大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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中山香の名所めぐり その2(山香町)

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 中山香の名所旧跡の続きです。今回も主に大字野原を巡ります(最後の西明寺のみ大字内河野)。スタート地点は前回紹介しました龍頭橋です。

 

8 福林の寄せ四国

 龍頭側から新しい方の龍頭橋を渡り、八坂川右岸にまいります。道路が右カーブしてから1つ目の角を左に上がりますと、5差路に出ます。この辺りが福林部落で、5差路の直進方向左側に小さな堂様がございます(冒頭の写真)。こちらが福林の寄せ四国でありまして、堂様の中にはお四国さんの仏様が寄せられています。ごく狭い坪にはいろいろな石造物も集められています。

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 このように牛乗り大日様、お弘法様など種々ございます中に、殊に注目したのが右から3体目の石仏です。こちらは双体道祖神の類なのでしょうか?わたくしの勉強不足でよく分かりませんでしたが、このような造形の仏様は近隣在郷ではほとんど見かけません。珍しいものだと思います。

 

9 小鳥の石仏

 福林の寄せ四国の前を通って先に行きますと、ほどなく小鳥(おとり)部落です。左側に小野尾(おのの)公民館があるところの手前、杉林の中に仏様が並んでいます。駐車場がありませんので、お参りをされる場合には公民館に停めさせていただくとよいでしょう。

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 このように立派な祭壇をこしらえて、手厚く祀られています。参道もきちんとしていますので手軽にお参りできます。中央の御室の笠の重厚さが印象に残りました。向かって右は牛乗り大日様で、山香町では特によく見かけます。農耕に牛馬が欠かせなかった時代には信仰が篤かったものと思われます。いまでは山香の名産として、お米やエビネ蘭、鉄砲百合と並んで山香牛がよく知られています。もちろん田畑を耕すために牛を飼っていた時代と、畜産でたくさんの牛を飼育する現代とではまるで様相が異なります。でも、馬頭観音様や牛乗り大日様に見られる、牛馬を家族のように大切にした昔の方の気持ちはきっと今に伝わっているものと思います。

 

10 小野尾の山神社

 小野尾公民館を過ぎて道なりに行きます。植林の中を通り、田んぼの横中を通り、また植林の中を通って田んぼの中の道になります。左の田んぼの向こう側の植林の途切れるところに小野尾の山神社があります。道路からの入口はすぐ分かると思います。こちらは車道から下へ下へと下って行ったところに神社がございまして、珍しい立地です。神社まで車で下れますが道が狭いので、農繁期は避けた方がよいでしょう。

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 山神社の境内はごく狭くいものの、きちんと整備されていてこざっぱりとした印象でございます。石灯籠など数種類の石造物が寄せられており、特に狛犬が立派です。また、この一帯は圃場整備が済んでおりますので昔ながらの景観というわけではありませんけれども、長閑な風景がなかなかようございます。

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 木の麓に安置された祠も印象に残りました。昔の方は、木や川、石、火、空など何にでも神様を見出して、ある種の畏怖をもって接していました。今は時代が違いますけれども、こういった素朴な信仰の風景は、驕り高ぶらず謙虚な心持ちで生きることや自然との共存の大切さを示唆してくれているような気がいたします。

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 参道沿いに塔が2基倒れていました。急斜面の崖口に立っていたのが、転げ落ちてしまったのかもしれません。ひび割れは見当たらないのが幸いなことであります。小野尾の山神社に庚申塔があると聞いていたのですが境内には見当たりませんでしたので、おそらくこの2基がそうなのでしょう。碑面が下になっていてその内容を確認できなかったのが残念です。

 

10 小屋家国東塔

 山神社から元の道に返って道なりに行き、二股は左にとります。そのまま先ほど田んぼの向こう側に見えていた道を行きますと、道路端にいくつかの石造物がございます。まず左側の石造物を紹介します。見落とすことはまずないでしょう。

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 請花・返花を伴う立派な国東塔で、その横には五輪塔も並んでいます。こちらが「小屋家の国東塔」です。すぐ側には説明板が立っています。

