大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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夷の名所・文化財 その6(香々地町)

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 前回に引き続き、東夷の名所旧跡を紹介します。今回は東狩場からスタートします。東夷の谷の奥詰め、城成(じょうなり)は廃村になって久しく空き家も残っておりませんで、その下の東狩場が長らく東夷の最奥の集落でございました。ところが田ノ口よりカサは人口の減少が著しく、今や東狩場も無住となっているようです。それがために山道等が荒れておりましてこの地域の名所旧跡・文化財の探訪には甚だ難渋し、不十分な内容になってしまいますが、再探訪は秋以降でなければ難しいので、ひとまず今写真のある分だけを紹介します。

 

18 上迫の石造物(庚申塔

  田ノ口の貴船様をあとにして、夷谷温泉の横を通過します。道なりに行って東狩場のかかり、字上迫の道路右側に立派な道路記念碑が立っています。その角を右折して、西夷は小野迫につながっている林道を上がります。この道は自動車で通行できますが石や枝が落ちていますので注意を要します。

 林道に入ってから3つ目の右カーブの手前、道路右下に大きな岩が見えます。その岩の方に踏み分け道を下りていきます。車は少し手前の左カーブの外側に置くとよいでしょう。

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 植林の中に、大きな岩が写っています。この岩のところに下りて行く道があります。通りにくいときには道にこだわらずに、適当に下るとよいでしょう。この手前、自動車を置いた左カーブの外側からも下る道がありますが、倒木だらけで難渋しますので通行はお勧めできません。

 この辺りは一面が棚田の跡で、大岩はその棚田の上の方にあります。ちょうど今夷岩屋のところにたくさん折り重なっていたのと同じような岩です。この大岩の下が岩屋のようになっていて、そこにいくつかの石造物が安置されています。

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 ごく小さな板碑や五輪塔、宝塔の類が確認できました。この大岩自体が、何らかの信仰を伴うものであったのでしょう。見学をしたら、大岩のあるところから下の段に下ります。その端にある岩の上に庚申塔が立っています。

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 この写真は、下から撮ったものです。大岩から下ってくる場合、碑面は見えません。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏

 塔ノ本の庚申塔に非常によく似たデザインで、明らかに同一の作者によるものと考えられます。こちらの方が風化が進んでいるために主尊のお顔が優しげな雰囲気になってはおりますけれども、おそらく元々は厳めしい風貌であったのでしょう。所謂「異相庚申塔」に分類されるものです。蛇や三叉戟等の持ち物もそうですが、やはり腕の配置が通常の庚申塔とは明らかに異なります。X型にまっすぐ伸ばした腕がそれぞれ握っている持ち物もくっきりと彫られていて、それが碑面いっぱいに配されているために童子を刻む余地はございません。堂々たる立派なお姿ではありませんか。しかも、その下の猿が動きのあるデザインで、これまた素晴らしいと思います。

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 庚申塔の周りは、棚田の跡が広範囲に亙って広がっております。この谷あいにあって、これより上に池はないようです。どのように灌漑していたのかが気になります。おそらく湧水がかりであったかと思われますが、湧水を田越しに下ろしますと上の段の田では水温が低うございますので、苗代等に難渋したことでしょう。それでもこの谷戸を拓いて少しでも耕地を広げようとした昔の方の努力・苦労には頭が下がります。今は杉林になっている棚田の跡をじっと見守り続ける庚申様にもまた、頭が下がる思いでございます。

 誰も通わなくなった谷間に取り残された庚申様は寂しそうで、里に下ろした方がよいような気もします。でも、今は耕作していなくても、この棚田跡を見守っていただくのも無意味ではないでしょう。興味関心のおありの方が年に数回でもお参りをしたり見学をされますと、藪に埋もれずにすむと思います。

19 古椎堂

 東狩場のかかり、林道上り口を過ぎて僅かに進んだ道路右側の一段高いところに観音堂が建っています。こちらも字は上迫です。この堂様を古椎堂(こしいどう)と申しますが、その名称の由来は不明です。近くに適当な駐車場所がありません。一旦通り過ぎて道路の右側が広くなっているところに駐車し、歩いて戻るとよいでしょう。

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 古椎堂は真玉香々地観音霊場の第十七番札所として近隣在郷の信仰を集め、昔は香華の絶え間を知らぬほどでありました。それが今では境内に雑草が目立ち、やや荒れ気味にて何となく寂しい雰囲気が感じられました。それと申しますのも、古椎堂のお世話をされていた東狩場が無住になっているためです。江戸時代には100人以上も暮らしていたという東狩場は東夷の奥詰めにて交通不便の土地であり、戦後には人口の減少が進みました。古椎堂のお祭りは、旧6月13日(のちに月遅れで新7月13日)に団子をこしらえて子供に配ったほか、11月24日に和尚さんを呼んでお座をして、12月13日には小豆ご飯をお供えしたそうです。平成に入り東狩場の定住民家がわずか4軒になってもどうにかお祭りを続けて、境内に桜を植えるなどされていたとのことです。

