大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その1(豊後高田市)

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 豊後高田市は六郷満山関連の文化財・史蹟が数多く、殊に都甲(とごう)地区と田染(たしぶ)地区は名所旧跡がとんでもない密度でございます。以前、都甲地区の名所旧跡・文化財を簡単に紹介しました。その続きも書こう書こうと思いながらそのままになってしまっていますが、田染地区の記事を書きたくなったので都甲の続きはまた今度にします。

 さて、田染地区は上野、相原、池辺、嶺崎、中村、真中、平野/蕗に大別されます(旧の大字)。末尾の「蕗」の手前のみ「/」を入れましたのは、田染の中でも大字蕗のみ氏神様その他が異なっており、「蕗」と「蕗以外」の地域に二分することもできますのでこのように表記いたしました。嶺崎のうち空木(うつぎ)や小藤、平野のうち大曲・今下駄などの小部落は人口の減少が著しく、大曲の棚田が一面休耕田になるなど、田染の景観もだんだん変わってきております。しかし田染荘の面影を残す小崎の田園風景など景観の保全が図られているところもあり、国東半島の中でも昔の風景が特によく残っている地域であるといえましょう。

 しかも、田染地区には著名な名所旧跡がたくさんございます。熊野権現(磨崖仏)、富貴寺、真木の大堂をはじめとして、間戸の岩屋を探訪される方も近年増加してまいりました。このシリーズでは、そのような著名な名所旧跡を挿みつつ、あまり訪れる方のない名所や文化財も紹介していきます。また、三ノ宮の景などの景勝をはじめとして、荘園の面影を残す田園風景や年中行事など、四季折々の風物の紹介も折り込んで、わたくしの大好きな田染の里を掘り下げていきたいと考えています。

 

1 三宮の景

 大田村から県道34号を田染方面に行きます。川べりの道を市境付近までまいりますと、桂川の対岸に岩峰が屹立しています(冒頭の写真)。この景観を三宮(さんのみや)の景と申しまして、国東半島でも指折りの景勝地として昔からよく知られています。殊に桜の時季がお勧めです。

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 護岸工事により半ば公園化され昔のままの景観ではありませんけれども、川べりの遊歩道には吉野桜が植えられ、春は見事です。吉野桜がだんだん葉桜になってきた頃に訪れますと、山桜も咲いていますのでまさに「山笑う」の風情がございます。川べりの桜、山の桜。写真のように晴れた日はもとより、曇り空の日もほんによいものです。

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 普段何気なく通り過ぎる道路でありますが、自動車を停めてちょっと散策いたしますと岩峰の荒々しさ、凄まじい光景に胆が冷えてまいります。このような風景を耶馬溪景勝地になぞらえて何々耶馬と呼ぶ事例は方々に見られます。こちらもその例に漏れず、三宮の景から間戸の岩屋、鋸山から熊野権現あたりにかけての岩峰群を田染耶馬を総称します。

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 家族連れで、ござを延べてお弁当を食べたりするのにもほんによいところです。昔のように川べりを散策する方を見かけなくなりましたが、皆さんにお勧めしたい景勝地でございます。

 

2 三宮八幡

 三宮の景のところ、道路端には三宮八幡が鎮座しています。説明の都合上順序が逆になりましたが、つまるところ「三宮の景」とは三宮八幡に由来する呼称であるわけです。田染の八幡様は、元宮、二宮、三宮までございます。これは、古くは元宮八幡に田心姫命湍津姫命・市杵嶋姫命をお祀りし田染の一宮としていたものを、観応2年に神託あり湍津姫命を間戸に遷座し二宮八幡社、市杵嶋姫命を稲積に遷座し三宮八幡としたものです。元々は同じ流れでございますのでこの三社を「田染三社」と呼びます。冒頭にて申しました通り大字蕗の方々のみ富貴社の氏子で、それ以外の地域の方は田染三社のいずれかの氏子です。内訳は下記の通りです。

元宮 中村、相原、池辺
二宮 小崎、横嶺、間戸
三宮 真木、菊山、陽平、薗木、熊野、田野口、大曲、観音堂、上野

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 道路からは木森に隠れている境内は想像以上に広々として、整備が行き届いておりほんに気持ちのよいところです。こちらは狛犬がなかなかのものですから、お参りがてら見学されてはと思います。

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 八角形の台座を何重にも重ねるという手の込みようで、さても豪華な感じがいたします。狛犬の造形の見事さは言うまでもありません。特にお顔の表現が素晴らしいではありませんか。大きな鼻、ことさらに四角く開けた口など、個性的でよいと思います。

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 玉に上半身をあずけて可愛らしい雰囲気を匂わせながら、その実はとても強そうです。もしこんな犬に噛みつかれたらあれよあれよとお陀仏さんでございましょう。

