大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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中山香の名所めぐり その3(山香町)

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 久しぶりに中山香のシリーズの続きを書きます。今回は道順が飛び飛びになってしまいます。その地域を十分に探訪できていれば近接する名所旧跡を順々に掲載できますので、今回のように飛び飛びになるのは、探訪が不十分であるということです。しかし次々に記事を出していかないと先に進まないので、ひとまず「その3」としてまとめてみることにしました。スタート地点は山香庁舎とします。

 

13 小谷の薬師堂

 小谷(おたに)の薬師堂こそは、中山香地区を代表する名所のひとつであると確信いたします。羽門の滝や西明寺に比べますと知名度は今ひとつで、他地域の方がお参りに立ち寄ることは稀と思われます。けれども国東塔、仏像、それぞれ非常に立派なものでありますから、近隣を探訪される際にはぜひとも参拝・見学をお勧めいたします。

 道順を申します。山香庁舎を出発して、神田楽市の方に2車線の道を下ります。道が平坦になったら、左側の田んぼの中の小さな丘の上にお墓が見えます。その先の角を左折して、突き当りをまた左折します。道なりに進んでいくと、右側の坂道の上に堂様が見えます。車は、坂道の下が少し広くなっているので路肩ぎりぎりに寄せれば1台は駐車できます。坂道を登ればすぐ、国東塔が立っています(冒頭の写真)。

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 堂様の外壁に説明板が打ち付けられています。内容を転記します(分かりやすいように一部改変しました)。。

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有形文化財 石造宝塔(国東塔)
山香町内河野 小谷区

 小谷国東塔と呼んでいる。もと大谷山最大寺にあったものを、同寺廃絶後の昭和15年に仏像や碑石などと共に現在地に移したものと伝える。総高は2.45m、石材は凝灰岩、基礎は3重、塔身には「応安五大歳壬子云々」を書き出しに多数の銘文が陰刻されている。姿はよく整っている。(応安5年=1372年)
 また県有形文化財最大寺木造薬師三尊像もあります。

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 説明板にあるように、全体がよう整うており、美しい塔でございます。塔身が茶壺型で、蓮座との接合部がぎゅっと締まっておりますのでほんにスマートな印象を覚えました。隣には移転紀念碑が立っています。最大寺跡の比定地はこの近くですが、移転に際して塔が破損せずに済んだのは幸いなことでございます。

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 先ほどのものよりも詳しい説明板も立っています。内容を転記します。

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県指定有形文化財(昭和34年3月20日
小谷国東塔
 杵築市山香町大字内河野字小谷

 この国東塔はもと大谷山最大寺(六郷満山本山末寺小渓山大谷寺か)に造立されていたが、災害により廃絶したために、昭和15年寺跡にあったものを仏像とともに現在地に移した。
 国東塔は納経や追善供養・逆修(生前供養)、なかには墓標として造立されたものもある。
 総高245cm、基礎は三重で、普通は最上重の基礎に格狭間が刻まれているが、この塔にはなく、また宝珠をとりまく火焔も省略されている。総体に均整のとれた美しい姿をしており、塔身に「応安五大歳壬子云々」と陰刻されていることから、南北朝時代応安5年(1372)に造立されたものである。

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 堂様にも自由にお参りすることができます。近隣の方のお世話により、良好な環境が維持されています。ありがたくお参りさせていただきました。中に入ってあっと驚いたことには、中央の格子の中に木造薬師三尊像が安置されているのみならず、その両脇には木造の仁王像がどっしりと控えていました。

 薬師様は、さても優美なお姿でございます。詳細は後で説明板の転記をもって替えます。仁王像は、天衣は省略してあるものの、やはり国東半島でよう見かける石造のそれにくらべますと細部の表現が細かく、非常に写実的な印象を覚えました。

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 阿形に比べますと、吽形は失礼ながらあまり強そうには見えないのもおもしろうございます。厳めしいお顔のわりにはやや及び腰で立っているように見えませんか。

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 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財(昭和57年3月30日)
小谷国東塔
 杵築市山香町大字内河野字小谷

 大谷山最大寺(六郷満山本山末寺小渓山大谷寺か)は養老2年(718)の開創といわれ、一時荒廃したが、その後大友氏の家臣吉弘統幸によって再建されたあと、災害によって廃絶になったと伝えられる六郷満山本山末寺とした栄えた寺である。
 薬師如来は瑠璃光世界の教主で、人間の病苦を癒し、内面の苦悩を除くなど、十二の誓願をたてた如来とされている。
 この薬師如来坐像は、日光・月光菩薩立像(像高123.5cm、122.2cm)の三尊一具の像で、いずれも榧の一木造りである。総体に彫りが浅く、特に衣紋の表現にぎこちなさと形式化が著しく、12世紀後半(藤原期)頃の造立と見られる。

