大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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因尾の庚申塔めぐり その1(本匠村)

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 県南山間部の庚申塔めぐりの記事が続いています。直川村、宇目町重岡地区ときまして、小野市地区はまだ十分に探訪できておりませんので飛ばして、今回から本匠村は因尾地区のシリーズとなります。

 さて本匠村は中野地区と因尾地区に分かれまして、観光地・景勝地の名声をほしいままにしている小半鍾乳洞や銚子渓谷、大水車、宇津々渓谷、鬼ヶ瀬、仏座の洞門はみな中野地区にございます。因尾地区にも轟の滝や井ノ内薬師、佩楯山等ございますが、遊覧者の数で申しますと中野地区ほどの観光化はなされていないようです。しかし、石塔類をはじめとする文化財や自然景観のすばらしさは決して中野地区に引けをとりません。お茶で名の出た因尾の里は、必ずや来訪者の郷愁をそそることでしょう。このシリーズでは庚申塔を中心として、因尾地区の文化財や名所・景勝を紹介してまいります。

 

1 山部の里について

 弥生町から県道三重弥生線を辿り、ずっと番匠川に沿うてまいりますと、虫月部落で道が左右に分かれます。これを右にとれば大字山部(やまぶ)に入ります。その名の通り見渡す限り山また山、その地形の険しさは県南でも指折りでございまして、山裾を右に左に折り返しながら細い道が奥へ奥へと続いております。その道々、まさに山家という言葉がぴったりの小部落が点在しています。

 さて、部落名を羅列すれば小鶴、屋形、葛籠(つづら)、新開、片内(※三重町に編入)、土紙屋(つちごや)、松葉、登尾、平原(ひらばる)、元山部、樫峰(かしのみね)、下腰越、上腰越等ございまして、このうち樫峰のみ元は単独で樫峰村をなしておりましたが、ほかは山部村のうちでありました。山部の里の村々は、屋形や新開、土紙屋、下越越に至っては今や住む人なく、その他の部落もほとんどが5本の指で足る軒数なのです。しかも部落間が非常に離れておりまして、今は自動車が通いますけれども昔は、尾根伝いに山坂を上り下りするのを常として、因尾の中心部に下るだけでも難渋したことと思います。自動車が通る道が完成したとて、片内部落など佐伯に出るのに片道40kmもあり鷲谷経由で三重に下る方が便利なので、分離編入に至りました。実現はしなかったものの樫峰部落も分離編入の話があったそうです。

 しかしこの山部というところは、歩いて山越をしていた時代には因尾から三重に出るにも野津市に出るにも通ったので、今よりもずっと人通りがあったようです。また、昔の山の暮らしは自給自足が基本で、焼畑(土地の言葉でカンネと申します)等により生計を立てたと思われますが、現代を生きる我々が想像するよりも、案外暮らしには難渋しなかったのかもしれません。もちろん機械化のなされていない農作業や隣の部落に行くにも山坂を上がり降りする暮らしの体力的な大変さは言うまでもありませんが、その暮らし向きは必ずしも悪いとはいえなかったのではないでしょうか。事実、山部の村々には庚申塔をはじめとする立派な石塔類が方々に見られます。それだけの規模の講を組織できるほどの余力があったということでしょう。

 私はこの地に縁もゆかりもございませんのに、なぜかこの山部の里に惹かれるものがございまして、あの細い道を今回は樫峰経由で三国峠に行ってみよう、今回は腰越経由で佩楯山に登ろうなぞと何度も通ったことがあります。山また山の景勝にわずか数戸の小部落、汲めばそのまま飲めそうなほど澄んだ谷川の水など、何もかもが美しく、四季折々の風情がございます。このような感想は所詮部外の者の戯言ではありますが、山部の村々、あの小部落の数々の安寧を願わずにはおれません。本匠村の中でもいちばん好きな山部の里のごく一部ではありますけれども、因尾の庚申塔シリーズの第1回目に取り上げることにしました。

 

2 小鶴の尾根道の仏様

  虫月部落から山部方面を目指します。ずっと右に川を見ながら進んで行くと、一旦川から離れて左に大曲がりするところがあります。そのカーブの外側に仏様のお室がございます。車は、仏様の前の空き地に停められます。

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 ずいぶん厚い石のお室で、仏様の破損を懼れて鄭重にお祀りしたことがうかがえます。しかし仏様の首がとれてしまっているのが残念でございます。細かい彫りが見事で彩色もよく残り、立派なお姿が偲ばれます。この仏様のところから、尾根伝いに平坦に進む道があります。その道を歩いてみますと、道端に破損した仏像が転倒していました。