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皇紀二千六百年造林記念碑

 碑側面の説明書を転載します。

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皇統連綿光輝アル紀元二千六百年誰カ生ヲ神洲ニ享ケタルモノ其ノ光栄ニ感激セザラン茲ニ三宮八幡社ハ関係者協議借地ノ上左記○○造林ヲ行ヒ奉祝ノ誠ヲ效ス
場所 西国東郡田原村大字沓掛字鍋山二千七百八十四
約壱丁歩   樹種本数 杉三千本

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 ○印の2文字のみ読み取れませんでしたが、全体としての意味は分かりました。ご高齢の方の中には、〽金鵄輝く日本の、栄ある光身にうけて…の流行歌を覚えておいでの方も大勢いらっしゃると思います。または〽金鵄上がって十五銭、栄ある光三十銭…の替唄の方をよく唄ったという方も多いかもしれませんが、それはさておきまして、紀元二千六百年のお祝いで方々の神社に植樹をしたり整備をしたりした記録がございます。こちらの碑もその関連で、杉を3000本も植樹したとはさても大規模な事業ではありませんか。そしてその場所は「西国東郡田原村大字沓掛字鍋山」とあります。この辺りは旧田染村と旧田原村の境界付近にて、三宮八幡の社地やそれに付随する山林等が境界を跨いでいたのでしょう。

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 このすぐ近くの売店はお饅頭がおいしかったのですが、残念ながら閉店してしまいました。特に「三宮饅頭」という商品はあんこがたくさん入っておりまして、ところの名物としてお茶請けに、また近所の人へのお土産に、みなさんに喜ばれたものでした。あの懐かしい三宮饅頭、もう一度食べたいものです。

 

3 鍋山磨崖仏

 三宮八幡から僅かに高田方面に進めば、道路右側に参道入口があります。付近に適当な駐車場がありませんので、三宮の景の辺りの駐車場に車を置いて歩いて行きましょう。はじめは緩やかな階段を折り返して登りますのでこれは簡単に辿り着けそうなと安気に構えておりましたら、とどの詰まりでその強度・状態にやや不安を感じるような、とても急な石段を登ることになります。

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 写真ではなだらかに見えるかもしれませんけれど、結構な傾斜でございます。しかも踏面が狭いのでたいへん歩きにくく、下りに注意を要します。上がり着きましたら狭い境内に磨崖仏の堂様や説明板がございます。

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 説明板の内容を転記します。

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鍋山磨崖仏 国史
  所在地   豊後高田市大字上野字高取
  指定年月日 昭和30年2月15日
  制作年代  鎌倉時代と推定
  解説
 約80段の石段を登ると鍋山の中腹岩壁に不動三尊が雄勁に半肉彫りしてある。
中尊の不動明王立像 像高約230cm 右手に宝剣、左手に索を持つ。
脇侍の矜羯羅童子立像 像高121cm合掌姿勢(向かって右)
制吒迦童子立像 像高約121cm 扼腕姿勢(向かって左)
田染村誌に云う「上野不動堂二間四面の草堂なり丈余の磨崖仏を覆う。また境内には山林五丹弐拾弐歩を有す。」
鍋山の盤石に安住する不動三尊 盛行であった不動信仰 過ぎ去りし昔がしのばれる。
   豊後高田市教育委員会

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鍋山磨崖仏

 典型的な三尊形式であり、三者が密接しているのが特徴です。矜羯羅童子の傷みが激しく像容が不鮮明になっているのが惜しまれます。でも、堂様で覆われているとはいえ自然の岩壁にあって何百年も前の姿を今に残しているのはすごいことですし、今まさに岩から仏様が現れんとする様が感じられましてさてもありがたいことではありませんか。熊野権現の磨崖仏と比べますと参拝者は少ないようですが、道路からそう遠くなく簡単にお参りできますからぜひここまで登ってみてください。

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 堂様の横には、岩のえぐれたところを龕となして2体の仏様が安置されています。特に写真中央の、高い位置の仏様はそのお顔がほんに優しそうで、拝みますと胸の悩みも晴れゆかんとするような気持ちになってまります。ほかにも何か石造物はないかなと思って左の方へと進んでみましたが、何も見当たりませんでした。

 

4 見世の庚申塔

 鍋山をあとに、県道を高田方面に行きます。道なりに、相原川にかかる小さな橋を渡れば見世部落です。橋を渡ってすぐ右折して新しい2車線の道をほんの少し進み、鋭角に左折すれば岩切堂がございます。その鋭角に左折するところの道路左側、道路より少し高い位置に庚申塔と何かの祠が並んでいます。車は岩切堂の前に停めます。新道の開鑿により、岩切堂の前の道は県道から直接入れなくなりましたので袋小路になっています。ですから車を停めても邪魔にはなりません。

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 道路からよく見えますが、こちらの庚申様は彫りが浅めで像容がやや不鮮明になってきているので、近づかないと細かいところが分かりにくいと思います。道路からの段差がやや高いので、気を付けてください。

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青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏、2夜叉