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14 小谷大池

 国東半島は溜池による灌漑が発達した地域です。特に複数の池を連結して下の池から順々に水を落とす等の智恵で、昔の方は旱害を防ぐために並々ならぬ努力をされてきました。今では宇佐・国東地域が「世界農業遺産」指定地になっています。山香町にもたくさんの溜池がございまして、今回紹介する小谷大池は定野尾の池(山浦地区)等と並ぶ、山香町を代表する大規模な溜池のひとつです。

 道順を申します。小谷の薬師堂から引き返して、道なりに行きます。突き当ったら左折して道なりに行けば、ほどなく道路左側に見えてきます。

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 この日が水を落としてしまっていて、いつもとは違う景観が見られました。説明板の内容を転記します。

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小谷大池

 小谷大池は元和年中(1615~1624)、日出藩主木下延俊公の時代に長谷川休頓の指導により築造される。貞享5年(1688)改修の記録あり、現況は昭和48年(1973)~51年(1976)にかけ改修された。
 堤長121m、貯水量35,000㎡、受益面積34ha、受益戸数91戸であるが、宅地化により減少している。
 昭和50年代までは冬季には魚取りをし、鯉等の競りが行われ、豊作を神様へ感謝する行事や農家自身の慰労等で賞味していた。

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 この先には普門坊板碑がございますが適当な写真がありませんので、紹介はまたの機会といたします。

 

15 堂野尾の地蔵堂

 小谷大池の横を道なりに進んでいくと、神田楽市のところから吉野渡に抜ける2車線の道路に突き当たります。これを左折して道なりに行けば、道路左側に農協のライスセンター、右側には九州セミコンダクターの工場があります。このあたりの字を堂野尾と申しまして、工場の手前、右後ろに折り返すように坂道を上がったところに地蔵堂がございます。車は、その坂道の上がりはなに1駐車できます。

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 地蔵堂への坂道です。下の道路からも堂様が見えますので、すぐ分かると思います。こちらの地蔵堂は、現地に説明板はありませんが『山香図跡考』に次のように言及されています。

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一、堂野尾
右此所に地蔵堂有り。毎年六月廿四日、市村の民男女集り銘々食物を持参し、大念仏を唱え地蔵を供養する。大池有り寛永年中に出来る。奉行は森清左衛門、

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 大池と申しますのは、堂様の裏手にある池のことです。

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 堂様の坪には、多様な石造物が安置されています。特にこちらの板碑と3基の宝塔は、よう整うた姿にて保存状態もよく、なかなかのものであります。こんなに立派な石造物がございますのに、あまり知られていないようです。

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 こちらは、おそらく庚申塔でありましょう。ただし銘も何もなく(墨書されていたものが消えてしまったと思われます)、もしかしたら違うかもしれません。

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 堂様の中に安置されている十王像です。めいめいにおちょうちょをかけて、鄭重にお祀りされています。

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 手前のお手水は、石臼の転用のような気がいたします。その下部の輪になったところに文字が刻まれていました。

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 文字の向きが風変りで、明らかに後家合わせのものでありましょう。どういった意図でこのように配したのか分かりませんけれども、印象に残りました。

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 お弘法様の祠も数基ございます。こちらでお接待を出すのかもしれません。ほかにも、崩れた祠がいくつかありました。昔から堂野尾部落の信仰の場として、大切な場所であったようです。道路端で簡単にお参りができますので、ちょっと立ち寄られてはいかがでしょうか。

 

16 塔ノ本の国東塔

 堂野尾から山香庁舎方面に引き返します。庁舎を左に見送って進んでいき、右折して山香中学校の正門前まで行き左折して脇道に入ります。擁壁に沿うで道なりに行けば、墓地のところで坂道に突き当たります。この角から一段下がった区画の端に、国東塔が立っています。車の場合は一旦通り過ぎて、下り坂の左側にある貫井(ぬくい)八幡の参道上り口に置くとよいでしょう。

 山香史談会の冊子によれば、かつては現サッカー場の辺りに立っていたものを、この地に移転したとのことです。塔ノ本と申しますのは旧所在地のシコナでありましょう。

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 残念ながら相輪を欠損し、首部の傷みを小石にて補修してありました。格狭間も欠きます。完全な姿ではないものの、全体としてどっしりとした印象の、堂々たる立派な塔でございます。時季が悪かったようで茅などに埋もれがちの様子でありましたが、お盆やお彼岸などでお墓掃除をされるときにはきっとこちらの雑草も除去されているのではないかなと思います。

