大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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来浦の名所めぐり その2(国東町)

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 来浦の名所めぐりの続きです。まったく、この地域は素晴らしい文化財や名所が目白押しでありますが、特に今回紹介します小嶽の庚申塔は他にはない特徴を有しております。このシリーズの目玉といってよいでしょう。

 

6 小嶽の石橋

 前回の最後に紹介した三十仏から車道に引き返して、文殊仙寺の方向に少し進みます。坂道を上っていき、左にカーブミラーの立つ右カーブあたりが少し広くなっていますので、邪魔にならないように駐車します。カーブミラーの手前から左に分かれる細道を歩いて下ります(軽自動車ならどうにか通れそうな幅がありますが途中から路面が荒れて車は通行困難です)。道なりに行き、小さな沢を跨ぎます。

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 一見して、これは石橋なのか暗渠なのか判断に迷いました。乱積みにてアーチ橋をなしていたものが、輪石が崩れたか何かで傷んだので土管により補強したのではないかと思うのですけれども、詳細は不明です。けれども、構造はどうであれ石積みの土手を設けて沢を跨いでいるのは確かですから、ひとまず項目名は「石橋」としました。

 

7 小嶽の庚申塔

 沢を跨いだら左に折れて、左側には木立越しに山口池を見ながら進んでいきます。以前は軽自動車であれば通行できたと思いますが、現状では舗装が荒れていて車両は通れそうもありません。しばらく行くと文殊仙寺方面への旧道(徒歩のみ)が右方向に分かれています(冒頭の写真・振り返って撮影したもの)。この分岐を過ぎてすぐ、右上の急斜面の途中に庚申塔と石灯籠が小さく見えます。

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 庚申塔は見えたものの、はてどこから上がろうかと思案に暮れました。右往左往しましておりますと、写真の位置からそれらしい道が蛇行しながら伸びていることに気付きました。道とは言い難いような状況ですが、歩いてみると確かに道がある(あった)ことが分かります。

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 ようまあこの急斜面にあって転倒せなんだものぞと感心するやら安心するやら、とにかくものすごい立地でございます。昔はこの下の道が来浦の谷と富来の谷のカサを結ぶ主要な横道でありましたので、ここに庚申塔が立っているのも頷けます。

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享保十二稔
阿弥陀三尊種子)奉敬礼青面大金剛 敬白
丁未九月七日

 上端がやや傷んでおりますけれども碑面の状態はすこぶる良好で、文字を容易に読み取ることができました。「青面大金剛」というものものしい言い回しには、祈願がよほど真に迫るものであったことが推察されます。凡そ300年前の方たちはどんな思いでこの塔を造立されたのでしょうか。

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 庚申塔の脇に立つ灯籠も、宝珠を欠く以外は非常に良好な状態を保っています。一目拝見してあっと驚きました。火袋のところを見てください。

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1猿

 なんということでしょう、火袋に1匹の猿が刻まれているではありませんか!

 国東半島の神社で見かける灯籠には、この部分に小さな仁王さんを配したものを稀に見かけます。けれども猿を置いたものはよそで見た記憶がありません。明らかに庚申塔と一連のものとしての猿です。以前、本匠村の庚申塔を見学してまわった際に、文字塔の下部に猿と鶏のみ刻出しているものを数基見かけました。文字塔と刻像塔の混合といったところです。ところがこちらは、文字塔ではなく灯籠に猿を刻んでいるのです。これは非常に稀な事例と思われます。もしかしたら、県内ではここだけかもしれません。石工さんの遊び心が感じられて楽しいし、文字塔の「奉敬礼青面大金剛敬白」というものものしい文言との対比もまた乙なものでございます。しかも、猿の上には瑞雲らしきものも刻まれています。庚申塔はそれ単体で見ても千差万別で奥深うございますうえに、このように付随する灯籠や参道の石段、さらに庚申講やお祭りのエピソードなど、知れば知るほど興味関心が深まってまいります。

