大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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中野の庚申塔めぐり その4(本匠村)

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 前回、大字三股は安説(あぜち)の石造物まで紹介しました。今回は三股の残り、大良の庚申塔からスタートしまして、大字笠掛・風戸・宇津々まで巡ります。行きそびれた名所旧跡・文化財がかなりございますので不十分な内容となってしまいますが、立派なもの、珍しいものが目白押しです。特に長野の庚申塔を見つけたときにはたいへん感激しました。今から順に紹介します。

 

13 大良の庚申塔(イ)

 安説部落をあとに直見方面に行きますと、次が深瀬部落です。こちらにも庚申塔その他の文化財があるそうですが場所が分からず、探す時間がありませんでしたので今回は飛ばして次にまいります。橋を渡り、大良入口の標識に従って左折し、天神様の参道を過ぎてしばらく行くと道路左側に庚申塔が並んでいます(冒頭の写真)。

 こちらは全部文字塔で、一部には梵字も彫られていました。段差が高く、右側から上がれそうでしたが草が茂っていたので上がらず、道路からの見学で済ませました。大良部落には別の庚申塔もあります。小字名が分かりませんので、便宜的に「大良の庚申塔(イ)」としました。

 

14 大良の庚申塔(ロ)

 道路端の庚申塔を通り過ぎて先に進みますと、大良部落に着きます。そのかかりを左折し、曲がり角のところから小道(車は不可)を奥に行けば堂様の跡地に出ます。そこに庚申塔が2基立っています。車は邪魔にならないところをさがして停めるしかありません。行き当たりばったりで訪れましたが、簡単に見つけることができほっといたしました。先ほどの庚申塔と区別するために、項目名は便宜的に「大良の庚申塔(ロ)」としました。では2基の庚申塔を詳しく見てみましょう。どちらも刻像塔です。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 塔身の上の方を一部欠いているのほかはほぼ完璧な姿を保っています。こちらは「中野の庚申塔その2」にて紹介しました下波奇の庚申塔に似た雰囲気で、たいへん写実的な、見事なデザインでございます。特に主尊のむっちりとしたお顔やたくましい腕の彫りが素晴らしく、なんとも力強そうな雰囲気が感じられるではありませんか。邪鬼の下のところを見ますと、かなり彫り前後差をつけていることが分かります。それがために、主尊の彫りをより立体的に、厚肉にすることができているのです。ショケラの下のところを見るといかに厚肉彫りになっているかよくわかります。向かって左の童子がやや不鮮明になっているのが気がかりですが、それはほかの部分があまりにもよく残っているためでしょう。全体が左の童子くらいの状態になっている塔はいくらでもありますし、その状態であれば気にならないレベルです。邪鬼の平らな顔には憎たらしい雰囲気がよく表れています。

 下段を見ますと、3匹並んだ猿のうち向かって左がやはり傷んで、ここだけは像容が不鮮明になっています。中央の猿が正面を向いて、向かって右は横を向いています。左は、おそらく右の猿と同じようなポーズであったと思われます。見ざる言わざる聞かざるのポーズで、ほんにかわいらしく、剽軽物の雰囲気がございます。その下の鶏がまた立派です。向かって右は真横を向いていて、尾羽のほんに立派なことといったら、鶏には見えないほどでございます。左は、分かりにくいのですが頭をぐっと下げて、地面の餌をついばんでいるような姿勢で表現されています。足よりも頭が低いことから、穴の中の餌を探しているのかもしれません。全体的に対称的なデザインなのに、鶏だけは対称性を大きく崩しているのがおもしろいところです。たいへん洗練されたデザインといえましょう。本匠村に数ある庚申塔の中でも、かなりレベルの高い塔だと思います。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏、邪鬼

 こちらは直川村でときどき見かけるデザインの塔で、本匠村でもこれとよう似た塔を何基か見ました。共通の石工さんによるものでしょうか。塔身の上部、へりのところが傷んできていて、三叉戟の上部と日月を欠いてしまっていますが、それ以外は非常に良好な状態を保っています。彩色もよう残り、手足の指など細かいところもはっきりと分かります。主尊はまさに怖い表情で、悪霊なんぞはこちゃ知らぬとばかりの勇ましさでございます。この塔でおもしろいのは、主尊が両手で杓をとっているところです。主尊の左右にはそれぞれ鶏と猿が上下に並んでいます。鶏の形を左右で違えているほか、猿も持ち物が違います。アラエッサッサとばかりに浮かれ調子の猿もまたおもしろいではありませんか。それに対して正面向きにて顔を大きく表現された邪鬼はほんに不気味で、分かりにくくなっていますがアッカンベーと舌を出しているようです。

 大良の堂様跡の庚申塔は、このように2基ともたいへん立派なものです。道路端に並んでいた文字塔とは別に堂様跡に立っているのは、やはり立派な刻像塔ですから特別扱いをして、道路端よりもより上級の場所として堂様境内を選んだのではないかと思います。

 大良の川向い、長崎部落にも庚申塔があるそうです。深瀬と同じく探す時間がなくて探訪できていないので、紹介はまたの機会とします。大良から宮ノ越まで、来た道を引き返します。

