大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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今市の名所めぐり その1(野津原町)

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 このシリーズでは野津原町のうち今市地区の名所旧跡をめぐります。野津原町大分郡でしたが、旧今市村は合併前は直入郡に所属していました。肥後街道の宿場町として栄えた今市地区には、著名な観光名所としては宿場町の石畳がございます。ほかに尺間権現などの霊場、急傾斜の棚田など見どころが数多く、これからの探訪が楽しみな地域のひとつです。

 今回はこのシリーズの初回でありますから、今市を代表する名所であります宿場跡の石畳とその周辺の石造文化財をとりあげます。長湯や朝地の名所めぐりと組み合わせたルートを選定すると、きっと楽しい1日になることでしょう。

 

1 宿場の石畳

 大分市からの道順で説明します。国道442号を通って野津原から諏訪に上がり、「久住高原」「長湯温泉」の標識に従って三叉路を右折し県道412号を進みます。道なりに行けば、道路右側に「岡藩 今市宿場跡」の大きな標柱が立っており、そのすぐ先の右側に駐車場があり、現道の右側に石畳の旧道が並行しています(冒頭の写真)。旧道を車で通ることもできますが石畳の凹凸によりたいへん運転しにくいので、歩いて散策した方がよいでしょう。標柱の近くの駐車場を利用するか、または丸山八幡(後ほど紹介します)の下にも2台程度であれば駐車できます。

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 説明板の内容を転記します。

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県指定史跡 参勤交代道路(今市石畳)

 今市は、岡藩の宿場として整備され、代官所御茶屋が設けられ、道路の両側には町屋が建ち並んでいた。中央を貫く道路は豊後鶴崎と肥後熊本を結ぶ肥後(豊後)往還の一部であり、江戸時代に岡藩中川氏および肥後藩加藤氏・細川氏の参勤交代道路として利用されていた。一筋町の町並みであるため、宿場の中が見通されるのを防ぐ意味から、町の中央を鉤の手に二度曲げており、ここを境に上町・下町に分かれている。
 石畳は、道幅8.5mの中央部に、幅2.1m、延長660mにわたり全面に平石が敷き詰められているもので、さらに6ヶ所には家屋に出入りするための敷石も設けられている。
 県内に現存する石畳道は少なく、貴重な交通遺跡として、昭和47年(1972)に県史跡に指定された。

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 説明板には「道幅8.5m」とありますので、石畳の幅2.1mを引いて2で割っても3.2mもありますから、石畳をよけて自動車で通るのも容易に思われるかもしれませんが、こんなに幅の広いのは一部だけです。それに「家屋に出入りするための敷石」も凹凸が激しく、これを避けることはできませんから、自動車で入らないに越したことはありません。

 なお、宿場町の昔の町並みについては丸山八幡の近くに分かり易い説明板が設けられていますから、先にこちらを確認しておき、今の風景と比較しながら散策するとよいでしょう。

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 説明板の内容を転記します。絵図については補足の文言を入れて、文字のみで分かるように記します。

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今市宿場町見取図

丸山八幡を起点に
○左側
[上町]鶴屋、畳屋、糀屋、油屋、蒟蒻屋、店屋、万生寺、代官屋敷、豊前屋、福島屋(鍛冶屋)、(火避藪)
[信玄曲り]
[下町](逃道)、岡屋、福文字屋、糀屋、三佐屋、新小倉屋、小松屋安楽寺、真田問屋、岩木屋、堀田屋、木戸屋
○右側
[上町]木戸屋、(家屋)、鍛冶屋、(家屋)、(家屋)、庄屋、豆腐屋、(家屋)、下駄屋、(横道)、煙草屋、御客屋、住吉屋(酒屋)、(逃道)、逃込寺跡
[信玄曲り]
[下町]釜屋跡、上池田屋、下池田屋、(家屋)、小倉屋敷、石垣屋、(横道)、萬屋、藤屋、山本屋

信玄曲り…町並みの中央部を2回、鉤の手に曲げて宿場を見通せないようにし、この曲がり角に火防藪床という竹藪を設けていました。

今市は七瀬川と芹川との間の台地(標高450m)にできた集落で、古くからの物資の集散地でした。文禄3年(1594)中川秀成が岡藩7万石の領主として入部。今市も岡藩の領地になりました。中川氏はやがて野津原村以西の肥後街道を参勤交代道路の一部として利用するようになったのです。今市が宿場として整備されたのは慶長年間(1596~1615)のことで、庄屋伝兵衛の祖先が藩命により開発したと伝えられています。岡藩のお茶屋は元禄8年(1695)、上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになり、延享元年(1744)に廃止されました。肥後藩御茶屋は、寛永10年(1633)下町に移りました。宿場の東西には上構、下構と呼ぶ門があり、警護に当たっていました。

