先日、天福寺奥の院と観音山横穴墓群を結ぶ縦走路が整備されたことを新聞で知りました。早速訪ねてみましたが雲行きが怪しかったので、天福寺奥の院と観音山古墳それぞれのピストンとしまして、ハイキングはまたの機会に持ち越しとなりました。とまれ、久しぶりに天福寺奥の院に登れたのも嬉しゅうございましたし、初めて訪れた観音山横穴墓群ではその規模に目を見張りました。そこで夷谷の記事はお休みして、早速紹介することにします。
天福寺奥の院は大字黒、観音山古墳は大字下元重にございまして、どちらも横山地区(旧横山村)です。横山地区と麻生地区(旧麻生村)は隣接しており、いずれも田園風景と山・川の自然地形が素晴らしい、非常に風光明媚なところです。旧横山村・麻生村は昭和29年の合併で旧四日市町のうちとなりました。旧四日市町は、昭和42年以降は宇佐市の一部でありますが、市名こそ「宇佐」となりましてもその実は、宇佐の中心市街地の繁栄ぶりでございます。四日市市街地周辺の神社仏閣や旧市街の街並み・おいしい食事どころや、横山・麻生の自然景勝地・史蹟をとり合わせますと、手軽な名所めぐりとして楽しい一日を過ごすことができましょう。
1 天福寺奥の院
四日市市街地から県道44号を麻生方面に行き、大字黒を目指します。採石場への上り口の二股を過ぎて一目の角を右折して稲積六神社の前を通り、橋を渡って突き当りを左折します。ほどなく右側の林道上り口に説明版が立っています。自動車は、この林道上り口の端ぎりぎりに寄せれば1台は駐車できます。林道は途中から崖崩れ等で通れなくなるばかりか転回にも難渋する始末ですので、自動車では上がらない方がよいでしょう。
林道を歩いて登っていくと、ほどなく右側に石仏が並んでいます。
左端に映っているお弘法様が目立ちますが、その右の方にも数体のお地蔵さんが並んでおります。おそらくこのお地蔵さんのところに昔は小径があって、林道ができる前の参道でありましょう。今では林道の造成で斜面が削られたのか、道の痕跡はなくなっております。
立派なお弘法様でございます。「修行大師」とのこと、昭和五年の建立であります。にっこりと笑うたお顔がとても優しそうで、親しみやすうございます。こちらでお接待を出したりしたのでしょうか。
お弘法様の前を過ぎると、天福寺奥の院の道しるべがあります。それに従い、林道を外れて右後ろに折り返すように細い参道を上がり、その直後をまた左に折り返します。この部分は林道ができてからの新しい取り付きで、旧道と思われる道も通ることができます。ほどなく竹林の中のゆるやかな登り道になりまして、道なりに行きますと右側に古いお墓が数基並んでいます。その上り口のやや手前、右側に興味深い石造物がございます。
ごく小さな角柱の正面に「宝暦十四年」、側面に「甲申大蔟吉日」とあります。これを見て、甲申は庚申のことでしょうから庚申塔ではないかなと思いました。「大蔟」というのも現地では分かりませんでしたが、「蔟」の字から養蚕に関係があるのではないか、またはこのような尊号があるのかもしれないと推測いたしました。調べてみたところ「大蔟」は「たいそう」または慣用で「たいぞく」と読み、陰暦1月の異称であるとのことです。結局、前面と側面は一続きで、「宝暦14年(庚申)1月吉日」と書かれてあるだけですから、この「甲申」は文字庚申の正面に「青面金剛」「猿田彦」と同様に「庚申(甲申)」と刻まれているのとは意味合いが違って、単に宝暦14年の干支を表しているだけといえましょう。つまるところ、これが庚申塔であるという確証は何もないというわけです。
古い石段がよく残り、緩やかなカーブを描いて上へ上へと続いています。
そのうち、先が見えないほどの長い長い直線の登りになります。今のところ石段に緩みは感じられなかったので特に危険なところはございませんが、くたびれます。最上部にまいりますと一段々々が高くなりますので、いっそうこたえます。
登り詰めたら左折して、片洞門状になったところを左へと巻いていきます。この上部には目指す奥の院が見えておりますので、ここまで来れば石段の疲れも何のその、期待に胸が弾んで足運びもかろくなりましょう。平坦に進んで、右に折り返すように急な段差を上がればすぐ奥の院に到着でございます。