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 写真中央に破損した仏様が写っています。転倒した際、木にぶつかって折れてしまったのでしょう。なんと痛ましいことでありましょうか。仏様の存在から、この尾根筋は、おそらく県道が開通する以前に徒歩で利用していた昔の道なのではないかと推測いたしました。昔の道筋は今の車道とは違う場所を通っていて、尾根伝いに山を越し、川は徒歩渡りを常としていたようです。

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 尾根伝いに行けば、最後はものすごい急坂で川原に下りて行きます。木でこしらえた簡易的な手すりが設置されていました。川魚を釣る方や水遊びをする方が通行するのでしょう。坂があまりに急で戻るのが大変そうで、時間の関係で川原に下るのは控えましたが、枝の掻い間からでも美しい流れが目に入り、この景観はことさらに印象に残りました。 

 

3 小鶴の供養塔

 大字山部に入って最初の部落が小鶴です。わずか数戸の家並みを過ぎてすぐ、道路左側に4基の塔が並んでいます(冒頭の写真)。こちらは道路端ですのですぐわかります。車は、その少し手前、道幅が広くなっているところに停めます。

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 このような状態で、草が茂ってきておりましたので近寄るのは遠慮しました。もし上がりたい場合は、右側に小径があります。蔦が絡んで、銘は確認できませんでした。おそらく、この中のいずれかは庚申塔でありましょう。また『本匠再見』によりますと、こちらには団子型の五輪塔もあったそうですが破損してしまったとのことです(団子型の五輪塔については上津川で見つけましたので次回紹介します)。

 

4 松葉の石造物

 小鶴の庚申塔を過ぎて、今度は松葉を目指します。土紙屋経由でも行けますが道が悪いので、土紙屋への分かれ道は無視して直進します(※)。その先の二又は、「野津宇目線」の標識に従って右にとります。橋を渡ったら土紙屋からの道と合流します。道なりに左に行って、そのすぐ先の二又をまた左にとって赤い欄干の橋を渡ります。松葉部落に入って、いちばん奥のお宅への上がり口に「松葉の石塔と埋木出土地」の説明板が立っています。

※今回は写真がありませんが土紙屋部落の先には立派な石段の金毘羅様があります。もしお参りをされる場合、松葉から番匠川の左岸を通る道はとても狭いので、この分岐を右に下り川を渡った方がよいでしょう。沈み橋の幅が狭いので、車の運転に気を付けて渡ってください。

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 説明板の内容を起こします。

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松葉の石塔と埋木出土地

「松葉の石塔」
 昭和の終わり頃、道路工事のため近くの遺跡から移されたもので、大きくは三つに分けられます。

庚申塔
 左手上方に享和三年(一七一八)から寛政三年(一七九一)までの庚申塔八体があり、その中央の青面金剛像塔は、素朴な造りながら付属する奉載物の多いのが特徴となっています。

「板碑形塔墓」
 右手上方の山中に一七体残り、板碑形の穂に戒名と没年が刻まれ、戒名は四字のものが多く、なかにはキリークの種字(阿弥陀如来)を刻んだものもあります。この形の墓石は珍しく、登尾の西福寺跡と堂ノ間の千久庵に残り、主として僧のものと思われます。

「その他の石塔」
 斜面の下側に簡素な造りの笠塔婆、三体の大師像、大師遍照金剛塔、ほかに光明真言塔、西国巡礼塔など、密教系の石塔が残されています。
 なおこの奥に、破損した石祠の笠に大きく十字の形を示すものがあり、話題となっていますが、専門家の間でいまだキリシタン遺跡とは確認されていません。

「埋蔵古木出土地」
 平成五年、ここより村道を西へ八〇メートルばかり進んだ場所より、阿蘇第四火砕流(約九万年前)による埋木(樹齢約一〇〇〇年の針葉樹)が発見され、現在九州国立博物館に保存されています。埋木はなお残り、九州島の歴史を語る貴重な遺産といえます。

   本匠村教育委員会

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 説明板のところから右上のお宅に上がりかけて、その途中から踏み跡を左に行けば山裾にお弘法様や笠塔婆が並んでいます。

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 ちょうど訪ねた時季が悪かったようで、草木に埋もれつつありました。こちらの笠塔婆には、塔身に何か変わった文様が線刻されておりましたが、それが何かはわかりませんでした。

 この場所から斜面の上の方を見ますと、庚申塔が見えます。喜び勇んでオイサオイサと斜面をよじ登りましたが、たいへんな難所でございまして、往生いたしました。谷川道に沿うて右の方に行き、折り返すように上段を戻った方が容易うございますが、その道も倒木等で難渋いたします。ここでは右上から折り返すルートに沿うて紹介してまいります。

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 こちらが説明板で言及されていました板碑型の墓碑です。今はこのように荒れてきておりますけれども、碑面の状態は思いの外良好で、文字がよくわかりました。目に入ったのはこちらの数基だけです。説明板によれば17基もあるとのことですから、これよりもまだ右上の方に上がったところにもっとたくさんあったのでしょう。