 

15 長野の庚申塔

 宮ノ越から橋を渡ったところが大字笠掛(かすかけ)は長野部落です。十字路を直進して旧道に入りますと、ほどなく道路左側の草付の崖上に庚申塔が1基立っています。しっかりとした参道がありますので、簡単に塔の前まで行けます。近くに車を停める場所がないので、一旦通り過ぎて本匠中学校の駐車場に停めさせていただき歩いて戻るとよいでしょう。こちらは文字塔で、その銘がたいへん変わっています。私は初めて見ました。

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申庚墓

 何と珍しい銘でありましょうか。まず「申庚」は、「庚申」の間違いと思われます。検索すると、県外でも同様の間違い事例があることが分かりました。問題はその下の「墓」です。どう見ても墓標ではなく、庚申塔なのに墓とはいったいどうしたことでしょう。はじめ何が何やら、訳がわかりませんでした。調べてみたところ、「庚申墓」は「庚申塔」と同義で、関東地方などにも稀に「庚申墓」とか「庚申基」と刻まれた庚申塔があるそうです。この銘は、大分県ではたいへん珍しいものです。もしかしたら近隣在郷に同様の銘をもつ塔があるかもしれませんが、私は初めて見ましたし、今のところ同様の銘の塔には行き当たっていません。

 嘉永3年、今から凡そ170年前の塔でございます。大きく立派な字体で刻まれた「申庚」は、間違っているのに自信満々な感じがして微笑ましいではありませんか。赤い彩色もよく残った立派な塔で、特に文化財指定はなされていませんが「申庚墓」の銘は貴重なものでありますから、今後も傷むことなく状態が保たれますように願うております。崖上にて長野部落を見守ってくださる庚申様です。近くの本匠小学校・中学校の子供達の交通安全にもきっとお蔭があることでしょう。

 

16 笠掛公民館裏山の石造物

 本匠中学校の川向いが笠掛部落です。笠掛という地名は、昔お弘法様がこの地を訪れた際に、山越道に備えて笠を錫杖にかけて休憩したことに由来するそうです。佐伯からら本匠村に行くには、今は弥生町から鬼ヶ瀬経由でまいりますので風戸がその玄関口となっておりますが、昔は尾岩峠(車不可)を越して笠掛に抜ける道がよく使われていました。今は袋小路のようになっている笠掛部落が、その当時は交通の要衝であったということです。余談ながら「笠掛」は昔から「かすかけ」と発音します。しかし、今は「かさかけ」の読みが主流になっているのか、現地の標識にも「kasakake」の表記があります。確かに「かすかけ」は「かさかけ」の転訛にすぎないので意味は同じでありますが、できれば昔からの読み方も残っていってほしいと思います。

 本匠中学校前の橋を渡って左に行き、次の角を右折したところから先が笠掛部落です。軒数がわりと多く、昔、尾岩峠が現役であった頃はそれなりに賑やかであったことが推察されます。本匠村誌の庚申塔のページを読んで、笠掛部落には20基以上の庚申塔があることが分かりました。期待感に胸を膨らまして、初めて本匠中学校前の橋を渡りました。本匠村には何回も訪れたことがありますが、笠掛は用事がなければ行く機会がない場所なのです。事前にグーグルマップを活用してある程度あたりをつけようとしましたが、それらしい場所が全く分かりません。おそらく堂様の跡地か墓地の隅に寄せられているものと思い、現地で捜してみることにしました。それはもう笠掛の上から下まで、あの道この道と自動車で行きつ戻りつしたものの残念ながら行き当たることができませんでした。おそらく車の通れない道を上がったところにあるのでしょう。

 念願の庚申塔は見つけられなかったものの、その過程で珍しい石造物を見つけることができましたので、それを紹介します。場所は笠掛公民館裏山の頂上です。笠掛部落に入り小川沿いの道を行きます。小さな橋で対岸に移る手前を右折して、法面に沿うて右に坂道を上がれば公民館です。車を停めて右の方に行きますと、やや心もとない急な石段がカーブして上の方に続いています。きっと庚申様への道だと喜び勇んでその道を上がって、小山の頂上に着きました。たった5分やそこらですので、簡単な道のりです。

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 こちらが笠掛公民館裏山の石造物の全景です。尾根上の狭い区画に2基の石燈籠と、いくつかの御室、仏様がコの字型に並んでいました。

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 特に気になったのが、こちらの塔でございます。御室はずいぶん傷んでしまっていますが、中に収められた塔は状態がよく、細かいところまでよく分かります。一見して、はてこれは何ぞやと疑問に思いました。下の方の渦巻き模様は雲でしょう。仙人のようなお方が雲に乗っています。そして、右上には獅子か何かに乗った烏天狗の姿が見えます。エジプトの旧跡に見られます壁画の絵文字によう似た雰囲気で、何ともおもしろいではありませんか。左上は文殊様でしょうか、何らかの仏様でございます。

