大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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旭日の名所めぐり その2(国東町)

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 引き続き、上治郎丸の名所・文化財を紹介します。今回紹介するところは至近距離にて、短時間で全部まわれます。

 

4 宮西の庚申塔

 前回紹介した論地池から引き返して、治郎丸線を下ります。オレンジロードを過ぎてさらに下り、宮本部落までまいります。道路右側にコミュニティバスの「上宮本」停留所が目印です。そのバス停の反対側の民家の背戸を上がっていくと庚申塔が立っています。

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 ここが上り口で、庚申塔まで一本道ですからすぐ分かります。急坂を頑張って登るとほどなく庚申塔の立っている平場に着きます(冒頭の写真)。入口には車を停める場所がありませんので、一旦通り過ぎて公民館に停めさせていただき戻ってくるとよいでしょう。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 一見して、前回紹介しました焼野の庚申塔にそっくりであることがすぐ分かります。ただ、この種のデザインのものは4夜叉を伴うものがほとんどでありますのに、こちらはちょうどその部分を欠いて猿が下端になっております。その関係で、4夜叉を伴うものよりは猿や鶏がやや大きめになっています。焼野の庚申塔から単に夜叉を省いただけだと、なんとなく尻すぼみと申しますか、全体のバランスが悪くなるように思います。この点に留意して、猿や鶏の比率を変えた石工さんの力量に唸らされます。諸像の表現の詳細については焼野の庚申塔で申しましたので繰り返しませんが、一点申しますと鶏や猿は、やはりこちらの方が大きいのでより写実的で、細かい部分まで丁寧に表現されています。高台から麓を見守ってくださる、ありがたい庚申様でございます。

 

5 阿弥陀寺

 阿弥陀寺跡は上治郎丸の中でも名所中の名所でありまして、興味深い石造物が数々ございますほか春には吉野桜が見事です。車で行く場合には宮西の庚申塔のふもと、コミュニティバス「上宮本」停留所から田んぼの中の細道に入り、道なりに行けば境内まで乗り着けることができます。やや不安になる道幅ですが普通車までなら通れます。歩いて行く場合にはバス停から少し焼野方面に進んで最初の二又を左にとって、左手にかかるめがね橋(車不可・次項参照)を渡るとよいでしょう。

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説明板の内容を転記します。

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阿弥陀寺跡 国東町大字治郎丸
 元久2年(1205)都荘坊入道(別名小山田行重)が鎌倉より本尊3体を奉持して府内に下向、府内よりこの地に移り、御堂を建てて仏像を安置、のち寺を建立、阿弥陀寺とする。同寺はときに有住、ときに無住を繰り返し、江戸時代末期(文久年間)廃寺となる。
・めがね橋 御堂の裏の谷川にかかる橋で、熊本方式により石を見事に組み合わせている。
阿弥陀像 木彫、素材は楠木 金箔塗り
・一石十王像 享保年間の作 一石に前後各4体、両側各1体ずつ刻まれている。
・供養盆踊り 毎年8月14日
管理者 上治郎丸区
指定年月日 昭和58年4月26日
町指定史跡 国東町教育委員会

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 阿弥陀様の写真はありませんので、ここでは境内にございますいろいろな石造物を紹介します。盆踊りの日程が載っていますので補足説明しますと、この辺りの盆踊りは「六調子」と「祭文」の2種類のみですが、ゆったりとした手振りがなかなかようございます。特に「六調子」は、音頭のリズム(3拍子)につかず離れずの微妙な足運びでくるりくるりと反転しては千鳥に流していく所作がほんに優美で、ところの名物といえましょう。踊り方が難しくて年々輪が小さくなっているのが惜しまれます。

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 宝篋印塔は上部が後家合わせで基礎も本来の姿ではありませんけれども、隅飾りがよう残っており、段々になったところもくっきりとしています。

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 石幢も、中台は後家合わせのような気がいたします。けれども龕部の仏様はよう残っていますし、そもそも国東半島には石幢の作例が多くはないので、この近隣においては貴重なものなのではないでしょうか。

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 説明板にて言及されていた「一石十王像」は、特別の祭壇を設けて石燈籠も伴い、ことさらに鄭重にお祀りされています。最初に説明板を見たものですから「一石十王像」とはこれいかにと思うたのですけれども、実物を拝見して十王像の刻まれている石殿のことをそのように呼んでいることが分かりました。十王石殿は国東半島においてぽつぽつと見かけます。特に富貴寺参道脇のものが著名です。ほかにも国見町は東中の秋葉様の下のところや、大田村などでも見たことがあります。いずれも立派なものです。

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 こちらの石殿は保存状態がすこぶる良好で、諸像の姿がくっきりとしています。やや形式的な表現の十王様がずらりと並ぶ様子には、失礼ながら可愛らしい雰囲気も感じられました。台座に大きく刻まれた蓮もなかなかようございます。

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 古い墓碑や五輪塔が一角に集められ、塚をなしています。この墓碑は、おそらく阿弥陀寺跡の関係者のものでありましょう。境内のゲートボール場を整備したに動かしたか、または近隣地域からこちらに移されたものもあろうかと思います。

 

6 門前のめがね橋

 阿弥陀寺跡から裏手に回れば、小川を跨いで市道に出ることができます(車不可)。そこに、国東町では珍しい石拱橋が架かっています。

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有形文化財 めがね橋
昭和55年6月1日

 阿弥陀寺の境内隅に、文化財の標柱が立っていました。

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 めがね橋は、残念ながら枯草に覆われて側壁の石積みが見えづらくなっていました。でも輪石の様子はよう分かります。アーチのカーブが真円ではないような気がします(そう見えただけかもしれませんが)。また、上部がやや窪んでいるのも気になりました。傷みが進んでいるのか、上部に古い電信柱を平行に並べて渡してあります。直接めがね橋の上を渡ることはできませんが、安全に通行できます。