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 説明板の内容を起こします。

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小屋家国東塔
   杵築市山香町大字野原字小野尾
 この塔は中世の小屋氏一族を祭るため造立されたと伝えられている。
 基礎は二重(普通は三重)で、上部に格挟間のない造りである。台座は複弁八弁の返花と短弁八弁の請花からなり、塔身は丸形に近く、首部はかなり欠損し補修されているが、奉納孔を有し胴部の空洞に通じている。笠軒口は二重で、全体体に水平で上端で急に反り、下端でごくわずかに反り隅は厚くなっている。相輪は九輪で宝珠に火焔がわずかにつき半面が欠損している。基礎は80cm、総高200cmで銘等のない国東塔である。

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 この塔と道路を挟んで反対側の田の畔にも石造物が並んでいます。こちらは見落としやすいかもしれません。

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 向かって右の塔は、三部妙典一字一石塔です。圃場整備や車道の開通の際、地中に埋められたたくさんの小石はなくなってしまった可能性が高いような気がいたします。

 

11 羽門の滝

 羽門(うど)の滝は山香町きっての景勝地で、鋸山、甲尾山、津波戸山、雲ヶ岳等に比肩する名所でございます。町内にはほかに芹の滝もございますがほとんど知られておりませんで、一般に山香の滝といえば羽門の滝を思い浮かべる方が多いことでしょう。駐車場等立派に整備されておりまして、かつては滝の下手に河川プールが開かれて夏期には遊覧者で賑おうたものを、大水で河川プールが破損してからは滝を訪れる方もずいぶん少なくなってしまっているようです。それにしても「羽門」とはなかなか風情のある呼称ではありませんか。

 小屋家国東塔のところから少し下り、次の角を右折して道なりに下れば羽門の滝の駐車場です。車を置いて石段を下り、川べりの遊歩道を行けば滝壺まで行けます。途中で渡渉するところがありますが、よほど増水していなければ特に問題ないでしょう。

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 小規模ながらもさらさらと水の落ちる、雰囲気のよい滝です。この滝に付随する滝として、やや離れていますが上小滝と下小滝があります。上小滝は遡行に往生しますし下小滝はさほどの景観でもありませんので、よほど興味のある方でなければ見物はこの滝のみにしておいた方がよさそうです。

 駐車場に戻って、トイレの横から奥に行きますと岩陰に仏様が並んでいます。それと知らいで見落とす方が多いようです。

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 このように苔むした十王像その他の石仏が並んでいます。ちょうど訪ねた時季がよくて、椿の花が落ちていました。寂しいところでありますが、なかなかよい雰囲気です。ここから急坂を上がれば、滝の落て口まで行くこともできます。

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 立派な案内板があります。先ほど申しました上小滝と下小滝もしっかり載っています。絵地図の横に掲載されている伝説を転記します。

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羽門の滝の白竜伝説
 ここ堂床の地に一宇の伽藍あり、本尊地蔵を祭りて名も知れず夜を避けし美しき母と娘が堂を守る為に住んでいた。
 いつごろのことか、罪深き日々を責め、地蔵にその斉教を修めこの滝に行する武士がいた。年も過ぎ、この堂を守る母と娘を見るに、その瞳は深く露を宿し、振る舞う姿の麗しさに迷い、行の身の責め戒めも忘れ身の生きる支えを求め頼んだら、娘は「わたくし故ある身ですので百か日の間、その身を遠ざけてください」と言われた。そして願い明けの日の戌の刻(今なら午後8時のこと)に再び堂にてお会い致したいと答えた。
 やがて仮住まいにて待つ約束の日、五ツを待てずに訪ね来た武士。そのときそれは幻か、あの艶やかなる娘、滝に抗い眼は爛々と輝き光を映して美しく、真白き素肌くねらし水飛沫も戯れるその様、妖気迫りて思わずもらす一声に、そのとき既にあの娘、嘆に乱れ悲恋の情け水面に残し、水底深く身を投ずるに波紋の渦に沈めたその姿、再びこの世に還ることはなかったとか。歳を経て村人の噂は悲し。
 しぐれる羽門の五ツ時、悶え悲しみ飛沫の滝をかき昇る白竜を見かけるという。
 村人達はいまだに白竜悲恋を語部に伝える。