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 墓碑の左からは文字庚申塔がずらりと並んでいます。

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 こちらは庚申塔かと思えば、西国巡礼供養塔でした。西国三十三箇所を巡拝した記念の塔かと思われます。代参講により数か所ずつを何年もかけて満願成就と相成ったのでかもしれません。

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 たくさんの文字塔、そのほとんどが「奉待庚申塔」か「庚申塔」の銘で、たいへん素朴な塔です。大待ち上げのたびに造立したのでしょう。たくさんの数がございまして、この松葉部落において庚申信仰がそれだけ長い間続いていたことが分かります。

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 いよいよ、今回の探訪でもっとも楽しみにしておりました松葉の刻像塔が見えてまいりました。こちらは、本匠村の中でも番ノ原の庚申塔(以前紹介しました)と比肩する豪華さで、「因尾の庚申塔めぐり」シリーズの目玉の一つです。わたくしが方々の庚申塔を訪ねて漠然と抱いておりました「刻像塔の定型」から逸脱する、何とも説明のつかない塔でありまして、いよいよ県南方面の庚申塔への興味関心が高まるきっかけとなりました。

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 青面金剛6臂、2童子、6猿!、2鶏、1僧!、邪鬼、ショケラ

 6匹の猿やお坊さんらしき像など通常の庚申塔ではまずありえないような付帯物はさておき、まず主尊の恐ろしい顔つきが印象に残ります。鼻筋の通った細面の顔立ちに、きりりとつり上がった眉毛、目のつり上がり方も半端なものではございませんし、歯ぎしりをしているような口元も恐ろし気です。線彫りで表現された炎髪は頭部から浮いているように見えますし、鬢も耳から離れていますから、まるで異国の高貴な人がかぶるような冠をかぶっているような雰囲気がございます。その中央から数本の線がまっすぐ、塔の尖端まで伸びているのはどうしたことでしょう。腕も体も非常にカクカクとした造形です。持ち物を見ますと弓の異常なる小ささが気にかかりますが、それにもまして外に伸びた左手(向かって右)を見ますと、明らかにショケラをぶらさげています。ショケラの髪を掴んでいるというより、ショケラをひっかけた棒を掴んでいるような造形で、さても風変りではありませんか。

 童子は左右で服装が異なります。どちらも優しそうなお顔で、長閑な雰囲気が感じられます。向かって左の童子の左側に、真横を向いて長坐位になっている猿が2匹、さらに弓の左上にも同じ姿勢の猿がもう1匹刻まれています。ああこれで3猿…と思えばそんなことはなく、左下には「見ざる言わざる聞かざる」の3猿も刻まれているではありませんか!猿が6匹!一体どういうつもりで6匹も猿を刻んだのでしょうか。猿が4匹以上刻まれている庚申塔はただの一度も見た記憶がございません。たいてい3匹か2匹、どうかすると1匹です。

 主尊の足元はただの台座かと思えば、よく確認しますとものすごく角ばった邪鬼でありました。長方形の邪鬼は目じりを下げて、オロロンオロロンと泣いているように見えます。この恐ろしい金剛さんに踏まれては泣くよりほかないといったところでしょうか。このあいだ紹介しました、直川村は間庭の大師庵の庚申塔では邪鬼がアッカンベーと舌を出していました。あれとは大違いです。そして獅子の隣には謎のお坊さんが!まったく何が何して何とやら、どうして庚申塔にお坊さんが刻まれているのでしょう。しかもこんな隅っこに。推測にすぎませんが、お弘法様のような気もいたします。さらにその隣には、消えかかっていますけれど鶏が2匹、上下に並んでいます。

 この庚申塔は、失礼ながら彫りには若干の稚拙さが感じられますけれども、その特異なデザイン、猿が6匹も刻まれ謎のお坊さんも刻まれ、とにかく近隣在郷に類を見ないものでありますから、文化財指定されてもおかしくないほど貴重なものであると考えられます。

 それにしてもこの松葉部落は、今は軒数も少のうございますけれど、昔はこのように立派な庚申塔を造立したり「西国巡礼」を成就したりと、かなり繁栄していたのではないかと思われます。それは、この松葉部落が交通の要衝であるということも要因でありましょう。松葉からは新開経由または登尾経由で片内に抜けて三重に出る道、腰越経由で野津に出る道がそれぞれ通じており、逆ルートで因尾に抜ける場合にも経由します。昔はかなりの人口があったことが推察されます。

 

今回は以上です。佩楯山も紹介しようかとも思いましたが、適当な写真がありませんでしたので今回は省きました。山部の探訪は甚だ不十分で、気になっている場所がたくさんあります。またの探訪を楽しみにしています。次回は上津川方面に参ります。