大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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藤原の名所めぐり その4(日出町)

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 今回は赤松周辺の名所旧跡を紹介します。ずいぶん前、この辺りの名所旧跡の一部を「川久保地区の今昔」として前後篇にて掲載しました。今回、その記事を編み直して、新たに探訪できた名所・文化財も加えて藤原シリーズの「その4」として投稿するものです。

 

17 赤松橋

 前回、赤松峠にございます「大津庵」まで紹介しました。そこから国道10号を山香方面に下って行けば、三叉路のところに赤松の妙見様(願成就寺)の見事な山門がございます。その下を過ぎればほどなく、現道の赤松橋左手に旧の赤松橋が架かっています(冒頭の写真)。日地町内には石橋が僅かしか残っていないので貴重なものでありますし、このように立派な2連のアーチは近隣在郷でも稀です。見学者のために駐車場や説明板などが整備されているほか、春先には桜も咲きますので、近隣の名所旧跡を探訪する際の拠点としてもお勧めいたします。

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 説明板の内容を転記します。

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 赤松橋(石拱橋)

 日出町で唯一の石拱橋で、通称「赤松のめがね橋」と呼び親しまれています。現在の鉄橋が架けられる以前、宇佐方面と日出を結ぶ幹線道路上の重要な役割を果たしました。
 明治23(1890)年頃、国道10号線(旧国道35号線)の工事がはじまりました。八坂川には吊橋や木橋が架けられていましたが、洪水で度々流失したため、堅固で恒久的な石橋として赤松橋を架けることとなりました。
 赤松橋の架橋工事は、大分県庁が発注し、工事は都留茂一(宇佐郡北馬城村)が請け負いました。明治29(1896)年9月に着工し、当初は順調に工事が進められましたが、季節の移り変わりとともに寒さが厳しさを増すと、セメントがなかなか固着しないなど、工事は難航して中断を余儀なくされました。翌30年春、工事を再開するも様々な事故に直面し、同年9月にようやく竣工し、総工費は予定の2倍の13,500円におよびました。
 赤松橋は架橋後、幾度かの洪水にも損傷することなく、現在もその美しい姿を川面に映し、往来する人々の目を和ませています。

 日出町史跡 昭和39年3月1日指定 日出町教育委員会

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 この橋がかかる前は、近隣から鳥ヶ瀬の渡しというトン橋(とび石)を伝って下川久保に渡っていたそうです(道順の変遷は別項にて後述します)。赤松橋の架橋により、この地域の交通が劇的に改善されました。橋脚下部には水流の影響を考慮した細工がなされているそうで、それにより度重なる大水にもびくともせず、今なお立派な姿で架かっているのです。説明板によれば工事にたいへんな難儀をされたとのことですが、その苦労の末に竣工したこの名橋は当時の土木技術の粋の結晶といえましょう。

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 時間があれば、ぜひ歩いて渡ってみてください。

 

〇 りゅうご渕の由来

 赤松橋のやや下手、牧峯神社の御旅所(後述)の裏手あたりで川が大きく屈曲しています。その辺りが深い淵になっておりまして、新橋の工事等により景観が損なわれましたが昔は、暗い淀みに底も知れない恐ろしさであったそうです。その淵を「りゅうご渕」と呼び、落ちると助からないので決して近寄らないようにと子供に言い含めたと聞きました。

 この「りゅうご」と申しますのは「竜宮」の転訛で、「りゅうご渕」は高崎山別府市大分市の境界)の下の「竜宮城の入口」につながっているとの伝承がございます。今は道路拡幅により昔の面影がなくなってしまいましたが、以前、高崎山近くの国道10号線がまだ4車線であった頃、海側の一角に八大龍王様の祠がありました。この祠の下のところが深くなっていて、竜宮城の入口であると申します。その祠の旧地も今や道路の舗装の下で、祠は付近の山手に移したとのことです。

 それにしても、このように子供の興味関心を引くような内容であれば、脅し文句の甲斐なく却って逆効果だったのではないかといらぬ心配をしてしまいます。

 

〇 赤松・川久保の道路今昔

 赤松周辺は藤原地区の中でも最北端に位置します。日出市街地はおろか、旧藤原村役場からでも赤松峠を隔てたその先に位置しておりますので、かつていろいろと不便がございました。特に上川久保・下川久保は八坂川の対岸で、明治30年に赤松橋が竣工するまでは頼りない吊橋や木橋、それが流れてしまえば旧来の鳥ヶ瀬渡しにて飛び石伝いを余儀なくされる始末でした。明治44年に鉄道が来たときも、日出駅(当時暘谷駅はありませんでした)に出るには遠すぎますので、杵築駅を利用することが多かったそうです。

