三重町は百枝(ももえだ)地区の一部を探訪することができましたので、ここに紹介いたします。百枝地区は大字百枝・川辺・上田原(かみたわら)・西泉・向野(むこうの)からなります。この地区の著名な観光名所としましては大辻公園(あじさい園・古墳群)があります。それ以外にもたくさんの文化財・見どころがあるようなので、今後の探訪が楽しみな地域の一つです。
1 宮山の石造物
三重市街地から国道519号を千歳村方面にまいりまして、「百枝入口」交叉点を右折します。道なりに行くと道路左側に牟礼公民館があります。車は、公民館の駐車場に停めさせていただくとよいでしょう。道路の反対側の坂道を登ったところに石幢その他の石造文化財が寄せられています。また、写真はありませんが公民館の少し手前から右に入る道の角のところに、庚申塔(文字)が数基立っています。
大乗妙乗一(以下不明)
正面には、おそらく「大乗妙典一字一石」または「一石一字」と彫ってあったと思われますが、「一」から下の字がわからなくなっていました。見事な書体にてくっきりと彫ってありますのに、どうして下の方だけがわからなくなっているのでしょうか。また、塔の下の方が本来地表に出ていた部分まで埋もれているようにも見えました。おそらくこちらに動かして土台をきちんとやり直したときの影響でありましょう。重厚な笠が印象的な、立派な塔でございます。
たいへん立派な石幢で、笠が一部傷んでいるほかは良好な状態を保っています。龕部は八角で、六地蔵様と十王様・閻魔様が1面あて1体ずつ刻まれています。元亀3年、なんと450年も前の造立とのことで、とてもそんなに古いものとは思えない状態の良さに驚きました。こちらには、歯が傷むときに年の数だけ楊枝をお供えしてお参りをすると痛みが治まるという伝承があるそうです。どうして六地蔵さんが歯痛に結びついたのか定かではありませんけれども、昔は歯科医院などありませんから、その祈願も真に迫ったものであったと思われます。
笠には内刳りが施されているのが特徴です。龕部の諸像はほぼ完璧な状態を保っています。それはやはり、この大きな笠に守られているためでしょう。
閻魔様は台の上に巻紙を広げて、筆で何かを書いています。とても細かい部分まで丁寧に表現されております。
青面金剛6臂、ショケラ
この庚申塔は下の道路に背を向けて立っていますので、坂道を上がってきても気付きにくいと思います。回り込んで確認してあっと驚きました。猿も鶏も伴わない小型の塔でありながら、碑面いっぱいに刻まれた厚肉彫りの主尊はなかなかのものではありませんか。しかも、両手で日月を掲げているという表現はずいぶん風変りでことさらに印象に残りました。これは、日月を主尊に持たせることによって、天体・時間の経過をも統べるというさても強大かつ奇しい力を想起させ、それほどまでの霊験にあやかろうとしたのかもしれません。主尊の裾に取りすがるように表現されたショケラも見逃せません。手の指、脚の指、弓の弦など細かいところまでよう行き届いた丁寧な表現には一つのほころびもなく、かなりの秀作であると言えましょう。
2 牟礼のお地蔵様
牟礼公民館を過ぎて道なりに行くと、右側に牟礼神社があります。その先の十字路の角、左側にお地蔵さんなどの石造物が寄せられています。
このように立派にお祀りされています。道路端にあって、今なお近隣の方の信仰が続いているのでしょう。このうち向かって右端の祠は、賽ノ神ではないかと思います(確証はありません)。もしそうであれば、近隣では珍しい石造物ではないでしょうか。通りがかりにでもちょっとお参りされてはいかがでしょう。
3 円福寺跡の石造物
前項の石造物のある交叉点を左折します。次の二又を道なりに右にとって進みますと、道路右側に円福寺跡の参道入口があります。
ここが入口で、小さく見えている庚申塔が目印です。この辺りは国道519号のバイパス道路が造成されている最中で、道路が完成すれば様相が一変すると思われます。今のところはこの入口のすぐ先にバイパス道路の工事現場への取り付き道がありまして、その上がりはなに邪魔にならないように駐車しました。ただし平日は工事車両の往来等があり駐車はできないかもしれません。
青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ