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 風情のある石畳でありますが、その両側に並ぶ民家は宿場町の面影を残しておりません。見取り図にありますように商家が並んでいる様子を思い浮かべることは難しい状況でございます。その中で、道路端の石仏や万生寺の石造物群などは、その当時を偲ぶよすがとなります。

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 畑地の隅に安置されていた十一面観音様です。特徴的なお顔立ちが印象に残りました。

 

2 万生寺

 石畳沿いに万生寺がございます。その横並びに堂様を設けて、お地蔵様とお弘法様が立派にお祀りされています。こちらは昔から近隣の方々の信仰が篤く、今では観光客も通りがかりにお参りをされるようです。

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地蔵菩薩像、弘法大二像

 いずれも脚の高い台座の上にお祀りされています。説明書を転記します。

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弘法大師
 空海平安時代(774~835)讃岐の出自で、大自然の中で苦行に励み、唐に留学し帰国後身を徹した非凡なる功績は真言宗の開祖のほか密教経典、文学、書道、教育、美術、溜池の修築などに尽くされ、弘法大師諡号(おくりな)され信仰崇拝されています。

地蔵菩薩
 6~7世紀にかけてインドの仏教徒による信仰が起源とされています。その後中国を経て日本に伝承され平安鎌倉時代にかけて、子供の安全や人々の苦しい願いを救済してくれるということから寺の境内や辻などに建立され、信仰崇拝されています。

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 すぐそばには、民話の看板が立っています。内容を転記します。

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帰りたがったお地蔵さん

 むかし、今市の摺の田んぼの畦に石のお地蔵さんがたっていました。そのお地蔵さんは、珍しいことに女のお地蔵さんでした。田んぼの畦で雨に濡れているのを見て、村の人たちはかわいそうになり、半里離れたとなり村の万生寺というお寺の、男の地蔵さんのところに移すことにしました。
 村の人たちが万生寺の和尚さんに話すと「それはいいことだ」と大乗り気。村の人たちは早速、お地蔵さんを運ぶことになりました。
 ところがいざ運びかけると、その重たいことといったら、五六人で抱えてもびくともせず、二十人から三十人でやっと抱えることができました。半里の道を何時間もかかり、ようやく万生寺に運ぶことができました。
 その真夜中、和尚さんが寝ようとしたとき、どこからか女の人の泣き声が聞こえてきました。不思議に思って外に出てみると、人の姿はどこにも見えません。「おかしいこともあるもんじゃ」と和尚さんが泣き声のする方に行ってみると、なんと、摺の人たちが連れてきた女のお地蔵さんが泣いているではありませんか。それも「摺に帰りたい。摺に帰りたい」と言って泣いていました。
 和尚さんは二三日もすれば慣れるだろうから、そっとしておくことにしました。ところが、三日たっても四日たっても一向に泣き止みません。思い余った和尚さんは摺の人を呼んで、元のところに返すことにしました。
 これを聞いた摺の人は、運んでくるときにあんなに重たかったので、できることならそのままにしておきたいと和尚さんに言いましたが、和尚さんがあまりにも言うので、摺に連れて帰ることにしました。ところが、あんなに重たかったお地蔵さんですが、いったいどうしたことか、たったの二人で担いで帰ることができました。
 このようにして、もとのところに帰ったお地蔵さんは、今までと違ってほほえんだ表情に見えました。そして、摺の人たちにいつまでもかわいがられました。

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 この民話は、「石仏や石塔は意味があってその場所にあるのであり、むやみやたらに移動させるべきではない」ということを示唆しているように思います。昨今、道路工事やら宅地開発、圃場整備、または管理困難等の理由により石造物が移設されることが甚だ多うございます。それらはやむを得ない事情があってのことですが、もし移動するにしてもその部落内の用地(道路端や墓地、堂様、公民館、児童公園など)に移すのがよろしいのではないでしょうか。離れた場所の公園等に移してまるで展示物のように扱うのは、あまり好ましい事例とはいえない気がいたします。

 さて、万生寺の境内には、ほかにもたくさんの石造物がございます。傷んでいるものもありますが、宿場として繁昌していた時代から今に至るまでずっと立ち続ける石造物を見学いたしますと、昔の方の暮らしに思いを馳せていろいろと感じ入るものがございました。

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青面金剛6臂、2童子、ショケラ ※猿や鶏は不明

 残念ながら大きく破損してしまった庚申様でございます。写真では2臂に見えるかもしれませんが、ごく浅い彫りで外向きにもう2対の腕を伸ばして弓などの武器をとっています。風化摩滅も著しく、細かい部分はほとんど分からなくなってしまっていました。猿と鶏も、線香立てに隠れていることもあって定かではありません。

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大乗妙典

 一字一石塔と思われます。このように二層塔をなしているものは珍しいのではないでしょうか。庚申様とは正反対に、相輪や宝珠まで完璧な姿を残す、すこぶる良好な保存状態でございます。

