大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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東山香の名所めぐり その3(山香町)

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 引き続き東山香地区の名所・石造文化財を紹介します。前回紹介しました倉成磨崖仏からスタートして、大字小武(おだけ)・広瀬をめぐります。

 

7 小武寺

 倉成磨崖仏の下の道路を、山香温泉「風の郷」とは反対の方向に進みます。突き当りを左折し、そのすぐ先にて「小武寺」の標識に従ってまた左折します。道なりに行けば、小武部落の中ほど、道路左側に山門・仁王像がございますのですぐわかります。駐車場もあります。周囲の田んぼの景観も含めて四季折々のよさがありますが、特に春先、山門横の桜が満開になる頃がよいでしょう。

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 こちらは仁王さんがなかなかよいお姿です。このような石造物を拝見いたしますと、やはり国東半島の文化圏であることを感じます。

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 説明板の内容を転記します。

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市指定有形文化財
小武寺仁王像

 仁王像は仏法守護のため山門の両側に立つ金剛力士像である。向かって右側が口を開いた阿形、左側が口を閉ざした吽形で陰陽をあらわす。ここに立つ仁王像は慈顔で親しみにあふれ、目には真鍮製の眼窩を入れているが、かつては黄金であったと伝えられている。このような入眼形式はこの地域では他になく珍しい。明和9年壬辰(1772年)熊野村(現豊後高田市田染)の石工松本儀平治の作である。

材質 凝灰岩
像高 256cm
平成17年9月27日指定

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 目に黄金を嵌めていたという記載を見て、緒方町の軸丸磨崖仏を思い出しました。軸丸磨崖仏の場合は黄金の目玉が「盗まれた」とのことですが、こちらはどのような事情で真鍮製のものに換わったのでしょうか。

 ところで小武寺は天慶4年(941年)に空也上人により開かれたとのことです。大友宗麟の焼き討ちに遭うた際に、薬師様を西岳の奥の坊に匿うた円亀和尚がその咎で処刑されたという話も伝わっています。円亀塚という塚が立石川の川原(旧山香中学校北側)に実在したものの、河川改修により失われたそうです。

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 現在の小武寺は無住で、近隣の方々のお世話により環境が維持されています。しかし境内に残された多種多様な石造物を見るにつけ、かつてはそれなりの規模を誇ったのではないかと推察されます。写真右端の石造物は供養塔でありましょうか、前回紹介しました金堂横穴墓で見かけたものとよう似ています。その隣はずいぶん角ばった五輪塔で、接合部を間近に確認するのを忘れてしまったので何とも言えませんけれども一石五輪塔のような気がします。その横にも、五輪塔か宝塔の一部とおぼしき石造物が安置されています。

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青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 折れた上部を前に立てかけてあります。つくづく破損が惜しまれる塔でございます。折損と地衣類の侵蝕により一見して分かりにくいものの、よく見ますと緻密な彫りで、細かいところまでよう行き届いた秀作といえましょう。

 豊かな御髪を逆立てた主尊は、たっぷりとひだをとった豪華な衣紋を纏うています。その足の短さから何となく可愛らしい雰囲気がございまして、まるで鬼の子供のような印象を覚えました。神妙な面持ちで合掌する童子は正坐です。坐った童子は珍しいのではないでしょうか。猿が中央に2匹、その外側が鶏です。

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 小武寺の石造文化財の中でも、特によく知られているのが仁王像と、こちらの国東塔です。塔身の下部を打ち欠いたところに楔を挿んでいる点と、基礎が失われている(或いは地中に埋もれている)点以外は良好な状態を保っているといえましょう。どっしりと重厚な印象の塔でございます。

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説明板の内容を転記します。

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市指定有形文化財(建造物)昭和30年8月1日指定
小武寺国東塔
 杵築市山香町大字小武字小武

 この国東塔のある境内は、明治初年に現在の石垣の高さに埋上げされ、そのとき現在地に移転されたが、造立当時の場所は不明である。
 国東塔は、下から基礎・台座(蓮華座)・塔身(胴部)・笠・相輪の5部材からなり、平安時代に創始された宝塔の一変種で、塔身下部を基礎の間に蓮弁を彫刻した台座を入れた、大分の国東地方特有の塔である。基礎は二重か三重が普通であるが、この塔は一重で四面に格狭間が2か所ずつ刻まれ、塔身の首部には方形の小孔があり内部の空洞に通じている。
 欠損箇所や塔身に、縦に数条の線が落書きされているほかは、原形を保っている。総高342cm・塔身は高さ90cm・胴廻り300cmの重量感のある塔である。銘文はないが室町期を下らない国東塔である。