石幢目当てで訪れたので、よもやこのように立派な庚申塔があるとは夢にも思いませんでした。思いがけず立派な庚申塔に出会えて、感激のあまり駆け寄った次第でございます。たいへん立派な石祠に収められておりますのも、やはり非常に完成度の高い立派な庚申様でありますから、鄭重にお祀りしたくなるのも道理というわけです。
まず、主尊のお顔がたいへん印象深うございます。近隣で見かける青面金剛とは一線を画すその表情は、まるで臼杵の石仏のようなお慈悲の表情でございまして、なんともありがたい感じがいたします。獅子のような髪型の細かい櫛の目も素晴らしい。体を見ますと、衣紋が袈裟懸けになっているところの立体的な表現や、裾が末広がりになっているところのバランスもよいと思います。とにかく余白を残さで碑面いっぱいに主尊や持ち物が刻まれていて、たいへん豪華な印象を受けました。足元の左右に佇む鶏は、主尊とはうって変わって浅い彫りでささやかに表現されておりますのも、その可愛らしさを強調しています。特に向かって左の鶏が地面の餌をついばんでいる様子など、ほんに愛らしいではありませんか。猿も、3匹仲良うならんで蹲踞坐りにて見ざる言わざる聞かざるの所作になっていて微笑ましいものです。また、ショケラが正面向きで、まるでてるてる坊主のような雰囲気で合掌しているのも可愛らしくてよいと思います。青面金剛の庚申塔として一般に思い浮かべる厳めしい印象とは無縁の、慈悲に満ちた、愛らしく親しみやすい塔でございます。
台座のところには講員の方のお名前がびっしりと刻まれていて、実に15名を数えます。これは多い方だと思います。ただそのお名前が、何々衛門などの昔風のものがないのが気になりました。塔の造立年を確認するのを忘れてしまったので何とも言えませんが、案外新しい塔であるのか、または石祠は後補のものであってお名前はそのときの講員の方なのかもしれません。左端には「待中安全」とあります。この「待中」とは講中の意でありましょうか。
お寺跡は、今は堂様になっています。この堂様の左右および裏手にいろいろな石造物が集められていました。
左:諸経中王一石一字
中:三界万霊塔
一字一石塔の「諸経中王」の表現は初めて見ました。これは「大乗妙典」などと同じような意味で、諸々のお経の中でも格の高いお経といった意味合いでしょう。壊れた宝篋印塔の笠の右側は、おそらく庚申塔と思われます。
一字一石塔には「村祈祷」と刻まれています。旧の、上田原村の安寧を願うたものでありましょう。
奉待庚申塔
庚申塔が1基倒れていました。
こちらが、探訪を楽しみにしていた石幢です。残念ながら宮山の石幢に比べると痛みが激しく、龕部の一部は剥離してしまっていました。明応3年、凡そ520年も前の塔です!520年前のこの辺りは、いったいどんな様子だったのでしょう。
龕部は八角形です。六地蔵様を1面あてに1体と、あとの2面は上下2段に分かれて十王様が4体刻まれています。10のうち4を選ぶのはどういった基準なのか、よくわかりませんけれども何らかの思いがあったのでしょう。
普通、八角の龕部は真上から見れば正八角形をなしていると思うのですが、こちらは見るからに、お地蔵さんの面と十王さんの面では横幅が違うような気がいたします。
風化摩滅が進み、もはや何の仏様かもわからないような石仏もいくつも並んでいました。その一つひとつに丁寧にお供えがあり、地域の方の信心のほどがうかがわれます。
宝篋印塔も傷みが進んでいます。思うに、宝篋印塔は段々になったところや四隅の突起など細かい部分、角をつけて面をとった部分が多いものですから、宝塔に比べると傷みが目立ちやすいような気がします。
堂様の後ろにあった三体の石像です。こちらのみ基礎をきちんとして、簡易的な屋根を設けています。よほど大切なもので、おそらくこの霊場の中でも重要な意味を持っているのでしょう。由来が分からなかったのが残念です。
観音様でしょうか。素朴な造形ながらも慈悲深い表情が胸を打ちます。
こちらは琵琶を持っています。弁天様かもしれません。
3体の石像、それぞれに形が違い、いずれも味わい深い造形でした。
奥の崖下には、低い屋根をかけたところがありました。どうもこの場所は、泉水であったようです。右の石祠はよく分かりませんが、水の神様かもしれません。
五輪塔もたくさんあります。後家合わせや壊れたものが目立ちますけれども、お供えの筒が一つひとつに立っているのには感心しました。
今回は以上です。次回は菅尾地区の名所旧跡を紹介します。