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12 西明寺

 羽門の滝をあとに、今来た道を引き返しまして貫井方面にまいります。前回紹介しました「旧町村境の石仏」のある旧道への別れのところにて右折しまして、坂道を上がって「サッカー場」の標識のある角を過ぎ、直後を右折します(西明寺の看板あり)。バラ園への道を途中まで行き、二股を右にとって坂道を上がります。ここから先は道幅が狭いので軽自動車かせいぜいコンパクトカーでなければ難渋すると思います。舗装が悪いうえに段差もありますので用心して上がってください。または車で上がるのはやめて、小谷から長い参道を歩くのもよいでしょう。

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 西明寺は無住となっており、地域の方がお世話をされているそうです。こちらにはいくつもの文化財がございますので、お参りをしたら見学をいたしましょう。

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 水は枯れ石垣も壊れてしまっていますが、池を伴う立派なお庭でございます。西明寺のかつての威容が偲ばれます。

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○ 六郷満山本山末寺、養老2年の開基、豊後西国20番札所

○ 本尊は千手観音像(成朝の力作)

○ 山上には山王権現宮あり、寺の鎮守で神仏習合の名残あり。

○ 明治23年まで修正鬼会が行われていた。

○ 指定文化財毘沙門天立像(県)永久5年、石造三重塔(県)貞和4年

 説明板の内容を簡単に拾いました。修正会のお面なども保存されているのでしょうか。この説明板を見て思いましたのは、山香というところは速見であり国東でもあるのだということでございます。行政区分上は旧速見郡でありますが、考えてみれば杵築や高田に隣接しておりますので、国東半島の文化の影響がなかったとは考え難うございます。いま、一般に「国東半島」と聞いてイメージする地域には山香は含まれないことが多いとは思います。確かに、山香の中でも上・南畑や山浦、向野は宇佐地方(旧宇佐郡)寄りでありますけれども、東山香・中山香・立石については国東半島寄りでありますので(盆踊りの演目の違いに地域差が表れています)、国東半島の石造文化財の見学等の際には山香町も含めて見学・比較されますと何か新しい気付きがあるかもしれません。

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 石造三重塔につきましては、別に詳細な説明板が立っています。内容を起こします。

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県指定有形文化財昭和32年3月26日)
西明寺石造三重塔
   杵築市山香町大字内河野字辻小野

 この石造三重塔は、銘文により貞和4年(1348)に覚仏の逆修(生前供養)のため秦重吉と恵吽大徳が勧進(資金集め)し、上阿を中心に心阿、西阿、一阿などの時宗系の僧侶の手によって造立されたものと思われる。
 基壇の四隅に結界を巡らしたように角塔婆を置き、基礎は三重で、第二重の南面に銘文が陰刻され、第三重には四方に、各二面の格狭間が刻まれている。塔身の大一層には各面に梵字が薬研彫りされ、第二層の各面に葉蓮華座が浮刻され、第三層には各面に月輪が浮き彫りされている。平成8年の修復工事の際、第一層部上面に竹製の経筒、宋・元銭が一括埋納されているのが明らかになった。なお、この塔は昭和15年国重要美術品に指定されている。

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 さすがに立派なものでございます。はじめ、遠くから一見しまして三重の塔の四隅の石柱は結界を張るためのただの柱かと思うておりましたら、近づいてみますと笠塔婆でありました。三重塔の精密な造り、堂々たる姿の立派なことは言わずもがな、それを笠塔婆で囲うているのですから、いよいよ高級な感じがしていまいります。横に葉たくさんの仏様が点在しており、この一角は特別ありがたい雰囲気がございました。石造物は、風化摩滅や折損等により傷むことはあっても、木造仏のように朽ちることなく長く残ります。幾星霜の世を経た石の文化財…それが石仏、石塔、石橋、石垣、墓石など何であろうと、こういったものの数々が、昔と今をつないでくれているような気がします。

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 左に上がれば説明板にて言及されていた山王権現様です。境内は荒れ、拝殿が朽ちて今にも倒れそうになっていました。危ないので遥拝にとどめておいた方がよさそうです。

 

今回は以上です。次回は小谷の国東塔などを紹介したいと思っていますが、適当な写真がありませんのでしばらく先となります。