大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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夷の名所・文化財 その7(香々地町)

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 引き続き東夷の名所旧跡を紹介します。夷谷のシリーズが長くなり、説明の都合上、道順がとびとびになっています。今回紹介する場所は、「その2」の記事の近接地です。

 

21 一路一景展望公園

 前回、夷谷温泉の横の道を通って東狩場までまいりました。谷を詰めますと、城成部落跡への上り口のある三叉路に突き当たります。これを右にとれば峠を越して小河内に至ります。今回は左折して、等高線に沿うて右に左に折り返しながら霊泉寺方面に戻ります。大ホキ道でありますがどうにか離合できる幅があります。緩やかに下っていくと鳥越部落に出ます。こちらは昔から軒数が少なく僅かに4~5軒ほどであります。

 その道路端に小さな公園がございます。こちらが一路一景展望公園で、展望台に立てば中山仙境や東夷(堂明)の岩峰群が一目の大パノラマが広がります(冒頭の写真)。こちらは快晴の日はもとより、雨の日もたいへんよいものです。雲が下りてきて、岩峰を靄の掻い間にやっと透かすような頃合いに行き当たりますと、まるで中国の奥地の光景にすら見えてまいりまして、得も言われぬ風情がございます。

 写真はありませんが、この公園の隅に鳥越のお稲荷さんが祀られています。以前は今の位置よりも低い場所の崖の中腹にあったそうですが、公園の整備に伴い移されたとのことです。こちらは火伏の霊験があり、昔から信仰を集めてまいりました。そのお蔭で、鳥越では火事が出たことがないそうです。公園に立ち寄られた際にはお稲荷さんにお参りをして、火災予防をお願いされてはいかがでしょうか。

 また、展望台の近くには夷谷小唄の歌碑もございます。夷の盆踊りでは旧来のレソや杵築踊り等を踊っておりますので夷谷小唄を聴く機会はほとんどありませんが、豊後高田市立図書館の電子図書館(インターネット)サービスで、地域の方の演唱を聴くことができます。歌碑には2節のみしか書かれていませんので、こちらに6番までの文句を紹介します。旧三重村の景物がよく唄い込まれています。

 夷谷小唄

〽峰に谷間に霞が晴れて 日の出明るい夷谷

 里は朗らに ヨーソレ 人の気持ちのよいところ

 ホーンニ ヨイトコ ヨイコノサ(以下囃子同じ)

〽松にほのぼの楽庭月夜 川も出合えば瀬もはずむ

 はずむ心も 夷乙女の深なさけ

〽連れて仲良く中山参ろ 紅葉燃え立つ恋時雨

 濡れて行こうか 萩の花咲く霊泉寺

〽岩のそぶりに心を寄せて 焼尾桜の伊達姿

 一目千両の 並ぶ六本杉 御神木

鬼ヶ城には行平岩屋 隠れ山からほととぎす

 思い出せとて 夢もはかない古戦場

〽繭は白金 炭ゃ黒ダイヤ 菜種花咲く佐古川

 色も香もよい 娘年頃よい笑顔

 

22 鬼ヶ城

 一路一景公園をあとに、道なりに下って行きますと道路左側に焼尾阿弥陀堂がございます。そのすぐ近くから、右に分かれる簡易舗装の細道があります(赤根温泉に抜けられる旨の看板がありますのですぐ分かります)。これを上がってすぐ、左側にあるのが石河内(いしごち)の池です。昔、香々地は干害に悩まされましたが、この溜池の造成により水利がずいぶん改善されたそうです。池の底には、旧石河内部落が沈んでいます。数軒の民家があったそうです。世の為人の為に住み慣れた土地を離れた昔の方の心中は、察して余りあるものがございます。

 さて、石河内の池をあとに、鬼ヶ城(おにがじょう)を目指しましょう。赤根方面に登ってまいります。道幅が狭まり、離合はできません。普通車でも通行できますが、軽自動車の方が無難でしょう、道なりに進みますと、道路の左側に「刀匠 紀行平鍛冶場跡」の標柱が立っています。 

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 この傍に2台程度であれば駐車できます。案内に従って、左の林道を上がります。道がたいへん荒れていますしこの先駐車場所はありませんので、歩いて行きましょう。

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 こんな始末です。これでは車は上がられません。写真に黒い杭が写っているのがお分かりでしょうか。この杭に、鬼ヶ城は左への旨が書かれています。絶対に見落とさないようにしてください。ここから林道を離れて、一旦谷筋に下り、向かい側に登ります。

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 ずっとトラロープが張られていますので、それに沿うて進みます。道はかなり荒れておりまして、急斜面をトラバースして斜めに登っていきます。ロープはかなり高いところに張られていたり、一部緩んでいたりしますので、あまりあてにはなりません。転げ落ちないように気を付けながら登っていきます。

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 急坂をどんどん登ると、右側の斜面には岩が折り重なり、いよいよ鬼ヶ城に近づいてきたことが感じられます。

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 道なりに登っていくと、いったん平坦な土地にでます。何かの祠が岩の上に安置されていました。壊れており、中は空です。付近には炭焼き跡もあります。もしかしたら、昔はこの辺りにも民家や耕地があったのかもしれません。祠の手前から右に折れて、ロープに沿うてさらに登ります。いよいよ傾斜が急になり足元も悪いので、適当に折り返しながら進むとよいでしょう。