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 説明板にあります明治初年の嵩上げについて申しますと、学制施行により小武寺の庫裏が小武小学校となった際に運動場を整備したことによるものです。小武小学校は明治42年、東山香尋常高等小学校に統合されるまで続きました。

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 お弘法様とその下の小さな仏様も気になりましたが、一面に銀杏が落ちていて近づくことができませんでした。

 ところで、小武寺には国指定重要文化財「木造倶利迦羅竜剣」が保管されています。盗難防止のため保管庫は施錠されており、まだ実物を拝見したことがありません。事前に市役所にお願いしておけば、見せていただけるそうです。

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 説明板の内容を転記します。

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国指定重要文化財(平成16年6月8日指定)
木造倶利迦羅竜剣
 杵築市山香町大字小武字小武

 倶利迦羅とは梵語のクリカラのことで黒竜と訳され、不動明王の変化した形とされている。黒い竜が剣にからみついてこれを呑もうとしている姿で、剣は不動明王、竜は竜王を表現しているという。また一説では、剣は不動明王が右手に持っている降魔の利剣、竜は左手に持っている羂索を表し、不動明王の化身の姿とも言われている。
 像高178cm、榧材の一木で作られているが、頭髪や白毫・右眼・下顎等が欠けている。このような木彫は珍しく、口を大きくあけた顔や、ぬめりとした躰部の肉取りなどには迫真力があり、製作年代は不明であるが、藤原期の姿を美しく表した平安時代後期の作といわれる。

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 わたくしは書籍でしかその姿を見たことがありませんので、いつかは実物を拝見したいものです。

 

8 瀬口の神社

 小武寺から道なりに参りますと今畑(いまはた)部落にて県道31号に突き当たります。後ほどこの左方向も紹介しますが、ひとまず右折します。瀬口部落にて国道10号に突き当たったらこれを左折して、小城酒店の自動販売機のところを左折すれば大迫部落への坂道、通称「七曲り」に続きます(この七曲り道は普通車までならどうにか通れますが急傾斜・急カーブ・離合不能の難所です)。その七曲りへの上がりはな、右上に小さな神社があります。国道からも目に入り、いつも気になっていたので立ち寄ってみました。

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 このように、狭い岩棚に小さなお社が建っています。中には御幣が立てかけられており祭祀が続いているようですが、何の神様かはわかりませんでした。

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 神社に上がる坂道の途中、崖際にはお弘法様の祠がありました。こちらも信仰が続いているようです。庚申塔がありそうな立地ですけれども、お弘法様のほかには石造物は何も見当たりません。

 

9 小重見の石造物

 小城酒店のところから橋を渡ってすぐ左折し、川べりの道を行きます。線路のガードをくぐりますと人家が途切れ、次第に山道の様相を呈してまいります。道なりに行けば小重見部落に着きます。

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 公民館の坪には、このように4基の石祠が立派にお祀りされています。おそらく部落内の方々にあった小さな神社を、こちらに集めたものでしょう。

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 同じく公民館の坪には、立派なお弘法様もございます。台座には「国家安全」の文字があり、これは甲尾山のお弘法様と同じです。公民館を通り過ぎて道なりに行きますと次第に上り坂が急になってきます。その辺りの道路左側、コンクリ製の基礎の上に数基の石造物が、車道に背を向けて立っています。たまたま見つけた石造物のうち1基がどうも庚申塔のようでしたので、喜び勇んで正面に回り込みました。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 やはり庚申様でした。しかもこの日の探訪では破損した庚申塔ばかりを目にしてきた中で、こちらは保存状態がすこぶる良好でありますうえに、さても珍妙なるデザインの刻像塔でありましたので喜びも一入でございました。

 日月を隠す瑞雲の自由奔放な表現はどうでしょう。主尊は前髪をパツンと切ったおかっぱ頭のような髪型で、口元をフフンと片寄せて、したり顔でニヤリと笑っているように見えてまいります。強い、怖いというよりは、言葉が過ぎるかもしれませんけれども意地悪な雰囲気すら感じられまして、思わず笑うてしまいました。悪霊を退治せんとする勇ましさより、退治してしまった後の「ざまあ見よ」の表情ではないかと思います。4臂の腕について申しますと、体前に回した部分はごく普通の、全く力が入っていない様子で、その肩のところから外向きに一直線に、短い腕が伸びているのもおもしろい表現です。童子はどう見てもお地蔵さんで、主尊・童子それぞれ裸足で立っています。

