大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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重岡の庚申塔めぐり その2(宇目町)

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 重岡地区の庚申塔めぐりの続きを書きます。前回の最後に紹介しました河内の石幢をスタートして、今回は大字河内の石造物を紹介します。小字名が分からなかったので、項目名に不整合があるかもしれません。

 

5 神田の庚申塔(イ)

 河内の石幢のところから県道53号に突き当って右折します。道なりに行って、「神田入口」のバス停を右折します(青看板もありますのですぐ分かります)。家並みを過ぎて一旦人家が途絶え、左に天神様の鳥居を見て、その先の二又(右側にカーブミラーあり)を右にとります。山裾に沿うて進んでいくと、道路右側に庚申塔が並んでいます(冒頭の写真)。文字塔が5基、刻像塔が2基です。ちょうど路肩が広くなっていて、車1台分の駐車スペースがあります。神田部落にはほかにも庚申塔群がございますので、便宜的にこちらを「イ」としました。

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青面金剛4臂、3猿、2鶏、邪鬼

 くっきりと角を出した5角形のスマートな塔身で、その碑面いっぱいに主尊を配しています。細身の塔なので脇侍を刻む余地はありません。短い腕の造形などたいへん素朴な青面金剛でございます。これまで本匠・直川・宇目で見かけた青面金剛はたいてい6臂で、4臂のものは少ないようです。持ち物をとても小さく表現しているのは、少しでも主尊を大きく見せようとした工夫なのでしょう。それにしても邪鬼を踏まえている脚の細いことといったら、明らかにアンバランスですし、なんとも貧弱そうな感じがいたします。そのためでしょうか、邪鬼の表情がいよいよ憎らしげに見えてまいりまして、「なんのこれしき」と主尊を小馬鹿にしているような雰囲気すら感じられました。猿も鶏もほんにささやかな表現にて、愛らしいではありませんか。前回紹介しました日平の庚申塔に比べますと失礼ながら稚拙さは否めませんが、却って素朴な信仰心が表れているような気がしまして、いっぺんでこの塔が好きになりました。

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青面金剛6臂

 こちらは右端に立っている塔で、冒頭の写真には写っていません。後家合わせのような気もしますが、厚みのある笠をもつ御室の中に収められています。さきほどの塔に比べてもほんにささやかな塔で、6臂の青面金剛が刻まれているのみです。猿や鶏の姿は確認できませんでした。わざわざ御室に収めてお祀りをしていることから、よほどの信心によるものと推察されます。本匠村は椎ヶ谷(風戸山)の辻でも、これとよく似た小さな庚申塔が御室に収められているのを見ました。付帯物を伴わない刻像塔は珍しく、御室に収めることを前提に、意図的に小さく造立されたものなのでしょう。

 

6 神田の万霊供養塔と大乗妙典供養塔

 庚申塔(イ)を過ぎて、1つ目の角を左折します。道なりに行くと人家が途絶えます。右側に石燈籠とお弘法様(写真はありません)を見て、真っ直ぐの道を進んでいきますと道路右側に万霊供養塔と大乗妙典供養塔が立っています。グーグルストリートビューを見ますと以前は杉林の陰になっていたようですが、ちょうど周囲が伐採されて明るくなり、お参り・見学がしやすくなっていました。道が狭く、車の停め場がありません。一旦通り過ぎて、次に紹介します「神田の庚申塔(ロ)」ところに車を停めて歩いて戻ってくるとよいでしょう。

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 こちらは三界万霊塔です。塔身には「万霊供養之塔」の銘があります。元は上に乗っていた仏様が下ろされて、すぐ近くに安置されています。据わりが悪くて落ちそうになっていたのかもしれません。