 今は赤松の妙見様の下が三叉路になっていて、妙見橋を渡り大左右(だいそう)の桜並木を見ながら線路沿いを行けば、車であっという間に杵築駅に着きます。この妙見橋の横に、旧の妙見橋が今も残っています。旧妙見橋は大正8年の架橋であるそうで、それ以前はこの道はありませんでした。その頃は赤松橋を渡って上川久保部落にて右折し、八坂川左岸の細道を通って下川久保部落に抜けていました。妙見橋が架かってからは下川久保までがずいぶん便利になりましたが、平淵(ひらぶち)から先は川べりの難路で、小さなトンネル(明治36年竣工)を2つ抜けて杵築駅にやっと到着していたのです。そのトンネルの近くにホキという小字があります。ホキの原義は「崖」で、崖をへつっていく難路を昔からホキとかホキ道といいます。平淵道はまさしく大ホキ道でありました。自動車も通りましたがすれ違いに難渋する難所で、拡幅する余地がなかったので、昭和の中ごろに大左右は五無田の前後に2つの橋を架けて今の道路が完成しました。昔の幹線道路であった平淵道は打ち棄てられ、今では全くもって交通不能の状態であります。

 

18 牧峯神社御旅所の庚申塔

 赤松橋の駐車場に車を置いて、国道を横断します。目の前にある小山の上が、牧峯神社(妙見様の近くにあります)の御旅所です。少し右に行って、折り返すようにして国道と平行気味になだらかな坂道を上がれば、ほどなく御旅所が見えてきます。

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 御旅所に着きました。今は、この左側が国道の拡幅により削り取られて掘割の様相を呈しておりますので、境内が狭まっています。昔はもう少し広かったことでしょう。

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 御旅所の建物は、一部トタンが破れていますけれどもそう古いものではなさそうです。左奥に庚申塔が立っていることに気付きまして、まさかここに庚申塔があるとは思いもよらなかったものですから途端に嬉しくなりました。

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青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 藤原地区でよう見かけるパターンの刻像塔です。このシリーズの「その1」「その2」でこれとよう似た庚申塔を紹介しておりますので、比較してみてください。また、杵築市は二ノ坂部落にもこれと似た塔がございます(北杵築の名所・文化財その9で紹介しました)。この種の刻像塔は主尊の御髪のボリューム感や向かって右に大きくなびいているのが目立ちますが、その中でもこちらの主尊は異常なる毛量でございます。お顔の小ささに比べて、なぜにこうまでと言いたくなるような炎髪のデザインでありますが、これは火焔光背をも内包するものとして象徴的にこのように表現してあるのかもしれないと思い至りました。腕を直角に曲げて宝珠を掲げる所作はこれ見よがしな感じがして主尊の自信満々な様子がよう分かりますし、その自信の根拠であります力強さとか威厳をも感じられる、分かり易くて楽しい表現です。

 童子は微妙に向かい合うて、立ち話をしているかのような長閑な雰囲気が感じられます。その下では藤原地区の庚申塔の特徴として、猿が竪杵を取り合うて籾摺りをしているような所作で戯れておりますのもおもしろいではありませんか。

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 横から見ますと、塔身が下にいくにつれて細くなっているのが気になりました。まったく風変わりな造形でございます。

 

19 上川久保の石造物

 赤松橋を渡り、上川久保部落に入ります。半ばで鋭角に右折して、田んぼの中の細道(妙見橋以前の旧道)を行きます。ガードをくぐった先を山裾に沿うて折り返すように左折してすぐのところに堂様があります。こちらは、線路を通す際にこの場所に移転したとのことです。車は堂様の前に停められますが、農繁期は避けた方がよいでしょう。距離は知れていますので、赤松橋の駐車場から歩いて来た方がよいかもしれません。

 堂様の坪にはいろいろな石造物が並んでいます。元からこの場所にあったものもあれば、国道の拡幅等により移されたものもあると思います。

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 特に宝篋印塔は状態が良好で立派なものです。ただ、塔身の色味が違いまして、ここだけ材質が異なるような気がしました。後家合わせなのかもしれません。

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青面金剛4臂、2猿、2鶏

 藤原地区の庚申塔群の類型でありますが、先ほど紹介しました御旅所の庚申塔などに比べますとほんに素朴な印象を受けました。全体的に彫りが浅く、ほとんど影絵に近い表現になっております。外枠の厚さと諸像の厚さがさほど変わりませんし、碑面が荒れているわけでもありませんので、風化摩滅によるものではなく元々このような表現方法であったと推察されます。主尊の右になびく御髪が寸詰まりで、まるで枠に収めるように仕方なくこのような表現方法をとったようにも見えてまいります。衣紋のシルエットを見ると、アッパッパを着たおばさんが風に吹かれて立っているようで、何とも微笑ましいお姿ではありませんか。

