北杵築の名所・文化財 その7(杵築市)

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 久保畑東組の庚申塔を見つけることができましたので、北杵築シリーズの続きを書きます。下記のうち27番「境木の大日堂」につきましてはシリーズ第1回目で紹介しました2番「境木」と同一箇所でありますが、写真を撮り直すことができましたので改めて詳しく説明いたします。

25 芦刈地蔵

26 久保畑東組の庚申塔

27 境木の大日堂

 

25 芦刈地蔵

 溝井は四辻(よつじ)の交叉点から大片平(おかたひら)方面に行きます。県道新道の高架橋の下を通ってさらに道なりに行きますと、道路がY字の二股になっています。右前は南平(みなみひら)経由で境木(さかいぎ)へ、左前に行けば久保畑(くぼばた)経由で八坂へ。この二股のやや手前を右折すればお茶畑を縫うて二ノ坂に至ります。さらにタタラ池経由で山中に至る道もあります(自動車の通行は困難です)。このあたりの字を芦刈(あしかり)と申しまして、この小集落は近隣地域の交通の要衝であります。

 芦刈の二股を久保畑方面にとり、僅かに進むと道路の右側に大きな木のある堂様がございます。こちらが芦刈地蔵です。自動車は路肩が広くなっているところにとめられます。

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 どなたでも自由にお参りができるようになっています。こちらのお地蔵さんは半肉彫りにて表現されていまして、そのお顔立ちが独特です。愛らしい雰囲気が感じられまして、とても親しみやすいお地蔵さんです。

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 境内にはいぐりんさん等の石造物が散在しています。破損していたり重ね方がちぐはぐになっているものも見られます。倒壊したものを積み直したり、または圃場整備や道路工事などで近隣からこちらに移されたものもありましょう。

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 大きな木のねきに、台座を設けてお弘法様の祠が見られます。向かって右側の首が折れてしまっている仏様も、たぶんお弘法様でしょう。もしかしたら帯刀伝平さんと関係のある史蹟なのかもしれません。

 これで、北杵築の主要な地蔵尊(竹ノ尾地蔵・北村地蔵・轟地蔵・芦刈地蔵)をすべて紹介することができました。興味関心のおありになる方は、これに高熊山の弘法霊場を加えた5か所を巡拝されてはいかがでしょうか。きっと御利益が得られましょうし、その道中にて方々の庚申塔等の文化財の見学や神社参拝など、時間に応じていろいろなコース設定が考えられます。波多方峠や各地の溜池、お茶畑など北杵築らしい風景を眺めたりすることもできます。きっと楽しい1日になることでしょう。

25 久保畑東組の庚申塔

  自動車は芦刈地蔵の側、路肩の広いところにとめておきます。芦刈地蔵のすぐ先、橋の手前を右折し進んでいきますと、いちばん奥の田んぼのところから井路に沿うた山道になり、左に川を見て進むことになります。

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 ほどなく道が途絶えますので、適当なところで徒渉します。きれいな川です。この写真のあたりが渉りやすいでしょう。右に川を見ながら奥に行くと、冒頭の写真の庚申塔に到着します。または芦刈地蔵の先の橋を渡ってすぐ右折し、久保畑東組の集落への上り口を左に見て田んぼ道を直進し、左の山すそに沿うて道なりに行けば渡渉せずに庚申塔まで行くことができます。わたくしは前者の道順で訪れましたが、後者の道の方が分かり易いかもしれません。

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 この塔の前にて道路が三方向に分かれています。すなわち久保畑方面・芦刈方面・山中タタラ池方面であり、今はこの道を通行する方は稀になりましたが、以前は集落間の移動によく通られていたようです。庚申塔の所在地としておあつらえ向きの場所であります。

