大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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竹田津の名所・文化財 その4(国見町)

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 今回は西方寺のお稲荷さんとミツマタを紹介します。

 

8 西方寺上組の稲荷社

 前回、京来下の庚申塔を紹介しました。稲荷社に行くには、京来下バス停を過ぎてさらに進んでいきます。次のバス停「西方寺」の辺りが、西方寺上組です。こちらは西方寺の奥詰めの部落にて、これより山手には村はありません。

 稲荷社は、谷あいの田んぼを挟んだ反対側の山すそにございまして、そのすぐ下まで農道を通って自動車で近づくことができます。しかし適当な駐車場所がありませんし農作業の自動車の邪魔になるおそれもありますから、自動車はバス停のところの広場に停めて歩いて行った方がよいでしょう。ただしこちらはバスの転回場所になっておりますから、バスの時刻によく注意して、邪魔にならないようにいたしましょう。

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 こちらのバス停から僅かに引き返して、簡易舗装の坂道を下り川を渡って、谷の向こう側を行きます。道なりに進みますと「稲荷社」の標柱がありますので、そこから左に折れて擬木階段を登りますと右側に鳥居がございます。

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 お稲荷さんと聞いてよく思い浮かべる木造の赤い鳥居の連続した参道ではございませんで、石造りの立派な鳥居が1基のみです。

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 拝殿の中で、このような長いお数珠を見かけました。これはきっと、百万遍の数珠でありましょう。

 

○ 百万遍と地域の講組織について

 百万遍とは、元々は願をかけてお念仏を1週間のうちに100万回唱えることをいうそうです。でもそれは現実的ではありませんので、実際には何人もの人が車座になって、このように長いお数珠をとってぐるぐると繰っていきます。たとえば20人で数珠をとれば、1人あて5万回です。実際には5万回も唱えることはできませんが、とにかく大人数で一緒にお念仏を唱えながら数珠を繰れば、お念仏の回数、数珠の珠の数、人数など何もかも掛け算していけば100万回くらいにはなるだろうという算段なのです。

 この百万遍は、昔は国東半島のあちこちで行われていました。わたくしの里にも、昔は部落内に百万遍の講がございました。各自で早めに夕食を終えて、夜に座元に集まって数珠繰りをしたものです。座元は家ずり(1軒ずつの回り番)で、3月と9月の16日頃にしていました。性別や年齢の区別なく数珠繰りに加たったもので、子供の頃は数珠のとり方をやかましく言われたのを思い出します。それは、数珠を上から掴まず、必ず手の平を上に向けて下から持つようにということです。お念仏を唱えながら次から次に数珠を繰ります。写真と同じようにところどころに大きい珠がありまして、その珠が自分のところに来たときには軽く頭を垂れます。

 数珠繰りを終えたら、座元の用意したお茶菓子や漬物、簡単なおかず等でお座を持ちまして、そう遅くならないうちに散会しておりました。昔は四つ回りのお膳を出していたそうですが、私の記憶にはありません。既に簡略化されていたのです。それでも時代の流れで、1軒抜け2軒抜け…と講員は減少の一途をたどりまして、ついぞ百万遍は昔の思い出となったというわけです。

 西方寺の百万遍がどのようなやり方であるのかは分かりませんが、おそらく似たようなことでありましょう。今でも続いているのでしょうか?実は、以前紹介しました中ノ谷不動にも百万遍の数珠が保管されています。

 思えば、昔はどこの部落にもたくさんの講がございました。まず無常講がございます。これは葬式の相互扶助のためのものです。その中でも内と外に分かれまして、内無常と申しますのは葬式を出す家のすぐ近所の家です。内無常の家の人は主に料理を手伝います。外無常の家の人は墓掘りや旦那寺への連絡等を担っていました。今は葬祭場の利用が一般化しておりますので無常講は形骸化しつつありますが、それでも受付などは無常組の方が手伝うことが多いようです。このほかにも百万遍、お日待ち、お伊勢様、庚申様など枚挙に暇がございませんで、今で言う子供会の集まりも昔は文珠講(もんじこ)と呼んでいました。これらは神様仏様にすがるよりほかなかった昔の生活の大変さはもとより、このような講組織(無常講を除く)がある種、地域の数少ないレクリエーションとしても機能していたのです。しかし地域社会の変容により、今やこれらの講組織は見る影もありません。せいぜいお弘法様(お接待)が続いている程度ではないでしょうか。百万遍も、おそらく部落内の講組織で行っているところは稀になっており、今はほとんどが、お寺さんの行事としての伝承であろうと思われます。

 盆踊りが復活したという地域はちらほらありますが、それ以外の廃った年中行事を復活させるのは容易なことではなく、現実的に不可能でしょう。わたくしが思いますのは、このような古い講組織であるとか各種年中行事のやり方を、地域のおじいさんおばあさんに話していただきたいし、メモでも何でもよいので想い出を記録していただきたいのです。代替わりして、語り部が少なくなりました。わたくしもそのお話・想い出をたくさん引き継ぎたいと思いますし、地域の子供達にもそれを願っています。

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 このように、立派な石積の上に3基の石祠が安置されており、五輪塔や石燈籠がございます。こちらは、中央の石祠の前の花立てがずいぶん変わっています。

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 お顔のある、出べその花立てです。作者のユーモアのセンスが素晴らしいではありませんか。きっと地域の方に愛されてきたことでしょう。

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 この鳥居の下から、右方向に山道が続いています。その道を行けば阿弥陀越に至ります。

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9 ミツマタ群生地

 西方寺のミツマタは近年とみに有名になりまして、たくさんの観光客が訪れます。今年のミツマタも見事でした。第1から第5までの群生地がございまして、地域の方により苗木が植えられ、年々増加しております。

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 ミツマタの咲く谷の先に溜池が見えます。こちらは金敷の池で、西方寺の耕地の命綱です。このような山間に池を築くのは、昔のことですから重機等もなく、たいへんな難工事であったことが推察されます。

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 黄色と白の淡い色合いがなんとも春らしく、この花が咲きますといよいよ春の訪れを感じます。ミツマタの名の由来は、枝が3つに分かれ、その先でまた3つに分かれ…と、3つずつに分かれていくためでしょう。ミツマタは、和紙の原料です。昔は大分県内でも方々で紙漉きをしていました。特に三重町や北杵築(鴨川地区)が紙漉きどころとして知られていたそうです。

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 ミツマタ群生地を巡る林道はところどころ未舗装ですし幅員も狭く、通行に注意を要します。袋小路の道ではありませんので、差し出がましいようですができればこの時季だけは、一方通行にした方がよいのではないでしょうか。事故のない、楽しいミツマタ鑑賞を願っています。

 

今回は以上です。地域の方のお陰様で、今年もミツマタを楽しむことができました。西方寺地区のますますの発展と安泰を願うております。