大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三重の名所めぐり その1(香々地町)

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 香々地町の中でも三重地区(旧三重村)は名所旧跡・石造文化財の宝庫です。三重地区は大字上香々地・夷からなります。今回は手始めに、大字上香々地にある庚申塔を2か所紹介します。どちらも、造形・規模・歴史いずれの観点からも非常に立派なものです。

 

1 田ノ上墓地の庚申塔(字田ノ上)

 香々地市街地から県道653号を夷方面に進みます。佐古地区に入って、「西国東広域農道上香々地入口」の青看板のある十字路(信号機なし)を右折します。2車線の道路を道なりに左カーブすると登りにかかります。長い直線の登りの途中、右側に、石垣の上に槙の木で囲まれた現代墓、その並びに小屋があります。その手前を右折し、里道を上がります。

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 里道を上がると右に六地蔵のある分岐がありますが、これは無視します。すぐ未舗装になりますので用心して進み、写真の場所から右に上がります。車は上がれないので一旦通り過ぎて、少し先の広いところに停めて歩いて戻ります。この坂を少し上がれば正面にシュロの木と岩が見えてきます。その岩に庚申様が刻まれています。

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 この岩は正面から見ればさほど大きくないような気がしますが、かなりの奥行き(厚み)があります。質量はかなりのものでございましょうから、自然石を利用して庚申塔に仕立てたというよりは、ここにあった大きな転石(岩)の1面に庚申塔を彫出したと考えるのが自然です。もし持ち運び可能な自然石を庚申塔にしてこちらに持って来たのであれば、もう少し薄くて、余白のムダのない石を選ぶのではないでしょうか。この背後には庚申石もいくつか見られまして、庚申塚の体をなしております。ここから上がれば古いめいめい墓が広範囲に見られます。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼

 不整形の岩(塔身)と相反して、諸像の彫りの細やかさ・丁寧さ、そして均整のとれたデザインは、見事というよりほかありません。まず主尊の頭上を見てください。半円状の装飾がお分かりでしょうか?これは光背でありましょう。近隣の庚申塔ではまず見かけない表現方法です。髪をきっちりとまとめた主尊は、白目を吊り上げ、口はヘの字口でありますが、頬の丸いラインに何となく愛嬌が感じられてあまり怖そうに見えません。こんな顔のおじいさんをあちこちで見かけるような気がいたします。つくづく拝見するに、だんだん親しみすら覚えてまいりました。スラリとした体躯に短めの脚、指の表現、巧みに前後差をつけた衣紋の複雑な重なりの表現など、何もかも写実的です。また、まるで舵輪のように見える宝珠、立派な三叉戟、蛇などの持ち物も厚肉にて表現し、少しの欠けも見られません。蛇は、頭が三角になっていますので、マムシかもしれません。童子はお地蔵さんのような雰囲気で、ツンとすまし顔にて控えています。

 金剛さんに踏みつけられた邪鬼の憎らしげな顔はどうでしょう。金剛さんは成敗した気になっているのかもしれませんけど、こんな顔をしているのを見ると口は謝りつつ腹の中で舌を出しているのではなどの邪推も二つや三つ、いろいろな空想が次から次に浮かんでまいります。猿はめいめいの台座のようなものにしゃがみ込み、両端の猿は真ん中の猿を向き、さてもかわいらしい雰囲気でございまして邪鬼の憎らしい雰囲気とは大違いです。雄鶏と雌鶏が向かい合うているのも長閑でようございます。

 この塔には宝暦8年の銘がございます。とても300年以上も前の造立とは思えない保存状態に驚嘆いたしました。

 

2 近藤家墓地の庚申塔

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 こちらも分かりにくい場所にあります。長小野側(川べりの道路)から近藤家墓地に上がる道が猪の柵等で通りにくいので、西国東広域農道から下ります。田ノ上墓地の庚申塔から広域農道まで戻り、道なりにさらに登っていきます。信号のない交差点(右はトンネル)を直進してさらに進み、大きく右カーブするところの左側に墓地への道があります。