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青面金剛4臂、2猿、1鶏

 折損の痕が痛々しく、風化摩滅が進み造容が不鮮明になりつつあるのが惜しまれます。火焔光背も勇ましく、ギョロリと眼を剥いた金剛さんは腕がたいへん太くて力づよそうな感じがいたします。よく見かける青面金剛像とは、三叉戟と宝珠の持ち手が左右反対になっております。三叉戟を握る指が写実的に表現されていることから、もともとは衣紋の表現なども緻密なものであったことが推察されます。腕の生え方が上下離れているなど稚拙なところもありますが、実に堂々としたお姿ではありませんか。その下では2匹の猿が向かい合うて、まるで「ええじゃないか」を踊っているような浮かれ調子にて両手と片足を上げています。対称性を崩した表現で、いきいきとしていて素晴らしいと思います。向かって右の猿の後ろ、隅の方に1羽だけ配された鶏は、大浮かれの猿を呆れて見つめているように感じられました。

 たいへんおもしろいデザインのこの塔には、ひとつ、大きな特徴がございます。側面に偈文が刻まれているのです。2つ上の写真に写っているのですが、分かりにくいかもしれません。庚申様の真言ではなくお経の偈文というのが珍しく感じますが、おそらくこちらの庚申講では声明を唱えていたのでしょう。

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 この道を奥へ奥へと進んでいけば、山中地区はタタラ池の方に出られます。以前は軽自動車であれば通行できましたが、今は途中から道が荒れて車は通られません。

 

27 境木の大日堂

  芦刈の二股を南平方面に行き、九十九折のだんだら坂を登っていきます。南平の集落を過ぎると、二の坂から登ってきた道と合流するところに公民館が建っています。ここが大日堂です。

 ところで、北杵築地区のほぼ全域が八坂郷でしたが、大字大片平(おかたひら)については山香郷に属していました(小武(おだけ)の枝村)。つまり大片平のみ日出藩領であったということです。大片平は南北に細長い村で、松村、尾藤、尾下、境木、上村、南平、芦刈、久保畑といった小集落が点在しています。溝井と谷続きの久保畑から高熊山麓の松村まではかなりの標高差がございまして、この地域内の往来にもさぞ難儀であったことと思われます。そして大片平と小武の間は山地で隔たれており、相互の行き来には松村・刈屋間の高熊越か、上村・今畑間の甑岩(こしきわ)越を通るよりほかありません。いずれも山越道で、今は自動車が通りますが昔は七折八折の細道でした。とにかく不便でありましたので、大片平は明治8年に小武から分立し、明治22年の町村制では東山香村ではなく北杵築村に入りました。これは地理的に見ても自然なことです。なおこれは余談ではありますが、もう10年以上前に大日堂の盆踊りでご高齢の方に伺った話では、境木では戦前まで「山香の踊り」も踊っていたということです。

(旧来の盆踊りの演目)

西溝井 三つ拍子、六調子、祭文、ヤッテンサン

境木 三つ拍子、六調子、祭文、ヤッテンサン、レソ、二つ拍子、粟踏み、豊前踊り

 両者を比較しますと、境木にあって西溝井にない踊りに「レソ」「二つ拍子」「粟踏み」「豊前踊り」があります。これらが山香の踊りです。また「三つ拍子」の踊り方も、境木では昔は「足を引き引き踊っていた」とのことで、この「足を引き引き踊る」というのは山香の方の所作でありまして、杵築とは異なります。このように、盆踊りの演目や所作ひとつとりましても、大片平と小武(山香)とのつながりを実感することができました。今では、大片平で山香の踊りを踊ることはなくなっておりまして、「足を引き引き踊る」所作も見かけません。当時、たまたま昔の盆踊りの様子を教えてくださったおじいさん。ほんにありがたいことでございます。

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 シリーズ第1回目の記事でも紹介しましたが、こちらが旧杵築領と旧日出領の境界です。罪人を追放する際、二ノ坂の太刀持坂を上がってきてこちらで追放したとのことです。今から、公民館の建物の右側から反時計回りに移動して石造物を見ていきます。

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 お弘法様です。きっと公民館でお接待を出すのでしょう。

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 この地域の庚申塔には珍しく、猿田彦の文字塔です。堂々とした、見事な書体でございます。こちらは大正11年の造立とのことで、市内の庚申塔の中でも特に新しいもののうちの一つです。ちなみに最も新しいものは山中は平田(ひらんた)集落にある塔で戦後のものとのことですが、まだ見つけていません。