 鶏と猿の配置も風変りです。鶏を上下に並べて、その横に猿が横並びになっているのは、デザインの工夫というよりは枠ありきの配置のように感じられまして、これも微笑ましいではありませんか。猿が仲良う長坐位になっているのもよいと思います。

 この庚申塔は保存状態があまりに良好で、わりと新しいものかなと思うたのですけれども、裏をよく見ますと文政8年の銘がありました。200年ほど前の造立とはとても思えない状態のよさです。 

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 庚申塔の並びの石造物です。やや傷んでしまったものもありますけれどもこのように基礎をきちんとしてお祀りされていますし、近隣の方による手入れが行き届いているように感じられましたので、今後も長く地域を守ってくださることでしょう。

 

10 今畑の牛乗大日様

 小重見の庚申塔から来た道を戻って、今畑部落まで参ります。この地域では「今畑鉱泉」が奇勝として知られておりましたが、圃場整備等によりずいぶん衰えたようです。その近く、県道沿いに3つの祠と五輪塔が立派にお祀りされています。

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 中央と向かって右の祠は、中が空になっていました。左の祠は牛乗り大日様です。以前、中山香の名所シリーズでも申しましたが牛乗り大日様は、農耕に牛馬を使役していた時代には農家の方々の絶大なる信仰を集めていたようです。

 

11 中畑の国東塔

 今畑の牛乗大日様の先、中畑部落にて「中畑国東塔」の標識に従って右折します。おどなく道路左側の畑地に、立派な国東塔が立っています。

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 笠を欠くほか格狭間にも傷みが目立ちますが、立派な塔でございます。しかも車道よりも高く、下から見上げる格好になりますのでなおのこと堂々とした印象を覚えます。説明板の内容を転記します。

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市指定有形文化財(建造物)昭和30年8月1日指定
中畑国東塔
 杵築市山香町大字小武字中畑

 この塔は、大正10年ころ村道改修時に発見された。塔下の田は、中畑長者屋敷跡と伝えられ、長者の供養塔といわれている。現在破損している笠を修復すれば、総高4m以上の堂々たる国東塔である。
 基礎は3重で、最上重の4面には格狭間が3個ずつ刻まれ、台座は一重複弁の8弁で反花と請花からなり非常に精巧にできている。塔身は台座のわりに小さく丸形で、塔身首部に角丸方形の孔があり、塔身内部の空洞に通じている。また反花上部にも方形の孔があり、反花胴部も空洞で、掘り出したときその中に一字一石がぎっしり詰まっていたという。胴部の風化がひどく刻銘等判別できないが、反花胴部に納経する穴も例の少ないことで特筆に値する。

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 補足いたしますと、大正10年に発見したときには土の中に埋もれていて、それを彫り出して復元したとのことです。その当時から笠は欠損していましたが、昭和58年の文化財調査時に笠の破片(溝の渡石等に転用されていた由)を塔の近くに集めて安置したとのことですから、上の段に上がってみればよかったのですけれども、探訪時にはこのことを知らなかったのと、駐車場がなくて急いで見学したので上がらずじまいです。

 さて、この塔に関して2種類の民話が伝わっていますので紹介します。

 

民話「中畑長者」

 中畑部落に長者があり、その娘は鳥屋姫と言うて近隣在郷に稀な別嬪であった。ある日お六部さんの男が訪れたので宿を貸し数日経ったとき、娘と六部が忽然と姿を消した。長者夫妻は嘆き悲しみ、娘の無事を祈りつつ帰りを待って数年が過ぎた。

 待てど暮らせど娘は帰らず、長者は金蔵から千両箱を全部取り出して、それを3か所に長者屋敷、鳥屋屋敷、家の上の3か所に分けて7、列7段に重ねて埋めた。その目印としてしのぶ竹を植え、長者夫妻は身罷った。その数年後、屋敷の上のしのぶ竹付近が掘り起こされ、その跡には見事な国東塔が建てられた。誰が建てたのかも分からないが、長者夫妻の供養塔である由。

 

民話「中畑長者」

 中畑部落に、二つ桝(買うときは大きい桝・売るときは小さい桝)であぶく銭を儲けた長者の夫婦があった。長者には一人娘があったが、親の罰で病気になりとうとう死んでしまった。あるときお六部さんが訪れて言うには、「別府を巡礼中に海地獄のほとりで一人の娘に逢うた。曰く、私は山香郷中畑長者の娘だが、親の咎で地獄の呵責に遭うている、このことを両親に伝えてほしいと。その証拠に着物の片袖を預かってきた」と。六部がその片袖を見せたところ、長者は「娘は病気で寝ている」と偽りて六部を追い払うた。しかしそれは娘の冥途の嫁入りに着せた晴れ着に違いなく、驚き悲しみ、ついに決心して娘のために供養塔を立てて屋敷払いをし六部に出た。そのとき、おしかという婆やに財産の一部を預け後に残して墓守とした。