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左)三界万霊十方至聖等

右)無縁塔

 両者は同じ意味合いでありましょう。三界万霊塔は方々で見かけますけれども「三界万霊十方至聖」の銘ははじめて見ました。末尾の「等」は「塔」の意で、わたくしは初めてこの用字を見ましたが、この種の塔では往々にして「塔」ではなく「等」の字を用いている事例もあるようです。

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 向かって左の仏様を拝見して、はたして倒伏するだけでこんな壊れ方をするのかなと疑問に思いました。壊れていない仏様もございますから、廃仏毀釈等により意図的に破壊されたというわけでもないような気がいたします。

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 像容が不明瞭になりつつあるものの、厚肉彫りにて立体的に表現した力作です。舟形の光背の上部がわずかに前屈しているのも品がよいし、台座の蓮の花びらが内向きにくるりと曲がっているのもよいと思います。

 

3 丸山八幡

 丸山八幡こそは、今市地区の名所中の名所でございます。石畳を散策される際には必ず参拝するべき場所であり、こちらを見逃してしまえば今市地区はおろか野津原町の探訪も片手落ちと言えましょう。石畳の西端にございますので特に道案内は不要と思います。車は2台程度であれば参道脇に駐車できます。

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 丸山八幡の見どころは、何と申しましてもこの楼門でございます。堂々たる建築には、ものすごく凝ったお細工が凝らされております。日光東照宮の「ひぐらし御門」に譬えられるほどの建築であります。盆踊りや都々逸の文句に「わしが御門はひぐらし御門、見ても見飽かぬ添い飽かぬ」という小唄がございます。これは、恋人の男性を「トイチ」とか「シュラさん」などと言うのと同じように冗談めかして「帝(みかど)」の音にて「御門」の字を宛てたものから、日光の「ひぐらし御門」を連想した一種の洒落文句でありますが、丸山八幡の楼門もまさに「見ても見飽かぬ」姿ではありませんか。

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 説明板の内容を転記します。

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丸山八幡神社楼門

 丸山八幡神社の楼門は江戸時代の享保5年(1720)に創建されたものである。今市在住の豪商であった松田庄右衛門尉長次が父母の長命、子孫繁栄を祈願して、神社に楼門の寄進を想いたったという。
 棟最高は8m余り、入母屋造の銅板葺唐破風付である。この近郷にまれな立派なもので豊後における数少ない楼門のひとつである。
 記録によればその後、文化10年(1813)、天保2年(1831)、安政2年(1855)に屋根葺替修理をし、平成3年(1991)に全面修築を行った。
 この楼門には創建当初の彫刻とみられる、数々の彫刻が施されている。内側面に透彫りで酒造りの過程、二十四孝(中国で古今の孝子24人を選定したもの)の人物や十二支の動物などが巧みに彫られている。

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 では、すばらしい彫刻の数々を紹介します。

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 人物のまるで今にも動きだしそうな生き生きとした表現や、お花が複雑に重なり合うところの細かい前後差、立体感のあるお細工が素晴らしいではありませんか。

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 こちらも、竹の表現が素晴らしい。「二十四孝のたけのこ掘り」は昔から小唄の文句などにも出てくる、有名な場面です。鍬の柄の部分のみ破損していますが、それ以外はほぼ完璧な姿を保っています。こんなに複雑で繊細な彫刻なのに、驚異的な保存状態でございます。博物館などに展示されていそうなものを自由に見学できるのですから、これは見ないわけにはいきません。

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 大波がどんどどんどと打ち寄せてしぶきの花が咲く様子や、その上段の酒造りの様子も立派なものでございます。

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 冬眠前に丸々と太った秋の鹿の跳躍、もみじの繊細な表現。彫りの技術はおろか、下絵があるのかないのか制作過程は存じませんけれども、絵画的な表現力にも驚かされます。盆踊りの小唄「猿丸太夫」や、花札などでもお馴染みの取り合わせです。

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 牡丹に唐獅子、これは三すくみ拳の小唄や尻とり遊びの小唄でもお馴染みです。

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 この龍の彫刻も素晴らしいではありませんか。龍の彫刻は神社の軒口にてよう見かけますけれども、こちらは彫りの細かさが群を抜いています。神社の近くには、この彫刻についての民話の看板がありました。

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 民話の看板の内容を転記します(読みやすいように一部漢字に改めています)。

