大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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菅尾の名所めぐり その1(三重町)

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 三重町は菅尾地区の名所・文化財を紹介します。この地域には有名な菅尾石仏のほか、数多くの石造文化財がございます。まだ十分に探訪できておりませんので、ひとまず5か所のみの紹介となります。

 

1 菅尾石仏(岩権現)

 菅尾石仏こそは、菅尾地区はおろか三重町全体、さらには大野地方を代表する名所の一つと見て差し支えないでしょう。古くから「岩権現」と称しておりましたが、今では一般に「菅尾石仏」と呼ばれています。これは、明治22年に菅生村・井迫村・浅瀬村・宮野村が合併し菅尾村が発足して以降の呼称と思われます。地域内においては「岩権現」の呼称で差し支えないものを、学術的に注目されたり観光名所として広く宣伝されたりする過程で、臼杵や犬飼等の磨崖仏と区別するために「菅尾石仏」としたのでしょう。道路標識の類が充実しておりますので詳しい道案内は省略いたしますが、菅尾小学校のところからトンネルを通っていく道順が最も分かり易いと思います。

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 駐車場に、「菅尾の文化財」の地図と説明の載った立派な看板が立っています。この地域を探訪される際にはまず菅尾石仏を訪れて、ここを拠点に方々の文化財を訪ねるとよいでしょう。この説明板の中から、菅尾石仏の箇所を抜粋します。

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菅尾石仏
 石段を登りつめると五尊像の威容に思わず息をのむ。ほとんど丸彫りに近く、高さは1.8~1.9m、円光・舟形の二重光背で裳懸座に座し赤色顔料が施されている。現在も権現様として信仰されているのは五尊像が紀州熊野の五所権現を勧請したとされるゆえんだろうか。平安後期の作と推定されているが欠損もなく900年間当時のままの面影を残していることに驚きと畏敬の念をもつ。大分県の代表的な磨崖仏である。

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 駐車場から少し坂を登れば、石段と坂道に分かれています。昔からの参道は石段の方で、やや急ですが手すりも整備されてありますので安全に通行できます。坂道は、脚の不自由な方のために後年、心ある方の寄進により整備された迂回路です。こちらは上がりはながとても急傾斜になっていますので、下りの際には注意を要します。

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 参道を登りつめますと、広場の岩壁に大型の磨崖仏が5体並んでいます。向かって左から千手観音様、薬師様、阿弥陀様、十一面観音様、多聞天で、このうち多聞天は後補のような気がいたします。残りの4体はいずれも丸彫りに近い厚肉彫りです。微に入り細に行った表現が素晴らしいではありませんか。これほどの厚肉彫りでありますのに、臼杵の石仏や大分の石仏(岩薬師など)のように壊れたりしていません。保存状態のよさに驚かされます。どなたでも自由に拝観できますから、ぜひお参りをお勧めしたい名所中の名所でございます。

 

○ 菅尾石仏火祭りについて

 菅尾石仏には年間を通じてちらほらとお参り・見学に訪れる方がありますが、たいへん立派な磨崖仏でありますものの遊覧者はそう多くはないように思います。しかし2年に1回、8月の終わりに催される「菅尾石仏火祭り」の際にはたいへん賑わいます。この日は菅尾小学校付近に自動車を停めてシャトルバスで訪れることになります。篝火に照らされた岩権現様にはさても幽玄なる雰囲気がございまして、昼の日中に訪れたときとはまるで印象が異なります。

 お祭りの晩には、石仏駐車場でお神楽、鶏の鳴き真似大会、柱松、昔ながらの盆踊り、餅まき等、楽しいイベントが次々に催されます。鶏の鳴き真似大会と申しますのは、この地に伝わる民話(後述)に由来するイベントです。柱松とは竹竿を柱に、その尖端に柴等をくびりつけておきまして、火のついた松明を玉入れの要領で投げ上げて柱の尖端に当てて火をつけるものです。これはお盆の行事として大野地方一円で盛んに行われ子供が喜ぶ行事でしたが、近年は全く下火になってしまいました(国東半島など他地方の一部にも残っています…杵築市出原など)。また柱松のあと、お祭りの最後に踊る盆踊りも昔ながらのもので、由来(三重節)・祭文(はんかち踊り)・お夏・二つ拍子の4種類を口説と太鼓に合わせて踊っています。三重町は元来盆踊りが盛んで、昭和30年代までは7種類程度(白山地区に至っては13種類)の踊りがあったそうですが、今では盆踊りが途絶えたところが多くなってきています。お神楽や柱松、旧来の盆踊りなどといった民俗芸能・懐かしい年中行事の継承の場として、また郷土の民話の伝承の機会ととして、菅尾石仏の火祭りはたいへん意義深いものであると思います。今後も継続されることを願うております。

 