 こちらは通りがかりに気軽に立ち寄るような場所ではありませんけれども、庚申塔をはじめとする石造文化財に興味関心のある方にはぜひとも見学をお勧めいたします。

 

8 山口池

 小嶽の庚申塔の下の道を歩いていくと、山口池の土手に出ます。その手前に非常に風光明媚なところがありました。

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 いかがですか。県道から直接土手に下ったところからもなかなかの眺めですけれども、今回初めて反対側からの景色を見てその景勝に感激しまして、思わず何枚も写真を撮ってしまいました。この池は来浦谷はおろか国東町全域で見ましても有数の規模を誇るもので、その普請には土木技術の幼稚な時代のことですから大変な難儀をされたことと思います。来浦谷一帯の水がめとして重要な意味を持つ池で、国東半島の農業遺産の一部であります。あまつさえこのような素晴らしい景勝地なのですから、これは立ち寄らないわけにはいきません。

 ここからは来た道を戻ってもよいし、時間があれば池の土手を渡って周遊ルートを設定しても楽しいでしょう。つまり県道の、山口池付近の路肩が広くなったところに駐車して、土手を渡って反対ルートで庚申塔に至ることもできるわけです。思い思いの道順で、景勝や文化財を巡ってみてください。

 

9 岩戸寺

 岩戸寺は六郷満山の寺院の中でも特に著名で、参拝者が後を絶ちません。国東町を代表する名所のひとつと言えましょう。こちらは往時には12もの坊を擁したとされる大伽藍で、数多くの石造文化財が残っています。手元には適当な写真が少ないものの、その一部をここに紹介いたします。

 山口池から県道を下り、岩戸寺の標識に従って左折し坂道を上っていけば広い駐車場があります。車を置いて道なりに歩くと、小さな橋を渡るところの左手に庚申塔が見えます。この渕を「みそぎ渕」と申します。

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 紅葉は少し早かったものの、よい景観でした。左手奥に民話の看板があります。その脇から入れば、庚申塔のすぐそばまで行くことができます。

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青面金剛6臂 ※ほか不明

 残念ながら大きく破損しており、主尊以外の諸像は全く不明な状態です。瑞雲の彫りが細かく、主尊のお顔を見ましても立体感に富んでおり、元々はそれなりに立派な塔であったことが推察されます。また、刻像塔に主尊のみ置く例は大野地方や野津原方面でまま見かけますけれども国東半島では類例が僅かでありますから、こちらも下部に猿や鶏を伴っていたものと思われます。付近には庚申石が立てかけられています。周囲がよく整備されているが救いでございます。

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 車道脇の石造物です。これは一体、何でしょうか。L字型に加工した石に3体の仏様を浮き彫りにしてあります。説明板がなく、詳細が分かりませんでした。

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 仁王像が立つ参道入口は、国東半島を象徴する景観です。こちらの仁王像はどっしりと構えた立ち姿がよく、細部まで整ったデザインであり近隣在郷を代表する秀作といえましょう。しかも銘のあるものでは最古で、500年以上も前からこの地に立ち続けて睨みを利かしているのです。

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 岩戸寺にお参りをするからには、こちらの国東塔を見逃すわけにはいきません。笠の一部を欠ぐほかはほぼ完璧な姿を今に残し、ただでさえスラリと格好のよい塔でありますものを大岩の上に立っているので、いよいよ立派に見えてまいります。細部の特徴は説明板の内容を転記します。