 不思議な塔を穴のあくほど観察して、考えても考えても、わたくしの知識が浅はかであるために確からしい答えに行き当たりませんでした。碑面に刻まれた3つの像の特徴から風の神様ではなかろうかとも思いましたが、確証を得ません。しかし小山の頂上という小高いところに祀られているのも、風の神様であれば合点がいきます。『本匠再見』を見直しましても、こんなに珍しい塔なのに全く言及されていません。どなたかご存じの方にはぜひ教えていただきたく存じます。

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万人講

 因尾の庚申塔シリーズの「その4」で、松内の万人講の石灯籠を紹介しました。その項でも「萬」ではなく「万」の字体であるのはどうしてなのかと疑問を書きましたが、こちらの銘もやはり「万」の字を使っています。それはさておき、さても優美なお姿の仏様でございます。衣紋の表現はやや形式的なところもありますけれども、全体的にとてもよく整ったデザインであると感じました。本匠村、宇目町、直川村では、このように「万人講」「三界万霊」「一字一石」等の銘を刻んだ矩形の台座に仏様が乗った塔をよく見かけました。この種の塔は銘によって「三界万霊塔」「一字一石塔」など区分されますが、塔の形状からの分類として地蔵塔という呼称も考えられましょう。でも、そうなると石幢と紛らわしくなってしまい、何とも悩ましいところでございます。

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 御室が立派で、特に重厚な笠が見事です。軒下のところに「市木」と彫られています。これを見て、『本匠再見』で紹介されていた「市木の地蔵さん」だと思い当たりました。それによれば、市木とは宮崎県は美郷町宇納間の地名とのことです。宇納間にございます全長寺というお寺さんのご本尊で、奈良時代行基が一刀ごとに三礼をもって彫刻したという仏様です。江戸市中の大家を鎮火させた霊験をもって、火切地蔵・火伏地蔵として著名であるそうです。その霊験が本匠にまで伝わり、愛宕様、秋葉様と同様に広く信仰されたということでしょう。小高いところにありますのは、眼下に広がる笠掛村を守って頂くためと思われます。昔はクドや囲炉裏など何につけても火を使いましたし、普請もムッカラ葺きや茅葺きばかりでありましたので、今以上に火事を恐れたものです。今回、このありがたい市木のお地蔵様に偶然にもお参りすることができましたので、あらためて火の用心を決意した次第でございます。

 

17 笠掛公民館裏のトンネル

 市木のお地蔵様から笠掛公民館まで下って、今度は裏手の坂道を登ってみました。庚申様はありませんでしたが、古いトンネルを見つけましたので紹介します。

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 ずいぶん古い素掘りのトンネルです。或いは、防空壕であったのかもしれません。入ってすぐに左方向に横坑がありまして、その横坑はカーブしてこのすぐ左側につながっていました。普通のトンネルであれば、こんな構造にはなっていないと思います。

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 これがその横坑です。今のところ傷みは少なく、状態は良好でした。大分県はトンネルが多いところで、特に竹田はトンネルが多いことで有名です。佐伯方面も、畑野浦峠旧道や轟峠旧道に古いトンネルがあります。こちらは防空壕の転用と思われる小規模なトンネルですが、昔の方の暮らしの様子を今に伝える遺構であります。

 

18 風戸山の名所・文化財

 大字風戸のうち竹原(たこら)と椎ヶ谷を総称して風戸山と申します。この地域の名所・文化財は下記リンクを参照してください。風戸山の鵜戸神社跡、椎ヶ谷の石造物(庚申塔)と寄せ四国を紹介しています。

oitameisho.hatenablog.com

 

19 宇津々の愛宕神社

 風戸山から宇津々に引き返します。長ノ分の三叉路から宇津々川に沿うてゆるやかに登っていき、山口部落に入ってすぐ、字ツルの道路左側に消防団の倉庫があります。それを見てすぐ左折し、道なりに行けば愛宕神社が見えてきます。左折した先の道路両側に灯籠が立っていますのですぐわかります。上まで行くと駐車できないので、邪魔にならないように坂道の上がりはなに停めるとよいでしょう。

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 石畳と石段の参道が長く続いていて、思いのほか立派であったので驚きました。しかも砦のように立派な石垣をついて、道路よりもずいぶん高いところに鎮座しています。

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 こちらで特に楽しみにしていたのが、この仁王様でございます。国東半島でよく見かける仁王像も、南海部地方ではここだけです。『本匠再見』によれば、昭和初年に寄進を募って造立されたそうでコンクリ製とのことです。国東半島の石造仁王像と同じように後ろに衣紋の裾を長くとって、それをつっかい棒にして三点支持にて立っております。細かい部分は省略されていますが、スマートでなかなか格好のいい仁王様ではありませんか。昭和初年には、とうに神仏習合は薄れていたはずです。それなのに神社の入口に仁王様が立っているとは、なんと大らかでありましょうか。神様仏様の隔てなく崇敬した、昔の方の素朴な信仰心が感じられます。

 

今回は以上です。どこもかしこも立派なもの、珍しいものばかりで、感激のあまり字数がたいへん多くなってしまいました。次回は、以前紹介しました宇津々はフルドモリの庚申塔群を、再度詳しく紹介します。