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 鍵がかかっていたのでガラス越しにお参りしました。観音様を中心に、十王様など数多くの石仏が安置されています。以前、坪に立っていた石幢が盗まれたそうで、今も帰ってきていません。そんな経緯がありましたので、施錠もやむなしといったところです。

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 石幢は盗まれましたが、坪には宝珠の欠損した宝塔と西国三十三所供養塔が残っています。後者には明和4年の銘があり、古椎堂の長い歴史が伺えます。夷谷温泉からほど近いので、通りがかりにお参りをされてはいかがでしょうか。住む人がいなくなった集落にあっては、一人でもたくさんの方がお参りをされますと荒廃の進行を防ぐことができるでしょうし、お参りをされた方にはきっとお蔭があると思います。

 

20 東狩場の三界万霊塔

 古椎堂にお参りをした後、東狩場の山祇社にお参りをして石造仁王像と庚申塔を見学しようと思い立ちました。でも道路から集落に上がってみますと、無住になっていることもあって屋敷と屋敷の間の通路が荒れ気味で、季節柄草が茂っておりまして、しかも雨上がりでありましたので山祇社まで上がることは諦めるよりほかありませんでした。変わりに三界万霊塔を見つけましたのでここに紹介します。

 古椎堂をすぎて道路右側が広くなったところに車を停めまして、駐車場所と古椎堂の中間辺りから細い舗装路を山手に上がったところが東狩場の中心です。通路を奥に参りますと、坂道の横にいくつかの石造物が見られます。

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 左から三界万霊塔、燈籠、何かの神様の祠でございます。石垣を設けて一段高い段を設けまして、鄭重にお祀りされていました。

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 三界万霊供養塔の銘がございます。三界とは仏教の教えによる言葉で、人が成仏するまでの間の輪廻における三つの世です。それは欲界、色界、無色界で、要は現世のみならで全ての世の、全ての霊の供養を願うた塔でございまして、この塔にお参りをするおとで自らの功徳を積むことができるとされているそうです。この三界万霊塔は国東半島におきましてはあまり目にした覚えがありませんが、きっと私が気付かなかっただけで方々にあるものなのでしょう。ありがたくお参りをさせていただきました。

 

今回は以上です。最後に、東西の狩場部落について簡単に補足説明いたします。

 東狩場・西狩場ともに今は無住になっているわけですが、戦前まではそれなりの戸数があったそうです。どちらも「くまい」の姓が多く、その用字が違っていて、東狩場は「熊井」、西狩場は「隈井」が主であった由。狭い山田を拓いて田畑を耕しつつ、林業や炭焼きなどもしながら生計を立てる山の暮らしは厳しかったことと思います。それでも東狩場の古椎堂や、西狩場の五柱大明神・金比羅様、またそれぞれの庚申様など、それぞれの素朴な信仰におきましては、信心はもとよりそのお祭りが村の方々の楽しみにもなっていたことでしょう。古椎堂のお祭りで子供に団子を配ったなどのエピソードには、子供のみならで配る側の大人の笑顔も思い浮かんでまいります。

 明治8年以前、今の大字夷にあたる地域は「夷村」と「狩場村」に分かれて、いずれも香々地荘に属していました。狩場村は今の東狩場・西狩場で、夷村はそれ以外の部落の集まりと思われますが、城成はおそらく狩場村であったのでしょう。そして明治8年、狩場村は旧真玉荘の(旧)黒土村や小河内村などと合併し(新)黒土村の所属となっています。東狩場・西狩場ともに小河内からの山越道がありました(今の車道とは別の道です)。同じ谷筋の夷村ではなく山を越した黒土村にくっついたというところに、小河内とのつながりの深さを感じますし、入会地や灌漑の関係など、何らかの込み入った事情があったことが推察されます。

 その後、明治22年の町村制施行の折、黒土村(狩場を除く)は上真玉村に入りましたが、狩場は三重村に入っています(大字夷のうち)。地形から申しましても自然な形に落ち着いたというわけです。定住者がなくてもそこには暮らしの跡がございます。旧跡や文化財を見学いたしますときにはこのことにも思いを馳せて、今と昔をつなぐものとして捉えますと、石塔一つとってもその価値がいや増してくるではありませんか。