○ 民話「菅尾石仏と六字名号の由来」

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 今は昔、この地に鬼が現れ作物奪うやら物を盗むやら、挙句に子攫いなど悪行の数々、難儀すれども詮方なきを見かねた旅僧が鬼に言うには、一夜に五体の仏様を岩に刻みつけられねば法力で祈り殺すと。鬼の返答には、もし刻めば肝煎の娘をよこせと。翌晩、鬼が住処より鑿の音、見れば驚く早業にてはや四体を彫り終えたるがまだ夜は夜中、何を悔やむも後や先、ままよとばかりに僧が笠をば打ち振りながら鶏の鳴き真似に、鬼は夜明と思うて逃げ行くも己が命惜しさ。再び鬼の戻らぬを願うて、僧は仏様の対岸に六字の名号を刻み、村の安泰を願うた由。

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 鬼があと一歩で何かを仕上げる間際に鶏が鳴いた云々の伝承は方々にあります(著名なところでは熊野権現の鬼の百段)。ところが菅尾石仏の場合は、お坊さんが鶏の鳴きまねをして鬼を騙して追い払うたという発想が可笑しく、しかも近隣にあります六字名号をも絡めた内容になっています。菅尾石仏や六字名号にお参りをされる際には、この民話を思い出して鬼が仏様を刻む様子を思い浮かべてみてはいかがでしょう。

 

2 宇対瀬の庚申塔

 菅尾石仏の駐車場から参道石段に上がる坂道の途中を折り返すように左後ろに上がれば、行き止まりの大岩に庚申塔が安置されています。おそらく、麓の宇対瀬部落の庚申塔でありましょう。

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 大きな岩に願をこしらえて、鄭重にお祀りされた庚申様です。菅尾石仏にお参りされる方でもこちらに足を運ぶ方は少ないように思います。余裕があれば、こちらにもお参り・見学をしてください。

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青面金剛6臂、ショケラ

 小ぶりながらも厚肉彫りの主尊が碑面いっぱいに配された、立派な庚申様です。主損のお顔を見ますと、小さな目をつり上げて、口はアヒル口になっています。さても不気味なお顔立ちではありませんか。百枝の名所めぐりの記事で紹介しました宮山の庚申塔と同じように、こちらも両手で日月を掲げています。天体や時間の経過をも統べる、奇しい力を持っているようです。かわいらしいショケラや、提灯ブルマーのように膨らんだ下衣にも注目してください。菅尾石仏とは対極の、庶民作とでもいえるような珍妙な庚申様です。そして両者は位の上下なく、いずれも昔から地域の方の信仰を集めてきた大切な文化財であります。昔の方の暮らしに思いを馳せて、ありがたくお参りをさせていただきました。

 

3 智福寺跡

 菅尾石仏駐車場の前を左にとり、山裾の道を進みます。菅尾小学校への分かれ道(トンネル経由)を左に見送り、少し進めば道路左側に六字名号の標柱が立っています。この角を左折すれば離合困難な狭路になりますが、普通車までなら通行できます。いちばん奥のお宅の上手に駐車場があります。車を停めたら標柱に従って参道を歩きますと、右に宇対瀬不動の参道石段が分かれています。

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 宇対瀬不動は智福寺跡に建てられた堂様に安置されています。参道の石段が傷んでいてここからは上がられませんので分かれ道を直進して、先に六字名号に向かいます。

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 正面の岩壁に「南無阿弥陀仏」と刻まれています。こちらが六字名号です。

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 近寄ってみますと、ものすごく大きな文字に圧倒されます。近くから見ると全体の様子が分からず、文字も読みにくうございます。麓の、やや離れた位置から見ますとよく分かります。しかし、よし全体の様子が分からぬとてこの文字の大きさを体感することができますから、近くまで寄ってみる価値は十分あります。菅尾石仏の駐車場にある名所案内の看板から、六字名号に関する内容を転記します。

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六字名号
 智福寺跡の岩壁に「南無阿弥陀佛」の六字が彫られている。高さ12m、白鹿山妙覚寺黙首座の筆跡で仰ぎ見る人を圧倒する。宝暦3年(1753)から2か年をかけて完成した。

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 すぐ近くには、六字名号の由来が漢文で刻まれていました。

 見学したら、今来た道を引き返して一つ目の分かれ道を左に折れ、細道を進めばほどなく宇対瀬不動の堂様に到着です。その裏手にはおびただしい数の石仏・石塔群がございます。菅尾石仏駐車場の名所案内から引用しますと「もと岩屋寺と呼ばれ創立は不詳。境内には鎌倉期の不動尊を祀る不動堂、上・中段には室町期の宝塔、西国三十三所観音像、十王像、一石五輪塔、印塔が数多く建立されている」とのことです。

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 宇対瀬不動は大野川流域不動尊霊場の札所になっています。この札所巡りは手際よく回れば1日か2日あれば廻りこなせそうな気もしますが、近隣の名所旧跡・文化財の見学を合わせて少しずつ巡拝された方がよいでしょう。