 猿はやはり竪杵で籾摺りをしているような恰好で、もしかしたら豊年満作を願うてこのような表現にしたのかななどと想像が広がります。その下段の鶏も自由奔放な表現で、臼からこぼれた米粒をついばんでいるように見えます。収穫の時季などに一緒に喜んでくれるような、親しみやすい雰囲気の庚申様でございます。

 

20 下川久保の石造物

 上川久保の堂様から、線路沿いに旧道を行けば下川久保に出ます。この道は線路と崖に挟まれた狭路ですので運転に不安のある方は無理をせずに国道に戻り、妙見橋を渡って自動販売機のところを左折した方がよいでしょう。下川久保の中ほどに公民館があります。道路沿いなのですぐわかります。この公民館の坪に、宝篋印塔、国東塔、庚申塔などの石造物がございます。駐車スペースは十分にあります。

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 宝篋印塔、国東塔ともに保存状態がすこぶる良好です。こちらは県指定の文化財で管理が行き届いております。国東塔はやや据わりの悪そうなスマートな造形で、何かのはずみで壊れてしまわないかと余計な心配をしてしまいましたが、数年前に一旦解体してきちんと積み直されたとのことですので、心配無用というわけです。

 向こう側の田んぼに藁こづみが見えます。鉄道の開通、道路の改良、そしてもちろん家屋も藁屋根・草屋根は皆無になり、これらの塔が造立された時代とは何もかも変わっておりますけれども、まだまだ、このような懐かしい風景が見られます。昔の方は藁こづみのことをトシャクとかニオと呼んでいました。小さいもの、棹を立ててそれに次から次に重ねていき人の背丈よりも高くしたもの、または小屋のような形に仕上げたものなど、めいめいに工夫していたものです。今は、小さいもの以外はほとんど目にすることがなくなりました。ハサ掛けも見なくなりました。機械の入らない田んぼを耕作することも稀になりましたので、近所の人が助け合うての作業(マクリとか手間替えと申します)もほとんど見かけません。コンバインなどの高級な機械が普及し、圃場整備が進み、稲作の様子が様変わりしました。このような移り変わりの中、これらの塔はずっとこの場に立ち続けています。周りの景色によく馴染んだ、人々の生活の中にある文化財です。

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青面金剛4臂、2猿、2鶏

 上川久保の庚申塔にそっくりですがこちらの方がより彫りが浅く、しかも風化摩滅が顕著で諸像の姿が薄れてきております。猿を見ますと、こちらの塔の方がいくらか写実的で、より動きのある表現をとっています。向かって左の猿が腰を直角に曲げて、まるで杖をついて立っているように見えるのがおもしろいではありませんか。また、主尊の衣紋を見ますと、下半身のところにはかなりのアンバランスさが感じられます。上川久保の庚申塔の主尊は衣紋の裾が一直線でした。ところがこちらは、脚の外と内が段違いになっています。これは一体、どのような意図があるのでしょう。鎧のような雰囲気も感じられますけれども、よう分かりませんでした。

 

21 赤松の六地蔵

 下川久保から妙見橋を渡って妙見様の三叉路まで戻ります。妙見様とセブンイレブンの間の道に入って、清水部落の方に登っていきます。右側の家並みが途切れるといよいよ道が狭くなりますが、普通車までなら通れます。築堤を渡って道なりに左に折り返した先、左にカーブミラーと離合所、右にお墓があります。そのカーブミラーの手前を左折して坂道を下り右に折れて少し行けば、お地蔵様が並んでいるところに出ます。

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 中央の仏様のお顔がほんに味わい深うございまして、目が釘付けになりました。遠目に見て、笠を阿弥陀被りにしたお弘法様かなとも思うたのですが、どうも笠ではなくて光背のようです。お弘法様ではなく能化様なのかもしれません。近隣にお墓がありますのでそれに付随する六地蔵様のような気もいたしますが、灯籠等を伴い寄附者の碑銘もありますから、何らかの霊場としての位置づけでありましょう。

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奉安発願赤松順開都謹

 村の発展を願うて造立されたようです。

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大正2年8月

 倒壊が懸念されるほど据わりの悪そうな石燈籠には、大正2年の銘がありました。

 

今回は以上です。初めて、過去の記事を編み直して内容を追加するというやり方で投稿してみました。投稿に当たって旧記事「川久保地区の今昔」を見直しますといろいろと誤謬がありましたので、文章の推敲に思いの外時間がかかってしまいました。藤原のシリーズは、写真のストックがなくなったのでこれをもって当分の間お休みとします。