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こちらの塔には「奉納大乗妙典西国四国坂東秩父供養塔」の銘があります(養は異体字)。弘化2年の造立です。西国三十三箇所坂東三十三箇所秩父三十四箇所を合わせて日本百観音と申します。四国八十八箇所と日本百観音、その全てを巡拝された記念の塔かもしれませんが、凡そ180年も前になし得たことなのでしょうか。よく四国八十八箇所西国三十三箇所は代参講により何年もかけて巡拝し、その記念に塔を造立している例を方々で見かけますけれども、坂東と秩父は関東地方でありますから、豊後からの巡拝は困難であったのではないかと思います。さて、どのような意図で「西国四国坂東秩父」と刻んだのでしょう。巡拝は難しいのでせめて一字一石塔の銘に加えることで一層の霊験を期待したのか、はたまた巡拝を実現した記念であるのか。どなたかご存じであれば教えていただきたく存じます。

 

7 神田の庚申塔(ロ)

  万霊供養塔と大乗妙乗供養塔の前を過ぎて、正面の二又のところに庚申塔が並んでいます。車も停められます。

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 こちらは全て文字塔で、銘は「庚申塔」などありふれたものばかりでした。塔の形が一つひとつ違っていて、特に写真中央のものなど重厚感があってなかなか立派です。字が分かりませんで、一応「神田の庚申塔(ロ)」といたしました。軒数を考えますと部落内に2つの庚申講があったとは思えないのですが、現状としてイとロ、夫々離れたところにあります。

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8 河内の笠地蔵

 神田の庚申塔(ロ)の二又を左にとれば、「河内笠地蔵」の標識が立っています。

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 この標識を見て簡易舗装の道を奥に行きましたが、100m以上歩いても行き当たりません。これは違うと思い引き返しまして、意を決して右に分かれる細道を登りました。特に危ないというほどのことはありませんでしたが道幅がとにかく狭く、片側が切れ落ちていますので注意を要します。登り着いたところには古いめいめい墓があり、その中に笠地蔵が立っています。

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 笠地蔵の呼称から、てっきり石幢であろうと思いこんでおりましたものですから、あの狭い道を上がり着いて実物を拝見して驚きました。そして、失礼ながらちょっと笑ってしまいました。なんと大きな笠!その下のお地蔵さんの頭と、後ろのつっかえ棒(石板)で支えられています。まさか、お地蔵さんにバッチョ笠をかぶせるように石の笠が乗っているとは思いませんでした。これはお地蔵さんの頭を濡らさないようにとの配慮で、よほどの信心によるものでありましょう。

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 笠を後ろから支える石板は、お地蔵さんの台座から離れています。見るからに後補のものです。『笠地蔵』の昔話はよく知られておりますし、お地蔵様やお弘法様などの路傍の仏様に毛糸で編んだ帽子をかぶせたり、手拭いをかぶせたり、またはチョッキを着せたりしているのを今でもときどき見かけます。こちらの石の笠も同じ心持によるものでしょう。素朴な信仰心や優しい心が感じられ、なんとも心温まるものがございまして、一目見たときに少し笑ってしまったのが申し訳のうございました。

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 現地の説明板を読んで、もしかして「河内笠地蔵」とはこちらの塔のことなのかなとも思いましたが…

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  説明板の内容を起こします。

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河内笠地蔵
   町指定有形文化財 昭五三・八・一八指定
   大字河内字河内 河野寛氏 所有
 河内の河野家墓地の中にあるこの笠地蔵は、総高二百六十五センチもある堂々たるもので周囲を圧するように異彩を放っている。凝灰岩の一枚岩に地蔵尊を刻出し、上に笠をかぶせ前は墓碑となっている。
 ここには江戸時代の墓碑が二十数基あるが、その多くの墓碑に地蔵菩薩が刻出されており、地蔵信仰の深さを物語っている。もともと地蔵菩薩は供養塔として造られる場合が多いが、この笠地蔵は墓碑として造られた貴重なものである。本町には各地に地蔵が造られ、地蔵信仰が盛んであったが、このように墓碑にまで転化した地蔵菩薩大分県下にはほとんどなく、それだけに貴重である。
 仏教の上では、人間がこの世を終えてあの世に旅立つと、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道の世界の内、どこかに住まなければならないといわれている。つまり、この世に生きていたとき善行を積んだ者はあの世では修羅、人間、天上の三道に行き、この世で悪いことをした者はあの世では地獄、餓鬼、畜生の三道に行くと言われている。
 地蔵菩薩はさらに過去に死去した人の罪過をも救済してくれると説いているため、庶民にとってこれほど受ける仏けは他になかった。したがって、他の仏の尊像にくらべてことさらに数多くの地蔵を造立させてきた所以であろう。
 こうした地蔵菩薩が時代を下がるにつれ、いろいろな神仏と習合して「延命地蔵」「子授地蔵」「耳地蔵」「火除地蔵」「子安地蔵」など、もろもろの地蔵信仰に結びつき流布伝播し、さらに墓碑にまで転化していった。
   宇目町教育委員会