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 どなたでも自由にお参りができます。さても見事なお不動様でございまして、昔から近隣の方々の信仰篤く、香華の絶え間を知らぬ札所であるそうです。

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 堂様の周りの石塔群は倒れたり壊れたりしているものが目立ちました。よしお不動様のお参りがあろうとてこれだけの数の石造物をお祀りするのはなかなか大変なのでしょう。この場所から坂道を上がれば、上の段に出ます。その崖下にずらりと仏様が並んでいます。

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 西国三十所の仏様、寄せ西国でございます。代参講もあったかもしれませんが、昔は容易にお参りができませんでしたので、こういった写し霊場の信仰は絶大なものであったことでしょう。

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経王石書塔

 一字一石塔です。上の方が傷んでおりますものの、幸いにもその傷みが銘にはかかっていませんでした。

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 こうして岩蔭にずらりと並んでおり、壮観です。一つひとつ、本物の西国参り札所の御本尊に倣うて、仏様の種類が異なります。いずれも立派な造形で、しかも保存状態が良好です。廃寺になり境内は荒れ気味でありますが、変わらぬ姿で立ち続ける仏様でございます。今は写し霊場にお参りをしなくても、容易に本場の西国参りができるようになりました。でも写し霊場にお参りをすれば、ただの一日、ほんのわずかの時間で三十三所を全部お参りするのと同じ霊験が得られるというのですから、これはお参りをしない手はありません。ありがたい霊場でございます。

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 立派な十王様もずらりと並んでいます。お観音様と十王様が横並びになっているのはどういった理由なのかよくわかりませんでした。

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板碑

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庚申塔

 智福寺跡にも庚申塔(文字塔)があると聞き及んでおりましたものを、はじめはどれがどれやら分かりませんでした。おそらくこの2基が、その庚申塔と思われます。植物に覆われ文字が全く読み取れなかったのが残念です。

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 十王様からお観音様、端から端までを見ますとかなりの幅がございます。これだけの規模の岩壁、自然地形のものすごさを感じます。ここにずらりと仏様を並べたくなるのも分かる気がいたしますし、その労力を思いますと当時の方の信心深さに感銘を覚えずにはいられませんでした。

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南無三界無縁塔

 

4 キリシタン礼拝所跡と磨崖クルス

 菅尾石仏や智福寺跡とほど近い場所に、潜伏キリシタンの関係の史蹟もございます。詳細は以前の記事を参照してください。

oitameisho.hatenablog.com

 

5  虹澗橋

 大野地方にはたくさんの石造アーチ橋が残っています。その中でも虹澗橋はその歴史・造形ともに指折りのものです。標識が充実しておりますので特に道案内は不要かと思いますが、菅尾石仏からであれば、菅尾駅前からずっと道なりに行けば道路左側に架かっています。

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 虹澗とは「澗(たに)を渡る虹」の意とのこと、さても風雅な名称ではありませんか。この場所は元来、柳井瀬渡と申しまして橋はなく、トン橋で渉っておりました。三重は臼杵領のうちでありましたので、年貢米を臼杵城下に運ぶ際にこの柳井瀬渡経由で野津市に抜けていました。その際、米俵をいちいち駄馬から下ろさないと渉れないほどの深い谷で通行に難渋するばかりか、そのときにお米を濡らしてしまえば引き返して濡れていない米俵と取り換えて運ばなければならなかったそうです。昔の支配階層のおこがましさといったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。これは臼杵藩だけのことではないと思いますが、何様のつもりなのでしょうか。こんな始末では農民の苦労が増すばかりです。それで、文政4年に三重と臼杵の豪商3軒がお金を出し合うて架橋の工事にかかりましたものを、土木技術の幼稚な時代でありますから工事に困難を極めまして3年半もかかり、文政7年にやっと竣工したものです。世の為人の為に私財を投げ打った豪商は家運を傾けたそうでありますが、その立派な行い・誉は、後の世までもこうして残っています。それに引き換え臼杵藩の体たらくでございます。藩がお金を出して架橋するのが本当ではないでしょうか。それを、立派な方が身銭を切って橋を架けてくださったのですから、せめてその方たちが没落しないように何らかの手立てを講じてしかるべきであったと思います。

 この石造アーチ橋は径間25m、江戸時代の石橋としては県内で最大規模のものです。後に自動車交通にも利用され、平成15年まで現役の橋として利用されていました。一部に亀裂が見つかったので、文化財保護のため今は車で通ることはできなくなっています。歩いて渡ることはできますから、ぜひ実際に橋の上に立って、谷の深さを確認してみてください。

 

今回は以上です。民話や地域の行事、昔のエピソードを織り交ぜたので文字数が多くなってしまいました。でも、わたくしは名所旧跡や文化財をそれ単体で紹介するのではなしに、地域の話題・昔の暮らしとひもづけて紹介していきたいと考えています。その意味で、今回の記事は自分なりに満足できる内容になりました。