 おしかは供養塔の傍に庵を結び朝な夕なに弔いをしたが、何年経っても長者は帰らなかった。風の便りには土佐の国で強盗に殺されたというのでおしかも世を儚み、預かった財産をすべて換金して津賀山とおしか山に埋め、おしかも間もなくこの世を去った。

 

12 上畑周辺の桜

 上畑部落周辺は道路沿いにたくさんの桜が植えられていて、春先にはお花見ドライブが楽しめます。県道沿いは全部吉野桜ですが、中畑の国東塔から刈屋にあがる道の途中、貝ノ木部落には八重咲の枝垂れ桜の大木があります。東山香随一の桜といえましょう。

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13 刈屋の牛乗大日様

 中畑の国東塔から刈屋部落に上がります。桜の時季であれば貝ノ木部落経由を通る道もよいと思いますが道幅が狭く舗装もよくないので、県道を上畑部落まで進んで「刈屋」の標識に従って右折した方が無難でしょう。

 上畑から刈屋部落に入りますと、高熊山の裾を越して大片平・松村部落(杵築市)に抜ける山道が左に分かれています(高熊山の標識あり)。桜の時季であればここから高熊山を目指してもよいでしょう。今回はその分かれ道を直進します。ほどなく左側に山神社があり、そのすぐ先の道路端に牛乗り大日様が安置されています。

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 転倒が懸念されるような立地ですが、保存状態が良好です。お花があがり、信仰が続いていることが分かります。山香のあちこちで見かける牛乗り大日様、そのいずれも大切にされていて、見かけるたびに心温まるものがございます。

 

〇盆口説「山香口説」

 最後に、山香の盆踊りで盛んに口説かれる「山香口説」を紹介します。この文句はレソ、蹴出し、二つ拍子、やってんさん、豊前踊り、マッカセなど、77調の節ならどの音頭でも唄えます(倉成で昔踊っていた「一つなーえ」や向野の「らんきょ坊主」は字脚が違います)。

盆口説「山香口説」
〽よんべ山香の踊りこ見たら おうこかたげち鎌腰ぃせえち
 踊る片手じゃ稗餅こぶる こぶる稗餅ゃぼろぼろあゆる
 あゆる稗餅ゃいやりが運ぶ 運ぶいやりこ達者ないやり
 色は黒うてもいやりのように いつも働くよい妻欲しや
 嫁を貰うなら山香の娘 色は黒いが立派なものよ
 親にゃ孝行夫にゃ貞女 隣近所の付き合い上手
 家畜飼うのが大変好きで 仕事間にゃ牛飼いまする
 それで今では山香の牛は 世間評判の牛となる
 嫁を貰うなら山香の娘 家畜買うなら山香の牛を

 いま、冒頭は「よんべ山香の」となっていますが、これは元々は「山家の」の用字であったと思われます。旧来の文句は、

〽よんべ山家の踊りこ見たら ~略~ こぶる稗餅ゃぼろぼろあゆる
 あゆる稗餅ゃいやりが運ぶ、いやりゃ何する雪ん下覚悟

このようなものでしたが、これの冒頭の「山家」を同じ音の「山香」に置き換えて、後半にお国自慢的な文句を接続したのが「山香口説」です。牛乗り大日様が大切にされているのを見かけるたびに、いつもこの文句を思い出します。

 補足しますと、この種の文句の類型は、近隣在郷はもとより遠く直入郡にまで流布しています。例を示しますと、

〽杵築山田の踊りを見たら おうこかついで鎌腰さいて
 踊る片手に稗餅かじる かじる稗餅ゃぱらぱらあゆる
 あゆる稗餅ゃいやりが運ぶ 運ぶいやりは踏み殺された
〽日出の山家の踊りを見たら おうこかついで鎌腰さいて
 踊る片手に稗餅かじる

すなわち遠方の地域の方は、杵築・日出・山香辺りの田舎風の文句として「杵築山田の」とか「日出の山家の」などとおもしろおかしく唄ったのでしょう。

 

今回は以上です。磨崖仏や庚申塔、仁王像のような人目をひく文化財はもちろんのこと、各地に残る牛乗り大日様に強く心ひかれた探訪となりました。東山香のシリーズは今回でおしまいです。またいつか、紹介したいところが見つかれば再開したいと思います。次回は日出町藤原の庚申塔を紹介します。