 風化摩滅が著しく、主尊の表情などはほとんど読み取れなくなっています。この庚申様で面白いのは、主尊の脚が鶏の頭の上に乗っている点です。つまり向かい合うた鶏の頭を踏んで主尊が立っているというわけで、まるで組体操か、または曲馬団の曲芸のようにも見えてまいります。ちょっと珍しい表現ではないでしょうか。鶏の真下には猿、その両脇には夜叉が並んでいます。はじめは4夜叉かなとも思いましたが、ぼんやりと残る輪郭の様子から、おそらく中の2匹は猿であろうと判断いたしました。

 このように諸像の姿が薄れてきてもこともなげに立ち続ける庚申様は、いつも地域を守ってくれています。ありがたいことです。でも正直に申しますと、もう少し状態がよかった頃に気に留めておけばよかったと悔やんでおります。

 

5 岩切堂

 見世の庚申様のすぐ裏手にある堂様です。県道からもよく見えるのですぐ分かると思います。石段の下に車を置けばごく簡単にお参りできます。

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 建て直されてそう月日が経っていないように見えました。地域の方の信仰が今なお続いているようです。参拝のみならで、部落の寄合等にもこの堂様を利用しているのかもしれません。お参りをしたら、堂様を正面に見て右の方に行ってみてください。お弘法様や庚申塔がございます。

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 立派なお弘法様です。国東半島のお弘法様の石像は2種類あって、ひとつは小さめの坐像が御室に収まっているものです。このタイプは方々の道路端で見かけるほか、個人の屋敷の坪にもよくございます。もう一つがこの写真のような大型の立像で、堂様やお寺、霊場、札所などでときどき見かけます。この近隣であれば大門坊のものがよく知られていると思います。その形状・大小によらで、昔から人々の信仰を集めてまいりました。特に春夏のお接待のときには、方々のお弘法様の像が札所になっています。

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青面金剛6臂、猿・鶏・童子は不明

 駒形の塔身に主尊が大きく配されています。堂々たる立ち姿で、大きなお顔は慈悲深い表情に見えます。銀杏返しのような、青面金剛らしからぬ髪型になっているのが気になります。鬢もふっくらとして、床山さんに結うて貰うたような雰囲気が感じられました。主尊以外にも、猿や鶏、童子の痕跡がうっすらと感じられるような気がいたしましたが、苔かもしれません。何が何やら判別できないほどの状態であるのが惜しまれます。それにしても、この塔もおそらく見世部落のものと思われますが、どうして先ほど紹介した道路端と岩切堂横に分けて置いてあるのでしょうか。

 岩切堂は道路から近く、お参りをお勧めいたします。桜も植わっています。満開の時季もよいし、葉桜になってきた頃もまた、堂様の建物やお弘法様・庚申様によう馴染んで、なかなかの景観でございます。

 

6 両田の横穴

 岩切堂から県道を高田方面に行きます。桂川にかかる橋を渡る直前を右折して、左に二宮ストア、田染小学校を見て進みます。小さな橋の手前の二又を左にとれば、左前、田んぼの向こうに小さな堂様が見えます。こちらが目的地です。車は1台程度であれば停められますが農繁期には邪魔になりそうなので、どこかに停めて歩いて来た方がよいかもしれません。

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 石段を上がれば小ぶりな仁王さんが待ちかまえています。なんとも素朴なお顔立ちでございます。

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 堂様の後ろに横穴墓が8基並んでいます。説明板によれば古墳時代後期のものと推定されているそうです。

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 堂様の裏手の岩壁は幅広にえぐれていて、中に龕をなして仏様がいくつも安置されています。傷んでしまったものが多うございます。おいたわしいとしか言いようのないお姿でありますけれども、それほど長い時間、たくさんの方をお守りくださったと思えばさてもありがたいことではありませんか。

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 横並びになっている横穴を堂様から左へ順々に見ていきますと、穴の中の庚申塔に気付きました。横穴墓の中に庚申塔が立っているのは珍しいような気がいたします(武蔵町で見たことがあります)。こちらは、もとからこの場所に造立したのでしょうか、または近隣の圃場整備等で移動する際に先々の風化摩滅を懼れて横穴の中に動かしたのでしょうか。いずれにせよ、この場所にあれば粗末にならずにすむと思います。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、ショケラ

 写真が悪くて見えにくいと思います。実物はもう少しくっきりとしていますが、やはり細かい部分は分かりにくくなってきています。この横穴の中にあっても傷んでくるものなのか、またはこちらに動かされたのであればそのときに既に傷んでいたのか、よく分かりません。主尊の腕や脚の表現を見ますとなかなかスマートな感じがして、力作であると感じます。今の姿ですらそのように感じるのですから元の姿はさぞやと思われます。猿はしゃがみ込んで見ざる言わざる聞かざるの、近隣在郷でよう見かけるデザインです。この表現はただでさえ愛らしいものを、こちらの猿は四肢の位置関係からまるで達磨さんのようにも見えてまいりますので、なおのことでございます。

 

今回は以上です。見世部落、両田部落ともに大字相原のシモの方です。相原のカサはまだ行ったことがないので、その辺りの紹介は当分先になりそうです。田染シリーズの次回は岩脇寺と七田観音を紹介する予定です。