大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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大内の名所めぐり その2(杵築市)

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 今回から2回に分けて、大内山の名所旧跡を紹介します。大内山は谷を隔てて西と東に分かれています。前半は西大内山を巡って、東大内山は次回とします。

 

○ 大内山の読みについて

 最近は「大内山」を「おおうちやま」と読むことが多くなっています。杵築市のホームページを見ても「西大内山」「東大内山」夫々「にしおおうちやま」「ひがしおおうちやま」の読みで掲載されております。でも昔はよく「おちゃま」と発音していました。今もお年寄りがそのように発音しているのをときどき聞きます。漢字で書けば同じことですが、昔ながらの「おちゃま」の読みも残ってほしいものです。

 

7 西大内山の薬師堂

 高山のお弘法様を目指す道中、道路端に薬師堂が建っています(冒頭の写真)。昔、近隣在郷より歩いてお弘法様にお参りに行く方が多かった時代には、みなさん通りがかりに薬師堂にもお参りをされていたことでしょう。今も西大内山部落の方の信仰が篤く、多額の浄財により建て替えられ、仏様が立派にお祀りされています。こちらは引き戸を開けて上がるタイプの堂様ではなく、戸がありませんので当然施錠されていることもなく、どなたでも自由にお参りができます。

 道順を申します。杵築市街地から旧国道を辿ります。永代橋を渡って大内地区に入り、そのまま道なりに進んでいくと道路左側に「高山弘法大師」の標識が立っています。その角を左折して、離合困難の狭い道を進むと急な上り坂になります。その坂道の途中、右側です。近くに適当な駐車場がないので、お参りをしたい場合は一旦通り過ぎて高山弘法大師駐車場(次項参照)に駐車し、歩いて戻るしかありません。

 

8 高山のお弘法様(寄せ四国)

 高山弘法大師こそは大内地区を代表する名所です。昔から近隣在郷の信仰篤く「おちゃまのおこぼさま」と呼んで親しまれてきました。この霊場は市内でも珍しい「寄せ四国」の様相を呈していることから、ことさらに人気を集めたことが推察されます。

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 説明の都合上、道順が前後しますが上の堂様にある説明板の内容を先に記します。

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高山の弘法大師縁起

文政7年、この地方は天然痘と飢饉に襲われた。地主の宗兵衛は、弘法大師の易行に縋って、村人と日夜祈り続けて21日目、四国八十八箇所霊場第十二番、阿波の国名西郡焼山寺の本尊、虚空蔵菩薩の託宣を受けて、文政8年5月21日、この丘に、十二番の守本尊を安置した。そして、病気平癒・五穀豊穣の利益を受けた村人は、以来厚い信仰を寄せ、殊に女衆は重病人があれば、必ず未明から千巻心経を唱え、快癒を祈念して霊験を受けている。

大正14年5月21日には、藤原文吾氏の発起で、村人の協力と近郊の信者の寄進で、修行大師と八十八の仏像を祀った。例年この記念日には村中が参籠する。
また二次大戦敗戦後、戦犯として、天津に強制収容された文吾氏の息子聰次氏は、処刑の日が近いと感じた一夜、郷里を思い眠りにつくと、高山の弘法大師が夢枕に立たれた。そしてその翌朝、無罪釈放になったという。

平成3年5月吉日 古田由布代 記

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 内容をまとめますと、文政8年に四国八十八所第十二番の御本尊である虚空蔵菩薩を安置したのが始まりで、大正14年四国八十八所の写し霊場になり今に至るということです。大正14年以降、地区外からのお参りが増加したのでしょう。

 道順を申します。前項で紹介しました薬師堂の前の坂道を上ると二股になっています。これを右にとって、次の角を左折します。急坂を上り詰めたところの正面の空き地が駐車場です(駐車場の標識あり)。ここまで離合困難の急坂が続く道のりですが、普通車までなら問題なく通れます。車をとめて少し右に行くと、ほどなく階段状の参道があります。登り口に標柱はありませんがいかにもそれらしい道なのですぐ分かると思います。

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 階段を上がると、写真のようになだらかな坂道になります。この参道に沿うて一番札所から順に、八十八番までの仏様が並んでいます。このように至近距離に札所が並んでいる霊場は、市内ですと宮原(八坂地区)の西国三十三箇所がございますが、所謂「寄せ四国」はこちらだけと思われます。

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 小さな仏様には色も鮮やかなきれをかけられて、お供えもあがり立派にお祀りされています。近隣の方のお世話が行き届いていて嬉しくなりました。

 この参道を右方向に辿り、左に折り返したところで二股になっています。正面は石段を上がって上の堂様へと至る近道です。ここは遠回りになりますけれども左にとって、八十八番まで順番にお参りをしながら上がって、上のお弘法様にお参りをして近道の石段を下るというルートがよいでしょう。

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 こちらはわざわざ岩肌にステップを刻み、その上に御室に収めて安置されてありました。道中、ほとんどの仏様が野ざらしにて路傍に安置されていますが、何か所かこのようにことさらに鄭重にお祀りしている札所もあります。