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 すぐ近くには五輪塔もございます。貫井八幡にお参りをされるときなど、少し足を伸ばして見学してみてください。

 

17 下中尾の地蔵堂

 貫井八幡の横を下っていくと、県道41号に突き当たります。これを右折して少し進み、右手に堂様と防火水槽が並んでいるところのすぐ先、カーブミラーの立つ角を左折します。田んぼの中を突っ切って、橋を渡った先が下中尾(しもなかお)部落です。山の上には西仲尾部落もありますが、両者は直接自動車で行き来することはできません。下中尾は、行政区としては上貫井のうちです。なお、下中尾は「下仲尾」の用字も通用しているようですが、本文中の表記はより古いと思われる「下中尾」としました。

 橋を渡るといよいよ急傾斜の隘路になり、狭い傾斜地に数軒の民家が身を寄せ合うように建っています。右なりに右カーブしながら登っていくと、左側に宝篋印塔の立派な説明板が立っています。そこから参道を少し上がればほどなく堂様に至りますが、車を停めることはできません。一旦通り過ぎて最後の民家を見送り、道なりに行けば2台程度は停められそうなスペースがあります。そこに停めて戻ってくるしかないと思います。または、道が狭くて運転に難渋しそうな場所なので、ちょっと遠いのですが貫井公民館かどこかに停めさせて頂き歩いて来る方がよさそうな気もいたします。

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 こちらの堂様に立ち寄ったのは、宝篋印塔の見学が目的でした。もっとそばに寄って細かく観察し、もちろん堂様にもお参りしたかったのですけれども、同日は雨上がりで足元がじるく新しい靴を汚したくなかったので諦めました。参道上り口にある説明板の内容を転記します。

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杵築市指定文化財(建造物)昭和30年8月1日指定
下仲尾宝篋印塔
 所在地 杵築市山香町大字野原字下仲尾
 この宝篋印塔は、下仲尾地蔵堂境内にあり、凝灰岩製の形の整った本格的な宝篋印塔である。
 塔身側面に彫られた月輪内には、四仏の種子が薬研彫りされ、バク(釈迦)、バイ(薬師)、サ(観音)、ア(阿弥陀か)の三如来一観音を左廻りに表す。この配列は国東半島特有の形である。
 笠部の隅飾突起が欠損しているものの、総体に美しい造形美を見せている。台座に陰刻銘があり、永徳癸亥(1383・南北朝時代)に「時講衆」の人々15人によって建立されたことがわかる。

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 山香史談会5周年の記念冊子には、会員の方により「下中尾地蔵堂について」という記事が掲載されています。その内容をかいつまんで紹介します。

○ もとは現在地の南東約100m、大迫の林道の傍らに祀られてあったが、今の場所に移した経緯としては次のような伝承がある。
「日出の殿様が二文字の渡しを渡っていると、不意に馬が暴れて落馬した。不審に思い家臣にこの付近に尊い神仏が祀られていないか調べさせたところ、下中尾地蔵様がちょうど二文字渡しを見下ろしていることが分かった。これは畏れ多いことだ、少し低いところにお移し申せとの命令で、現在地に移した」
○ 現在の堂宇は昭和55年7月、旧来のものと同形同規模に改築したものである。その際に発見された棟札の内容から、移転したのは宝永2年のことと推察される。また『図跡考』の当該項目の記載内容から、堂様が現在地に移っても宝篋印塔のみ山中に残されていたと思われる。
○ 本尊は愛宕将軍地蔵と伝えられている。入試の合格祈願や交通安全祈願も行われているほか、昔から歯痛の治療に霊験あらたかで、柳の小枝で爪楊枝をこしらえ年齢の数を簾に編んで祈願していた。大正までは遠近の人のお参りが多くいつもたくさんの簾が供えられていた。
○ 子供の遊び場でもあり、子供がどんなに暴れてもお地蔵様は決して怒らず、怪我や過ちのないように守ってくださると信じられていた。
○ 旧暦6月12日に僧侶を招き各戸より世帯主夫妻が集まり供養を営み、お座を持つ。
○ 昔は毎年正月4日に修正鬼会法要が行われていた(志手環著『速見郡史』に記載あり)。

 ほかにも地域の生活史の一旦である貴重な内容がたくさん記されていました。もしこちらにお参りに行かれる際には、図書館等で事前に史談会の冊子に目を通しておかれるとよいでしょう。

 

今回は以上です。このシリーズの続きとしては、普門坊の板碑、鎌倉山の国東塔、西仲尾の宝篋印塔などを考えています。次回は来浦のシリーズの続きを書きます。