大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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因尾の庚申塔めぐり その4(本匠村)

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 中野地区のシリーズの途中ですが、因尾地区を再訪する機会を得ましたのでこの地域の補遺として「その4」を書きます。今回の目玉は元山部(もとやまぶ)の庚申塔です。そこに至るまでの道中にたいへん難渋しましたので、そのあたりの事情も絡めて書いてみようと思います。

 

13 新開の段瀑

 凡そ1か月ぶりの山部探訪となりました。虫月から松葉まで行き、前回は二股を右にとりましたが、今回は元山部までの道中で新開に寄りたかったので左の道を行きました。すなわち右が県道53号、左が県道35号です。いずれ劣らぬ隘路にて覚悟はしておりましたものの、県道35号は記憶していたよりずっと恐ろしい道でした。思えばこの道を通るのは12年ぶりでございます。 ※元山部に行くには、松葉より右岸に渡りまして登尾、平原経由で行けば安全です。

 さて、松葉部落は番匠川(因尾川)の両岸にまたがっておりまして、このシリーズの初回にて紹介しました「松葉の庚申塔」は左岸側(登り方向の場合右側…登尾側)にございます。今回はそちらに行かず、ずっと右岸(登って行きますので右に川を見ることになります)をまいります。松葉のうち右岸側に並ぶ数軒の民家を過ぎますと道幅は完全なる1車線、待避所以外では絶対に離合できないうえに、その待避所がたいへん少のうございます。交通量はほとんどありませんが、川べりの崖道にてガードレールも乏しく、転げ落ちたら命の瀬戸です。しばらく行きますと新開部落に着きました。県道左側に2軒、少し行って県道から右側に下ったところに2~3軒ありますが、その全てが空き家です。新開の呼称から、おそらく松葉あたりの分家により拓かれた枝村でありましょう。この険しい山の中に耕地を拓き暮らしを立てた昔の方を思えば、現状を見るにつけ身につまされるものがございます。

 実は今回、新開に何か石造文化財はないものか、庚申塔はあるかななどと楽しみにしておりまして、もしあるとすれば県道から右に下った数軒の辺りであろうと踏んでおりました。ところが訪ねた季節が悪かったのか最近はずっとそうなのか、下りて行く坂道が一面草の海でした。歩いて下るのも無理です。10年ほど前は車でも下れそうな様子でありましたので、まさかこのような状態であるとは思いもよりませんでした。

 どうしようもないので、諦めて先へ進みました。その途中で、道路が右カーブするところの左側に小さな段瀑がありました。それが冒頭の写真です。汲めば飲めそうなほどに澄んだ、きれいな水です。まったく山部というところは自然美を極めるの感がございます。しかしあまりに道が悪く、不安が先に立ちましてせっかくの自然を心から楽しむ余裕はありませんでした。

 

14 出合橋付近の渓谷

 新開を過ぎて相変わらずの難路を進みますと、二股に出ます。左にとって登って行けば樫峰(かしのみね)部落に至り、その先はもう三国峠です。今回は元山部に行きたかったのでこれを右にとり、県道35号を辿りました。少し下れば出合橋で、その名の通り、ちょうど橋の下が2つの川の吐合になっています。車を停められるほどの道幅がありましたので、少し休憩しました。美しい渓谷の風景に、崖道の運転に胆を冷やした心が休まります。

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 この辺りは流れが穏やかで、しかも水が完全に澄み切っておりますので写真で見ますと流れの向きが分かりにくいほどです。写真の下から右上方向に流れています。この場所は特に秋がよいでしょう。子供に返って、ちょっと木の葉で舟をこしらえて流したりすると、ほんに風流なことと思います。

 景色を楽しんで落ち着いたのも束の間、これより先はいよいよ県道35号の核心部です。川べりの長い長い登り坂は、新開あたりとは比べ物にならないほど狭く車幅ぎりぎり、しかもガードレールなどありません。右は高い崖で、下の方には美しい渓谷がずっと続いていますが景色を楽しむ余裕はありませんでした。左はむき出しの露岩です。路肩が悪く、ただの土の急斜面や崖の上に薄っぺらのアスファルトが敷かれているだけの道は全く信用できず、こんな始末の難所でありますのに先ほどの二又には何の警告もありませんでした。軽自動車か、せいぜいコンパクトカーでなければ通行困難でしょう。しかも川に沿うて右に左に急カーブを繰り返し、待避所は皆無です。対向車が来ませんようにと神に願いを何とやら、牛歩の歩みにてやっと登って行くとまた二股に出ました。これを直進すれば片内、右にとれば元山部です。片内部落が三重町に分離編入したのは市街地からあまりに遠いのはもちろん、この道中では当然の成り行きと感じました。歩いて山坂を上り下りしていた頃はまだしも、自動車交通の現代社会においては、この恐ろしい道を行き来するのはあまりに大変です。なお、ここから元山部への道は、離合はできませんが幾分ましになります。まったく、とんだ不首尾の浜松屋でございました。

 

15 元山部の愛宕神社庚申塔

 登りに登って、先の方に元山部部落が見えてきました。そのかかり、道路左側に愛宕様の鳥居が立っています。やっと辿り着き、ほっといたしました。車は一旦通り過ぎて、右に作業道が分かれているところに駐車できます。