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 写真に写っている電信柱の手前から山道に入ります。自動車の通行は困難です。この先の方でUターンしてきて、写真右側に写っている路肩に停めた方がよいでしょう。ただし側溝に左タイヤが落ち込む寸前まで寄せないと車線にはみ出てしまいます。ここはカーブの直後なので、邪魔にならないように気をつけてください。

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 このように一応は車の通る幅がありますが、路面が荒れております。少し登ったところで左右に小径が分かれていますが直進して少し下ると、開けた場所にお墓が整然と並んでいます。そのお墓を右に見て、左に折り返すように雑木林の中に入っていけば古いめいめい墓が下の方まで、何段にも分かれて並んでいます。こちらが近藤家墓地です。お墓の前を進むと、縦の通路に出ます。そこを右に折れて数段下れば、左側に庚申塔がズラリとならんでいます。

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 こちらの庚申塔は19基を数えます。そのうち2基が刻像塔でありまして、いずれも1670年代、凡そ350年も前のものです。これは、国東半島に所在する刻像塔の中でも最も古いものであります。

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青面金剛4臂、2猿

 この塔は主尊を置いた彫り込みの真上ではなく、やや外側に日輪・月輪を配しているのが特徴です。主尊の目つきや肋骨のところの隆々とした感じ、腕の太さなど、近隣でよく見かけます石造仁王像の造形にたいへんよく似ているように感じました。塔身の大きさに対して刻像はやや小さめですが、非常に厳めしく堂々とした雰囲気でございます。右手で大きな蛇を鷲掴みにしていて、その蛇のグネグネと曲がった様子が衣紋のたっぷりとしたヒダと相俟って優美な曲線になっているところも見逃せません。上半身は立派なのに、脚はいまにも折れそうなほど細くてささやかなのもおもしろいではありませんか。向かって左の、横向きにしゃがみこんだ猿の間抜けな表情も乙なものです。こちらは延宝2年(1674年)の塔です。

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青面金剛4臂

 寛文11年(1671年)、国東半島で最古の刻像塔です。上部には阿弥陀三尊の梵字が刻まれており、半島内では全く見かけない形式の刻像塔でありまして、地域内において刻像塔としてのスタイルが確立されていなかった時期ならではのものと言えましょう。梵字の下部を半円状に窪めて、さらに矩形に彫り出すという造形もずいぶん変わっています。主尊の髪型も風変りで、黒い粒々は螺髪のつもりなのか、または頭巾の模様なのか、よくわかりませんけれどもこれも近隣では見かけない表現方法であります。大きなお顔には法令線が目立ち、顔のパーツが中央に寄っています。手足の比率もいろいろとおかしくて珍妙な印象の残る、何とも愛らしい庚申様でございます。

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 こちらの庚申塔群の大部分を占める文字塔も、それぞれ個性がございまして、いくつかのグループに大別できます。こちらなど、矢印型の掘り込みが変わっています。これは、塔婆のようなイメージでありましょう。墨書の痕跡は消えてしまっています。

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 このように、文字塔もけっこうな厚みがございまして、ズラリと並んだ光景はなかなかのものです。めいめいの上部には、円形の彫り込みが見られます。この円の中には梵字が書かれていたのでしょう。

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 隅には数基の塔が無造作に寄せられていました。はじめは庚申石なのかなと思ったのですが、立てるための細工(台座に差し込む突起)や矩形の彫り込みが見られることから、これらも文字塔であることがわかります。倒れてしまった塔をこちらに集めたのかもしれません。いずれも文字が消えてしまっているのが残念です。

 

今回は以上です。『香々地町庚申塔』を参考に探訪いたしました。分かりにくい場所でしたが奇跡的に?1回で辿り着けたうえに、個性的な庚申様ばかりで感激しました。いずれも、文化財に指定されていてもおかしくない塔だと思います。