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 ゆるやかな坂道にて歩きやすく、ほんに気持ちのよい道中です。順番にお参りをしながら歩を進めますと、胸の悩みも晴れゆかんとする心地にて次第々々に歩みもかろくなりましょう。

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 仏様は、一つひとつ造形が異なります。辿りながら、好きなお顔の仏様を見つけてみてはいかがでしょうか。

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 札所の番号が七十番台まできますと、いよいよゴールが近くなったことが感じられます。お弘法様にお参りをする期待感がいや増してまいりますと同時に、この気持ちのよい巡拝路も終わりが近いということで一抹の寂しさもございます。

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 あっという間に山頂の広場に着きました。八十八番札所のすぐ先に、文政8年5月21日に安置された仏様がございます。いわば、この霊場の大元でございまして、燭台や線香立てが設けられています。

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 こちらは大正末期に寄せ四国が開かれた際に安置された修行大師像です。ものすごい形状の大岩の上に立っていますので、実際の背丈以上に大きく立派に見えてまいります。この岩の形状もポイントで、ただの台座でもよさそうなものを、不整形の岩であることから、お弘法様が難所の道を歩いている様子が想起されましてさてもありがたいお姿ではありませんか。〽帰命頂礼遍照尊、宝亀五年の水無月に、玉藻寄るちょう讃岐潟…

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大正14年5月21日建立
創立者 藤原文吾外一同
大姉前広場寄附藤原橾平
五十年祭寄附
 3万円 藤原聰次
 1万円 古田武男

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 駐車場に戻る途中、波も静かな守江湾を見晴らしました。向こうに見える岬は権現崎、小山には以前紹介した浪崎神社がございます。

 

9 庚申山の庚申塔・牛乗大日様

 高山のお弘法様から駐車場まで戻ったら、そのまま直進します。この道は車も通れますが転回に難渋するのと、目的地そばに適当な駐車場所がないので、車はお弘法様の駐車場に置いたまま歩いて行くとよいでしょう。道なりにみかん山の方に進めば、道路右側の小高いところにシメがかかっており、牛乗り大日様と2基の庚申塔が見えます。

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 このあたりを庚申山と申します。庚申塔が立っていることからの呼称と思われます。このような小字・シコナは方々にございます。近隣では馬場尾の善神王社あたりのシコナを「おこしん」と呼んでおりますのも「お庚申」の意で、善神王社に寄せられている庚申塔に由来するものと思われますし、遠方では本匠村一矢返の庚申塔(以前紹介しました)がもともと立っていた川向いの保食神社下のあたりの字が「庚申塔」である等の事例があります。

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 牛乗り大日様はやや傾いていますが、御幣があがり立派にお祀りされています。いま、西大内山の山手はいちめんみかん山になっています。杵築でみかん栽培が盛んになったのは戦後のことで、それ以前は西大内山のみかん山の辺りも山林か段々畑であったと思われます。その時代には田畑の耕作に牛馬を使役しておりましたから、牛乗り大日様の信仰も絶大なものであったと推察されます。

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青面金剛4臂、3猿、2鶏

 全体的に彫りが浅く、風化摩滅の影響もあるのでしょうか細かい部分が分かりにくくなってきています。しかしよく見ますと主尊の髪や衣紋など、細やかな線彫りにて丁寧に表現していることが分かります。上半身をやや斜めに向けた主尊は、団子鼻で愛嬌のある顔立ちですけれども、その立ち姿からは強そうな印象が感じられました。鶏は仲良う向かい合うて、その下の猿は切り紙細工で子供がこしらえた人形のような、かわいらしい姿で行儀よく立っています。

 塔の手前に、丸くて平たい石のぐるりに溝を切ったものが置かれています。これは「亥の子」の石です。亥の子については最後に別項を設けて説明します。

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青面金剛4臂、2童子、2猿、2童子

 こちらは、笠が後家合わせか後付けのような気がします。それと申しますのも、このように笠が乗った塔は一般に側面が一直線になっていることが多いような気がするのですが、こちらは上部にかけて丸みを帯びているのです。接合部がかっちりと噛み合っていないように見えるのも、そのためではないでしょうか。

 痩せ型の主尊は眉毛とどんぐり眼をきりりとつり上げ、こぶとり爺さんのように頬を膨らまして、口をヘの字に曲げています。この表情には怒りとか威厳だけではなくて、何か不満があってヘソを曲げているような雰囲気も感じられました。細い脚などを見ますとあまり力強そうには見えません。童子はその表情が読み取りづらくなっており、それにもまして猿と鶏は、今や消えかからんとする状態でございます。

 やはり、塔の前には亥の子の石が置かれています。これは、石を新調した際に、古い石が粗末にならないように、ありがたい庚申様のそばに安置したものと思われます。庚申講の現状は分かりませんでしたが、シメをかけて御幣を立てかけていることからも、近隣の方の信仰が続いていることが分かります。