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国宝 岩戸寺国東塔
 国東塔は国東半島独特の石造塔で天沼俊一博士が国東の地名をとって命名された宝塔の一種である。宝塔は法華経見宝塔品の所説によるところの塔で、国東塔は基礎、塔身、笠、相輪の5つの部材からなり、他の宝塔と異なる点は蓮華座のあるところである。
 基礎の3重目に2区の格狭間が彫られ一重複弁の反花、二重複弁の請花からなる蓮華座の上に安定した重みをもって塔身が座す。笠は照屋根、相輪の最頂部に宝珠を頂き火焔を付す。総高約3.3m、材質は各閃安山岩。国東半島に点在する約150基の国東塔中最古最優のもので、銘文に
 如法経奉納石塔一基
 右志者為当山平安仏法興隆
 広作修善乃至法界平等利益
 弘安六年大歳癸未九月日
 大勧進金剛仏子尊忍
 造立者 専日坊
とあり、弘安の役の直後の危機感、末法の世の不安から法華経弘宣の為に之を書写して奉納された供養塔であり、昭和8年国宝に指定された。

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講堂

 今では草屋根の堂宇を見かけることがほんに稀になりました。その意味でもこちらの講堂は貴重なものであります。説明板の内容を転記します。

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市指定史跡(昭和51年3月30日指定)
講堂

 坊中にある講堂は、布教道場として建てれたお堂であるが、現在では、修正鬼会の夜の勤行がとり行われる。木造四ツ屋造りで草葺平屋建、総高6.54mを測る。五間四方の正方形で、10m四方の板縁の中に一段高く12本の柱に囲まれた内陣をもつ特殊な建物である。

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国指定重要無形民俗文化財(昭和52年5月17日指定)
所在地 大分県国東市国東町岩戸寺
所有者又は管理者 岩戸寺
年代 養老年間(712~724)伝

 六郷満山天台宗寺院最大の法会である。江戸期には各寺院で執行されていたが、現在では岩戸寺、成仏寺、天念寺の3ケ寺のみで行われている。
 岩戸寺と成仏寺では隔年交代で実施されている。当日昼の勤行があり、午後7時頃にタイレイシが垢離取りをして院主と盃の儀を行い大たいまつ(総長4.4m)を御供し、タイアゲを行う。夜の勤行の後、立役といって僧2人が香水棒を持って舞う。四方固で結界が張られた堂内に鈴鬼が2体現れ舞い、災払鬼や鈴鬼が鬼走りの行を修し、最後に村の家々を巡って御加持を行う。
 伝説によれば養老年間に仁門菩薩が国家安穏・五穀豊穣・万民快楽・息災延命の諸願成就のために六郷二十八ケ寺の僧侶を集めて「鬼会式六巻」を授けて創始したという。
 これらの鬼は祖霊神の訪問と考えられる。日本古来の伝統的宗教観を彷彿させる珍しい祭礼である。

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 参道の石段を一歩々々踏みしめて登ってまいりますと、この気持ちのよい空間に心がほっといたしますし、何百年もの間に数えもやらぬ人数が歩いた歴史を感じまして、感慨深いものがございます。

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 六諸権現のあたり、いよいよ奥詰めにまいりますと子安観音様や明賢洞がございます。明賢洞は岩戸寺先達の明賢律師のお墓であるそうです。

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 針の耳のような場所もあります。岩戸寺にお参りをされる際には、一つひとつの文化財や史蹟を見学していくと時間がかかります。近隣の名所旧跡・文化財めぐりの道中で立ち寄る場合には時間に余裕をもったコース設定を考える必要があります。また、岩戸寺付近から山道を登っていくと、最後は鎖渡しで五辻不動に上がることもできます。しかしこの道は難路でありますので、よほど山歩きがお好きな方でなければやめておいた方がよいでしょう。

 

10 向鍛冶の庚申塔

 岩戸寺から県道に返り、下っていきます。しばらく行くと右側に「長慶寺」の看板があります。その角を右折して橋を渡った先が十字路になっています。長慶寺はこれを右折しますが、今回は直進して急坂を登っていきます。向鍛冶(むこかじ)部落に入って、登り着いたところを右に折れて民家の前を進みます。道幅が一段と狭まるところの右側に広がる墓地の一角に庚申塔が立っています。道路からでも遠目に見えますのですぐ分かると思います。車を停められそうなところが近くにないので、県道沿いの路肩の広いところに駐車して歩いて来る方がよいでしょう。