奥の院に着きました。国東半島でよく見られる風景です。大きな岩屋にめり込むように堂様が建てられ、岩棚には松の木が育っております。
振り返ると絶景が広がります。麓の田んぼは耕地整理が進んでおりますので昔のままの風景ではありませんが、規則正しい四角の田んぼが整然と広がる様もなかなか美しいではありませんか。山の形も見事なもので、四季折々の風情がございます。
堂様にお参りをされる際には、床板が若干頼りないような気がしますので用心してください。格子の向こうに、古い木彫りの仏様がたくさん並んでいます。
説明版によれば、古い仏様は8世紀後半の造立と考えられるそうです。なんとありがたい仏様でありましょうか。何百年、千年以上も昔から、麓の暮らしを見守ってくださっています。
来た道を戻る際には、石段を下りる際に滑らないように気を付けましょう。落ち葉がたくさん積もっているときは、杖で払いながら行くと安全です。
2 今成の庚申塔
県道を四日市市街地方面に戻ります。信号のある十字路(右方向が三和酒類)を左折しますとほどなく、左側に公民館と神社が並んでいます。その公民館の前で庚申塔を見つけました。
たいへん立派な字体で「猿田彦大神」と刻まれています。シメがかけられており、信仰が続いていることが覗われました。宇佐地方の庚申塔は猿田彦の文字塔がほとんどのようで、 国東半島と目と鼻の先ですのに、その傾向が全く異なるのがおもしろいところです。
3 観音山横穴墓群
庚申塔を過ぎて、道なりにまいります。道路の左側に「観音山千手観音堂」の立札がある石段が、上り口です。車は石段の下に1台程度なら停められますが、邪魔になりそうなときはこのやや手前にある砂利の駐車場(照山登山用)にとめましょう。
以前は竹等が生い茂ってうっそうとしていましたが、伐採されずいぶん広々と、気持ちのよい参道になりました。地域の方が整備してくださったようです。
立札は板碑にくびりつけられていました。ゆるやかな石段を上れば、あっという間に観音堂・横穴墓の境内に到着します。
この光景を目にして、いよいよわくわくしてまいりました。二層構造の立派な横穴群で、大分の滝尾百穴には及びませんけれども、近隣在郷では特に規模の大きなものでありましょう。
左手には一字一石塔などが残っています。
堂様の中には、まだ新しそうな千手観音様がおわします。とても写実的で立派な造形でございます。
めいめいの横穴の入口には、お地蔵さんを刻んだ供養碑が立っています。明らかに後補のものではありますが、そう新しいものではなさそうです。高いところの横穴には、梯子段をかけて安置したのでしょう。
横穴の形は様々で、単に穴を掘ったものもあれば、前面に枠を縁取って装飾をしたものもあります。また、2つの穴が内部でつながっているところもありました。
かわいらしい仏様です。この横穴群の先で広場は終わっていますが、やや荒れ気味の竹林を左奥に進んでいきますと、驚いたことにまだ横穴群は続いているのでした。
この荒れ様ですが、横穴の形はとてもよく残っています。いずれはこちら側も整備されるのかもしれません。
こちらなど大木の根が分かれたところにも横穴を掘っていて、特異な景観になっています。端まで行ったら引き返して、石段を半ばまで下ります。お墓が並んでいるところを下り方向で左手に入っていきますと、別の横穴群がありました。
こちらも荒れ気味ですが、横穴はよく残っています。
堂様の横並びの横穴群とは違い一層構造で、密度も低うございます。でもその分、正面の装飾的な縁取りがより立派です。
今回はここまで見学してこの場を後にしました。後で分かったことなのですが、砂利の駐車場から少し上がったところにも別の横穴群があったようです。見落としてしまいました。いつか天福寺奥の院からこちらまで縦走する機会があれば、そのときには必ず見学したいと思っています。
今回は以上です。天福寺奥の院は近年知られるようになりまして、グーグルマップを確認しても現時点で複数のレビューがついています。一方で観音山の横穴群は、まだまだ知名度は低いようです。容易に見学できますから、史蹟に興味のある方や、または小中学生の調べ学習の場として、今後少しずつ探訪される方が増えてくることでしょう。