 

○ 亥の子について

 亥の子と申しますのは五穀豊穣・子孫繁栄を願う行事です。大分県下一円で広く行われていましたが昭和の中頃より廃れた地域も多い中で、杵築市では比較的近年まで盛んに行われていました。しかし、市内のほぼ全域に伝承されていたこの行事も、この30年ほどで急速に衰え、今では納屋など数か所に残るのみとなっています。

 この行事は部落ごとに、幼稚園から小学6年生または中学3年生までの男の子により行われていますが、平成に入ってからは子供が少なくなって男の子だけでは難しくなり女の子も参加する部落も出てきていました。もとは旧暦10月最初の亥の日にしていたものを、学校が休みの日でないと都合が悪いので月遅れの新暦11月の最初の亥の日に近い土曜日が日曜日にすることが多いようです。

 その部落の小学6年生または中学3年生のうち1人を「頭取」として、それ以外の子供はその下につきます。今は廃れましたが、昔は年齢により「芋食い」とか「ガラクタ」などの符牒がありました。頭取の家が座元になります。昔は子供が多かった中で頭取をどのように選出していたかお年寄りに尋ねてみたところ、「お父さんとお母さんに尋ねて、座元をしてよいと言われた子がなった」とのことで、家の広さ(※)や暮らし向きによって、親の間では今年はあの家、来年はあの家…とある程度、暗黙の了解があったとのことです。 ※昔は座元の家に部落中の男の子全員が泊まっていたので、ある程度広い家である必要がありました。

 亥の子が近くなってくると部落中の男の子が公民館等に集まって、亥の子唄の練習をして、亥の子石の手入れや引き綱の準備(亥の子の石の溝に縄をからげて、その縄から四方八方に何本もの引き綱をつける)もします。前日には座元の家(今は公民館のことが多い)に年嵩の子が集まって、御幣を切り竹竿にくびりつけます。

 当日、各自で朝食を終えたら座元の家か公民館に集まり、頭取を先頭に行列を組んで年嵩の子は御幣の竿を、その下の子は亥の子の石をかたげて、それ以下の子を後ろに従えて座元(公民館)から近い屋敷から順に一軒ずつまわります。屋敷の坪のうち舗装していないところに石を据えて、頭取以外の子はめいめいに引き綱をとり、頭取は御幣をとります。全員で唄いながら、引き綱を唄の拍子にてオイサオイサを引いては緩めるのを繰り返して、ドシンドシンと石を地面に落とします。一節終えたら、石で穴がほげたところに御幣をちぎって置きます(その穴を踏み越えてはならないとされていました)。その家の人は、いくばくかのご祝儀を頭取に渡します(昔は亥の子餅をあげていたそうです)。軒数の多い部落は一日がかりで、今年はカサから、来年はシモから…と廻り順を決めている例もありましたが、とにかくその年に廻る屋敷を全部終えたら座元の屋敷(または公民館)に帰ります。

 座元に帰ったら祝儀のうち決まった金額を頭取の親に渡して、残りは参加者で分配します。取り分には長幼の序があります。昔、餅を貰っていた時代にはみんなで食べたり、物の少ない時代には祝儀でノートや鉛筆を買うて分け合うたこともあったそうです。座元は全員分の料理をこしらえ、それをみんなで食べて解散しますが、昔はそのまま泊まって一晩を楽しく過ごしたそうです。

 最後に、市内で唄われた亥の子唄をいくつか紹介します。

〽亥の子 亥の子
 亥の子餅ゅ搗かんもんな鬼ぅ生め蛇生め 角ん生えた子生め
 搗いた餅ゃ搗き戻せ 盆のように搗くものは 京は天竺わが朝に
 一つや二つは祝いもの 三つと搗いたらおおかたせ
 サンヨ サンヨ

〽亥の子 亥の子
 これの座敷はよい座敷 東下りの西上り 南上りの北下り
 東方朔は八千代 浦島太郎は九千代 千年も万年も生くるよに
 サンヨサンヨ

〽亥の子 亥の子
 亥の子様を念ずれば 鶴と亀とが舞い込んで 家は栄えて神の福
 蜘蛛のえばりをつくときにゃ 京は天竺わが朝に
 一つと二つは祝いもの 三つと搗いたらおおかたせ
 サンヨ サンヨ

〽亥の子 亥の子
 大黒さんという人は ここのお国の人でない
 唐から日本に渡るとき 一で表を踏ん張って 二でにっこり笑うて
 三で盃いただいて 四つ世の中良い様に 五つ出雲の神様に
 六つ婿さん貰うて 七つ何事無い様に 八つ屋敷を買い広め
 九つここに蔵を立て 十でとうとう福の神 京は天竺わが朝に
 一つや二つは祝いもの 三つと搗いたらおおかたせ
 サンヨ サンヨ

 

今回は以上です。お弘法様、庚申様、亥の子など、懐かしい年中行事をたくさん思い出す楽しい道中でした。次回は東大内山と小狭間を巡ります。