみ新字体に改めました。また「造製」の用字は原文のままです。パイロット事業と農業構造改善事業に関する記念碑でした。事業の先頭に立ち尽力したご夫妻のもので、顕彰碑の類ではなく、自らの努力の記念として建立されたものでありましょう。

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  櫛海越の旧道は、先へ先へと続いています。時間の関係でこれより先へは踏み入れませんでした。このまま進むと、位置関係から、峯の清正公様の辺りから妙見隧道上へとつながっている車道の途中に出ると思われます。

 

今回はこれでおしまいです。捜していた庚申塔を見つけたばかりか、それ以外の石造物も偶然見つけることができ嬉しい探訪でした。