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 この先が不安になるような道です。ロープを信じて、頑張って登るしかありません。それにしても荒々しい岩の数々、よくもまあこの急傾斜にこれだけの岩が残ったものぞと感心させられます。

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 やっと鬼ヶ城の入口に着きました。人の背丈の何倍もある大岩の間を縫うように、ものすごい急坂を登ることになります。ロープを頼らないと難渋すると思いますが、このロープは岩に擦れたりして次第々々に傷んでいきましょうから、あまり頼りすぎない方がよさそうです。

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 驚くべきことに三方を岩に囲まれ、さらに上にも大岩が折り重なり、まさしく岩の小部屋の様相を呈しております。こちらが鬼ヶ城です。紀新大夫行平が晩年、こちらに籠ったそうです。行平は鬼の形相で最後の刀を一心不乱に打ちました。それで、この岩屋を鬼ヶ城を申します。

 紀行平は峠を越えて下り、鬼籠(国見町)でも刀を打ったそうです。その跡地には鍛名命社という神社が建っており、この社周辺の字を鬼神太夫(きしんだゆう/きしんだい)と申します。音は「紀新大夫」と同じで、この「鬼神」の用字や「鬼籠」の地名は、鬼ヶ城と同じ着想のものと思われます。鬼神太夫部落の旧道沿いには鬼の姿になった行平が手をついた跡という「鬼の手形岩」も残っています。これらについては、またいつか別の機会に紹介します。

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 急坂をあえぎあえぎ登った疲れをとろうと思いましてこちらの岩屋で休憩しましたとき、ふと見上げますと、あまりの迫力に胆を冷やしました。

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  いかがですか。ものすごい高さの大岩・岩峰が、七重八重に重なっております。紀行平に関する興味深い伝説、鬼籠との関連などだけでもたいへん興味深いうえに、この奇勝であります。とても写真には収まらない大迫力の景勝を、ぜひ現地でご覧になってください。

 

23 金ヶ峠

  鬼ヶ城を下り、車で赤根方面を目指します。この道を金ヶ峠と申します。

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 この辺りが峠で、このすぐ先はもう国見町です。昔はたいへん狭いトンネルがあり危なかったのですが、開鑿されました。この切通しの岩肌をご覧ください。黄がかった色をしています。また、写真では分かりにくいのですが、舗装に赤さびのような色が見られます。これは、この辺りの地質によるものです。鉄分をよう含みますので、赤根一帯では昔は製鉄が盛んに行われておりました。タタラを踏む昔ながらの製鉄は専ら専門職集団が担い、小部落を形成していたそうです。赤根では、岡ノ谷廃村などがそれにあたります。鬼ヶ城の伝説もむべなるかなといったところでありますし、金ヶ峠という呼称もタタラ製鉄に由来することは明白です。

 

24 下坊中の磨崖庚申

 金ヶ峠から霊泉寺前まで戻り、前田(東西夷の追分)方面に進みます。道路の右側、家並みが途切れて田んぼが広がり、そのかかりに分かれている農道を行きます。近年「坊中荒神」の標柱が立ち、入口が分かり易くなりました。車で入ると転回に往生しますので、どこか邪魔にならないところにとめて歩いて行く方がよいでしょう。

 道なりに行き、道路右側の水路のドンドンのところから一段上がります。すると目の前に大岩が立ち、その正面に庚申様が刻まれているのがすぐわかります。標柱には「荒神」とありましたが、荒神と申しますと普通、屋敷神のことです。こちらは像姿から明らかに荒神様ではなく庚申様ですが、もしかしたら荒神様であるとの伝承があるのかもしれません。

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4面2臂?、3猿?、2鶏

 崖ではありませんが、動かせない大岩に刻まれています。庚申塔ではなく磨崖庚申の名が適切でしょう。上部はくっきりと、下半身に行くにつれて線彫りに近くなっているところや、全体の雰囲気から、以前紹介した寺迫(清厳寺跡)の庚申塔によく似ているように感じられました。4面であることも共通しており、同じ作者によるものではないかと推察されます。

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 にっこりと笑うたお顔がとても優しそうで、親しみやすい雰囲気が感じられます。中央のお顔を取り巻く3つのお顔と共有する髪が、まるで島田を結うているように見えてまいります。またはサザエさんの髪型のようにも見えませんか。片のところには、左右それぞれ2つずつの突起が見られます。ちょうど、寺迫の庚申塔ではこの部分から2本ずつ、まっすぐの腕が斜め上に伸びていました。もしかしたらこちらも、腕を彫ろうとして諦めたのでは?とも考えられます。今は2臂でありますが、元々は6臂としたかったのではないかということです。

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  足元には3つの顔が並んでいます。おそらく3猿を顔だけで表しているのでしょうが、もしかしたら鬼のお面か、または中央が邪鬼で左右が2猿である可能性もあり、確証を得ません。左右の鶏も消えかかり、立派なお顔まわりとは対照的に、ほんにささやかな表現でございます。

 この横には庚申石が折り重なり、破損した文字塔もございます。道路からほど近く容易にお参り・見学ができます。

 

今回は以上です。夷谷のシリーズが長くなってきました。まだ紹介したいところが何か所もありますが一旦お休みにして、次回からは他の地域の記事も少し書いてみようと思います。