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 立派な笠が見事なこちらの塔には「大乗妙法典日本回国供養塔」とあります。これは日本全国六十六部の巡礼を終えた記念の塔です。1つの国につき1か所の霊場法華経を一部納めては次の国に行くという巡礼方法にて、当時66の国がありましたので「六十六部」と申します。これは世俗にも広く行われまして、よく「お六部さん」などと呼んでいました。盆踊りの口説の、「お塩亀松」等で聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。お四国さん、お伊勢さんなどですら講中で費用を積み立ててやっと代参者を出していた時代に、全国の巡礼とはたいへんな困難を伴ったことと思います。記念に塔を立てたくなるのも道理でございます。

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 文化財の大日様のお室は、保護のため簡易的な造りの覆屋をかけられています。このお室は大きさも立派ですが、細やかな装飾が見事です。線彫りの様々な文様はもとより、棟木あたりの表現も精確を極めておりまして、これはかなりの腕前の石工さんによるものでありましょう。せっかくの秀作でありますが、公民館の建物との位置関係から、正面からの写真がうまく撮影できませんでした。

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 中にいらっしゃる牛乗り大日様がまた、見事な彫りでございます。しかもその両側には小さな大日様が段々に配されているという手の込みようです。ただでさえ農家の方の絶大な信仰をあつめた大日様ですのに、このように立派なお姿でお祀りされているのですから、その信仰もいや増して香華の絶え間がなかったと思われます。

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  ありがたいことにたいへん詳しい説明版が設置されています。文字が小さくて見にくいと思われますので、内容を転記します。

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◎大日堂建立由来(伊右衛門さん物語)

 完成三年(一七九一年)霊仙眉山の大暴発により、伊右衛門さんの家族をはじめ、親類縁者及び部落民全員この大災害で無残な犠牲となったが、伊右衛門さんは当時京阪神方面に行商に出ていたので、この難を免れたのである。風の便りに島原の暴発を聞き急遽帰郷し、この惨状に只々茫然自失の極みであった。縁者知人もなく、天涯孤独となった。伊右衛門さんはとりつく術もなく、行商をやめ死者の冥福と供養のため「六部」となり、諸国巡礼の旅に出て、大日如来を信じ念じ乍ら、各霊場を巡回して文化四年(一八〇七年)大片平の地に到来したのである。今から二〇七年前の事である。大片平は伊右衛門さんの故郷とよく似ており、山の上であり海も遠くに眺められ、特に人情もこまやかで厚く、この地を終焉の地と定め、庄屋の分家「県」に寄寓し村人と接し、島原の話などをしているので境木には色々伝説が残っている。伊右衛門さんは幾分の金銭を持っていたので自費で大日堂を建立して縁者死亡者の冥福と大片平地域の隆昌安泰のため、文化九年(一八一二年)八月に寄進し、老後を大日堂守として余生を送り十七年を過ごし、文政七年申天(一八二四年)五月十一日に数奇な人生を終ったのである。遺体は大日堂横に埋葬されています。

   記

一、大日如来石堂(杵築市指定有形文化財

  文化九壬申年八月吉祥日(一八一二年)

  願主 肥前嶋原南目北有馬郡 伊右衛門

二、墓碑

  岡山了国信士 肥前嶋原之住人伊右衛門

  文政七年五月十一日当地境木にて死す

三、供養塔

  文化六年(一八〇九年)吉祥日

  奉納 大乗妙法典日本回国供養塔

     肥前嶋原南目北有馬郡 伊右衛門

 ちなみに毎年八月二十八日(大日如来堂寄進の日)に市内曹洞宗寺院の僧侶八~十名により伊右衛門さんの供養法要と大日如来様の供養を大日堂氏子総出で盛大に行っている。

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 8月28日にしていた盆踊りは、残念なことに約15年ほど途絶えています。でも大日堂の信仰は続いています。公民館のまわりはいつもきれいにされていますし、春には桜が見事です。

 

今回はこれでおしまいです。北杵築のシリーズはまだ続きます。