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 上記の説明内容につき一点、所在地の「大字河内字河内」がひっかかりました。それと申しますのも、前回紹介しました河内の石幢の説明板にも、所在地が「大字河内字河内」とあったからです。あの石幢とこちらの笠地蔵はやや離れておりまして、同一の字であるとは思えませんでした。ときどき行政区名を「字」として表記しているのを見ますので、もしかしたら大字河内の中に「河内」という行政区があって、それをさして「字河内」と表記したのかなとも思いました。でも、行政区名を「字」とするのは適切な表記とは言い難く(下記の補足を参照ください)、果たして教育委員会による説明板なのにそんな書き方をするでしょうか。あれこれと思いを巡らしても、現地の地名に明るくないために確からしい答えに行き当たりませんでした。

<補足>

 大分県のうち住居表示になっていない地域の呼称について説明します。「大字○○字×× △△番地」の表記の場合、通常「字○○」は省きます(大字ごとに地番が振られているため)。古い地名がどんどん忘れられていますが、地名も一つの無形民俗文化財であると考えます。これから先、今以上に住居表示が進んでいくと思われますが、古い地名も残していただきたいものです。

<グループ1>土地によるもの

・大字 町村制施行以前からの村名によることが多い。いくつかの字の集まり。

・字 大字の中の小区分ですが、グループ2の部落名や班名とは異なります。

・小字 字の中にある細かい地名、通称地名。

<グループ2>暮らしによるもの

・行政区 行政区分上の自治体。人口の少ない地域では複数の部落の集まりであったり、または一つの大字がまるごと行政区となっていることもあります。または、開拓地や新興住宅地などの場合は複数の大字にまたがる場合もあります。

・部落(集落) 昔からの共同体、ムラ。

・班、カクラ、デエ(土居)など 部落内の小区分で、無常組などの単位になっていることが多い。この区分に最も密接しているのが無常組で、単独で組織するところもあれば、2つないし3つの班で1つの無常組をなすところもあります。ほかにも、お宮のお祭りなど部落内の年中行事の回り番のグループにもなっています。昔は年中行事や講組織が数多うございましたのでその内容によって、いろいろなグループ分けが並立しておりました。ですから、たとえば同一の部落内で班は3つに分かれているのに無常組は2つしかないなど、この区分は複雑を極めていたようです。しかし、今は講組織が皆無になってきておりますので、単に回覧板を回す単位、または年中行事の座元の単位などとして「班」が存続しているのが実情で、カクラやデエなど古くからの言葉は忘れられてきています。

 

9 河内の庚申塔

 神田部落から、今来た道を戻ります。河内の石幢への分岐を過ぎて少し行けば、道路右側に庚申塔が並んでいます。

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  すべて文字塔で、その大きさが様々です。もちろん一度に造立されたのではなく、大待ち上げか何かの度に造立したのでしょうから、庚申講が長く存続したことがよく分かります。字も部落名もわかりませんでしたので、一応、項目名を「河内の庚申塔」としました。

 

今回は以上です。こうして記録していく上で、部落名や字名が分からないというのは不便なものだと実感した次第でございます。