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尾を切られた竜

 今市の丸山神社には「ひぐらしの門」と呼ばれる、素晴らしい楼門があります。その楼門の入口の正面には、いまにも動き出さんばかりの素晴らしい彫刻がありますが、これには言い伝えがあります。
 むかし、今市は土地が高いところにあったので田んぼに水を引くことができず、溜池を掘って田んぼを作っていました。村人たちは、この命の支えである溜池の水を大事に大事に守っていました。溜池は丸山神社からさほど遠くないところにありました。
 ある年のこと、いつもは満々と湛えている溜池の水が日照りでもないのに一日一日と減っていったので、村人は心配で心配でたまりません。水はどんどんと減って、ついに底に僅かとなってしまいました。溜池はカラカラに乾き、ひび割れができました。水漏れしている様子はないが、このままでは稲がみな枯れてしまうと、村人たちは途方に暮れてしまいました。
 ところが、ある月夜の日に、溜池のほとりで竜を見たという村人が現れました。誰一人信じるものはいませんでしたが、あまり真剣に言うのである晩、数人の村人が確かめることになりました。
 数人の村人が恐る恐る溜池に近づき、そして、木陰からそうっと水面を見ると、青白い月が水のない溜池の底を照らしていました。すると、溜池の真ん中に何か大きな石のようなものがあります。「おかしいな、溜池の中にあんな大きな石があったかなあ」と一人がつぶやいたとき、石がグラッと動いたのです。
 「アッ」と村人はわが目を疑いました。大きな竜が僅かに残った溜池の水を飲んでいました。村人は声を上げるのも忘れ、その様子を茫然と見ていました。やがて竜はゆっくりと頭を持ち上げ、丸山神社の方向に姿を消しました。竜の姿にぼうっとしていた村人は、はっと我にかえると村にとんで帰り、早速このことをみんなに知らせました。
 驚いた村人たちはみんな集まって、どうしたらよいかといろいろ考えました。「溜池の水が減ったのは竜が飲むからだ。竜はいったいどこから来るのだろうか」思い当たる村人は誰もいなかったのです。
 二日ほどして村人の一人が「もしかしたら、丸山神社に大きな竜の彫り物があるのを見たことがあるがあの竜ではなかろうか」と言い出しました。「そんな馬鹿な、掘り物の竜が抜け出すなんて」と信じられない様子でしたが他に考え様もなく、一応確かめることにしました。早速その夜、数人の村人が竜を見たのと同じ時刻に神社にやってきました。すると竜の彫り物は、なんとぽっかりと抜け出していたのです。「やっぱりこの竜だったのか」
 次の日また楼門の彫刻を見に来ると、竜はちゃんと彫り物のままでありました。「本物そっくりの素晴らしい彫り物だから魂が宿ってしまったのに違いない」村人たちはまた困ってしまいました。「あんまり素晴らしすぎるのだ」「このままでは米がとれなくなってしまう」どうしたらよいか、村人はまた集まって話し合いました。「いい案は浮かばないし、竜の彫り物を壊すのはもったいないし」と一人が「あまりにも本物に似すぎているから抜け出すのでは。少し傷をつけるといいんじゃなかろうか」と言い出しました。彫り物に傷をつけるとはいかがなものかと、みんなは渋りました。しかしほかには良い考えは浮かびません。それではということで竜を彫った大工を呼び、傷をつけてもらうことにしました。
 大工はとても嫌がりました。何しろ精魂込めて彫った竜だったからです。傷をつけるなど、わが子をのみで傷つけるようなもの。だからといって、このまま村人たちが困っているのを見過ごすわけにいかなかったのです。村人たちを困らせているのは他でもない、自分の彫った竜なのです。大工は渋々、傷をつけることにしました。そして竜の尻尾を切り取りました。
 不思議なことにはそれ以後、竜は門を抜け出すことはなかったのです。溜池の水もだんだんと増え、枯れる寸前だった稲はやっと生き返り、秋には黄金の穂をつけました。それからのち、村人は田んぼの水には困らなかったそうです。

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 広々と、気持ちのよい境内です。楼門にばかり目を奪われますけれども、拝殿・本殿もなかなか立派な造りになっています。

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御神木(杉)

 

4 金毘羅拝所

 丸山八幡の境内、御神木のところから横に入ると「金毘羅拝所」があります。ここから海は見えませんけれども、讃岐の金毘羅様の方角を向いてこの場所から遥拝したものでありましょう。近隣に金毘羅講があったのかもしれません。

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 祠はばらばらに壊れてしまっていました。今は、昔と違って簡単に本場の金毘羅さんに行けますから、わざわざここから遥拝をすることはないのでしょう。

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 標柱に「金毘羅拝所」とあります。やや荒れ気味ですけれども昔の方の生活に根差した信仰の遺構として貴重なものでありますから、今後も撤去することなく残していただきたいと思います。

 

 今回は以上です。今市地区にはほかにも釈魔大権現、高岩神社などの神社や、各種石造文化財がたくさんあります。探訪が不十分なのと、行ったことがある場所でも写真が適当ではないので続きは当分先になりそうです。次回はまたどこか、別の地域を紹介します。