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 説明板の内容を起こします。

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元山部愛宕神社の原生林と古塔
<原生林>
 佩立山(標高753.8m)の西麓に位置する小集落元山部の「愛宕神社」に残る原生林には、シイ・シラカシ・タブ・モミジなどの大木が残り、森厳な鎮守の森を形成しています。
 その中心を成すものはシイの古木で、その一本は樹高約25m、胸高周り6.18m、樹齢300年以上と推定され、以下胸高周りで3.6m、3.4m、2.6m、1.7mと続いており、シラカシ一本のそれは1.8m、タブのそれは1.7m、モミジのそれは1.63mで、いずれも独自の樹相を見せて鬱蒼と生い繁り、長い歳月の重みとその静寂を深く感じられます。
<古塔>
 神社の前の小高い丘の上に、4基の庚申塔があり、その一つの板碑型のものには、萬治三庚子天(1660)の文字があり、本匠村最古の庚申塔として非常に大切なものです。
 このほか境内には宝篋印塔の笠と相輪の一部が残り、一節によると、ここにはかつて庵寺があったが、いつの頃か破却され、後に愛宕神社となったことが、同社に残る墨書の板札から分かります。
 鎮守の森の自然木、苔むした庚申塔・宝篋印塔のそれぞれは、私たち先祖の古い時代の歴史を証明する貴重な文化財です。いずれも大切に保存し、後世に残すことが私たちの大きな責務といえます。
   本匠村教育委員会

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 こちらが愛宕様です。境内はやや荒れ気味でした。元山部はその呼称から、大字山部の中でも早くから拓かれた土地であり、しかも交通の要衝でありますから古くはそれなりの人口を擁したものと思われます。時代の流れで、さしもの元山部も3~4軒を残すのみとなっておりますので、草刈りも大変になってきているようです。社殿はトタンを利用した簡素な建物です。これは、古い社殿が傷んだので建て直したものでしょう。

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 右が破損したお地蔵様、左が説明板にて言及されていた宝篋印塔の残部です。ほかの部材はどこに行ったのでしょうか。もしかしたらどこかの石垣に転用されているのかもしれません。

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 鳥居の内側には燈籠も立っています。残念なことに片方は破損していますが、残っている方は比較的良好な状態を保っていました。

 さて、目的の庚申塔は鳥居から社殿を向いて左側の丘の端、道路沿いの崖口に倒れています(道路から見えるのですぐわかります)。道路からは急傾斜で上がられませんので、社殿付近から回り込んで折り返すように上がります。

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 全部で4期の庚申塔が倒れていまして、このうち手前の大きな塔が説明板で言及されていた塔です。実に360年前の塔であります。倒れて苔むしているものの状態は良好で、梵字がよく残っていました。

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 小さい方の塔も文字がよく残っています。これらは崖口の斜面に倒れているので、どうかすると道路まで滑り落ちてしまいそうです。大切な庚申塔が破損しないように、できればもう少し平らなところに動かした方がよいような気がしました。

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 確かに板碑の形です。上の三角になっているところの下に2本の横線が刻まれています。これが板碑型の特徴で、近隣在郷には珍しい形式でございます。『本匠再見』によれば、この塔の梵字青面金剛を表す「ウン」であり、今は苔で見えませんがその下には万治三庚申天、庚申塔と刻まれているそうです。さらに下には造立に関った5名の方のお名前が刻まれていて、全員「三浦」「甲斐」「小野」等の苗字も記されています。これらは明らかに屋号ではなく姓であることから、当時のお百姓さんも苗字を持たなかったわけではないということが分かります。大っぴらに苗字を名乗るのは禁止されていたはずですが、この山中の庚申塔の銘が問題になることはなかったのでしょう。

 繰り返しになりますが本匠村中心部から元山部を訪ねる場合、新開経由ではなく登尾・平原経由の道を強くお勧めします。なお、これも『本匠再見』の情報ですが、元山部の高岩という岩山の頂上にある祠には、雷天神の神像が安置されているようです。ぜひ見学したかったのですが行き方が分からず、地域の方にも見当たらず尋ねることもできませんで、今回は諦めました。

 

16 松内の石燈籠

 因尾村役場跡からスタートして、旧道を井ノ上方面に向かいます。右に羽木川のバス停を見て、一つ目の角を左に入り松内部落の家並みと田んぼの間を通る農道を進みます。道なりに行けば、農道の右側に立派な石燈籠が立っています。

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 全高3mほどの堂々たる燈籠で、全体のバランスが取れた美しい姿に見惚れてしまいました。棹の正面には「尺間宮」、右側に「明治二八年」、左側に「旧二月吉辰日」、台座正面には「万人講」の文字が見えます。「万」が新字体で書かれているのが若干気になります。後補の文字なのか、あるいは「萬」の略字として明治28年当時から「万」の字体が存在していたのかもしれません。しかし後者であれば、このように立派な燈籠に刻む文字としては、当時の正字である「萬」の方が適切であるような気がしますし、しかも「旧二月」の「旧」は実際には旧字体で書かれているのです。さてこれはどうしたことでありましょう。
 「万」の字体はともかく、この燈籠の由来については『本匠再見』にて詳しく説明されています。それによれば、万人講とは神社仏閣に集団で参詣(千人参りのことと思われます)したり堂塔の建立・修理などに寄進したりするための講であるそうです。尺間宮とは弥生町の尺間大権現のことでありましょう。高野春枝さん曰く、日清戦争に出征した兵隊さんの無事と日本の勝利を尺間様に祈るため建立したものであるそうです。

 特に標識も説明板もない文化財ですが非常に立派なものでありますから、通りがかりにでも見学されてはいかがでしょうか。

 

今回は以上です。因尾地区の補遺として数か所掲載しました。ほかにもまだまだ抜けがあります。またの探訪ができ次第、続きを書いていきます。次回から中野地区のシリーズに戻ります。