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 国東史談会の本でこの塔の写真を見て以来、一目見学したやと探訪を楽しみにしていました。場所が分かりにくそうな気がして二の足を踏んでおりましたが、3年ほど前に思い立って友人とともに探訪したところ思いの外簡単に見つけることができまして、首尾よう行き当たった嬉しさと写真で見た以上に立派な塔に感激したことが昨日のことのように思い出されます。

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青面金剛4臂、2童子、1猿、2鶏

 大きな笠に守られているためでしょうか、厚肉彫りの諸像はすこぶる良好な状態を保っております。たらこ唇の主尊はお慈悲の表情にて、周囲のお墓を優しく守ってくださっているようです。その御髪と上部の日月が一体のもののように見えて、まるで高貴なお方が冠をかぶっているかのようでございます。それにしても腕の表現はどうしたことでしょう。上の腕は西洋の方が肩をすくめるあの所作にも似たような、おもしろい所作でございます。下の腕は合掌してωの形をなしています。腕の付け根が離れていることなどこちゃ知らぬと言わんばかりの自由奔放な表現で、一度拝見したら忘れられないインパクトがございます。足先が180度開いているのも微笑ましいではありませんか。

 羽織を着た童子は行儀よう手を重ねて立っており、番頭さんが店先に立っているような雰囲気がございます。その間には大きな猿がただ1匹、御幣をかたげて横向きに刻まれています。鶏も大きく立派で、余白がほとんどありません。型にはまらない自由な表現、一つひとつの彫りの丁寧さなど、素晴らしい塔です。来浦谷には立派な刻像塔が多数ございますが、こちらはその中でも有数のものといえましょう。

 

11 平原の庚申塔

 向鍛冶から県道に返って少し下ります。道なりにごく小さな橋を渡ると大字来浦は平原(ひらばる)部落です。右側に軒先に郵便ポストの立つ民家があります。このすぐ先を左折して坂道を上がったところの辻に庚申塔とお弘法様の祠が立っています。車は県道沿いの路肩の広いところに停めるとよいでしょう。

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 こちらは県道からすぐ近くなので簡単に行き当たりました。庚申塔はやや後ろに傾いていますけれども、お供えもあがり立派にお祀りされています。講の現状は不明ですが、人里に近いので近隣の方のお参りがあるのでしょう。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、2邪鬼

 写真が悪く見づらいと思いますが、碑面は良好な状態を保っています。実物を見ると諸像の姿がよう分かります。まず笠を見ますと、軒口のところに棟木が細かく表現されていることに気付きました。庚申塔の笠では、このような装飾は珍しいような気がいたします。立派な御髪の主尊は目を細めた微妙な表情で睨みを利かせています。威厳とか勇ましさというよりは、失礼ながらちょっと意地悪な表情にも見えてまいりました。衣紋は袈裟懸けで、右肩から斜め方向にずっと下の方まで皺が丁寧に刻まれていて、平板な彫りの中でも立体的に表現しようとした工夫が見事です。

 主尊の足元には鬼のお面のようなものが2つ刻まれています。これは、邪鬼を顔だけで表したものでしょう。国東半島においては2邪鬼の例は少ないものの、大分市(稙田地区)や本匠村など数か所で見たことがあります。写真では分かりにくいと思いますが、3匹の猿がめいめいにおどけたポーズで、まるで子供が遊んでいるような風情でほんに可愛らしく、この塔でいちばん好きなところです。

 

今回は以上です。最後に紹介した庚申様から民家の裏の道を行けば猿坊の堂様、そこから金比羅山に登れば庚申塔が2基あります。適当な写真が手元にないのでひとまず省略して、次回は先に進みます。