 最近、「藤原の名所めぐりその4」で赤松のめがね橋を紹介しました。あの立派な橋に比べるとずいぶんささやかな橋ではありますけれども、地域の方の生活の中にある文化財としての価値に上下はありません。こちらのめがね橋も、今後も破損することなく永く残ってほしいものです。

 

7 門前の庚申塔

 阿弥陀寺跡からめがね橋を渡って、市道を横切って少し山に入ったところに庚申塔が立っています。

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 この坂道を登ると、お墓のところに出ます。そこから右方向に参道が伸びていますが崩れ気味で上がりにくいので、一旦通り過ぎて里道に沿うて右カーブして上がっていき、庚申塔と同じくらいの高さに来たら右に斜面を突っ切るとよいでしょう。

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 竹が伸びて周囲はやや荒れ気味の印象を受けました。大きな庚申塔も傾いてきています。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 一見して、主尊がずいぶん小さく刻まれているように見えるかもしれませんけれども、それは塔自体が大きめで余白が広いためにそのように見えるのです。ほんにどっしりとした、立派な塔でございます。主尊は立体感に富んだ彫りで、厳めしいお顔や腕の表現などよう整うておりますし、スラリと背が高うて恰好がようございます。童子は振袖さんで、両手を袖の中に隠して行儀よう立ち、にっこりと優しい笑顔を見せています。鶏と猿はほんに小さく、狭い部屋の中で仲良う並んでいるのが微笑ましいではありませんか。猿を、両脇から鶏が優しく見守っているかのようです。

 見るからに重たそうな塔なので簡単には倒れないとは思いますけれども、竹が今以上に育ったり竹の子が次々に生えてくると、それに押されて倒れてしまわないかと気にかかります。

 

8 薬師様

 門前の庚申塔から、上宮本のバス停まで戻ります。道なりに下りますと、大山神社よりも手前の道路右側に「連碑」の標柱が立っています。それを目印に左折して、民家の背戸を上がります。車は入れない道なので、公民館に停めさせていただくとよいでしょう。

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 民家の間を上がると、このように田んぼの石垣に挟まれた道になります。この先が二股になっていますので、右にとって急坂を登っていきます。特に危ないところはありませんが、雨上がりはやめておいた方がよいでしょう。

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 ここまで登ればあと少しです。道ははっきりしていますが、夏はマムシが出るかもしれませんから秋か冬の方がよさそうです。

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 急坂をやっと登り着いたら、正面に磨崖連碑が見えてきます。

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 薬師様の境内に着きました。この場所には12連の磨崖連碑と灯籠、庚申塔がございます。磨崖連碑は十二神将を表すものではないかとの説もあるそうですが現地に説明板がなく、詳細は分かりませんでした。地域の方は、この場所を「薬師様」と呼ぶそうです。かつて薬師堂が建っていたのか、またはこの連碑をもって薬師様と呼んでいるのか、気にかかります。

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 梵字などは消えてしまって分からなくなっていますけれども、立派な磨崖連碑でございます。これまで、夷谷の梅ノ木磨崖仏をはじめ数か所で磨崖連碑を見たことがあります。それらは、上端と下端が一直線に揃うていて、上部に三角形のぎざぎざ模様を刻みその谷筋から縦に平行に何本もの直線を刻んだものでした。ところがこちらは、大岩の形状を生かして、上部がなだらかなカーブを描いています。しかも上端が三角になっていなくて、普通の板碑と同じような形になっています。梅ノ木などで見かけたものとは明らかに形状が異なり、一口に磨崖連碑と申しましてもいろいろな種類があることに気付きましてたいへん興味深うございました。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 あまり大きくはないものの、個性的な表現・丁寧な彫り・保存状態の良さ、どれをとっても秀でている立派な庚申様です。まず、日月の上に三角形のお山型の装飾を刻んでいるのが変わっています。これはどのような意味があるのでしょうか。主尊はバッチョロ笠をかぶって、眉を吊り上げて鼻の孔を膨らましています。威厳とか勇ましさというよりは、なんだか農作業中のおじさんがへそを曲げているように見えてまいりまして、たいへんおもしろく感じました。体も厚肉彫りで、腕の重なりなど丁寧に表現してあります。脚ががに股かつO脚で、脚絆を巻いたような裾まわりも含めまして、働き者の雰囲気が感じられます。童子がことさらに小さく、かわいらしい姿で控えていますのも微笑ましいではありませんか。

 猿と鶏も、さきほど紹介しました門前の庚申塔と同じようにほんに小さくて、これまた何とも言えないかわいらしさがございます。この塔は鶏や猿といった小さい彫りはおろか、塔全体で見ても弓の外側のところのへりを少し打ち欠いているほかはほとんど傷みがありません。薬師様の境内にあって、近隣の方の信仰が続いているようです。

 

今回は以上です。上治郎丸は至近距離にたくさんの庚申塔が立っていて、いずれも興味深い造形です。しかも阿弥陀寺跡の石造物も素晴らしく、前回紹介しました地点も含めまして非常に印象に残りました。次回は下治郎丸や綱井の名所・文化財を紹介したいのですが、これまでの2回に比べますと写真が悪く、しかも分量的にも少なくなってしまいそうです。それで、「その3」はまたの探訪ができ次第として、しばらく違う地域の名所旧跡を紹介していこうと思います。