大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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熊毛の名所めぐり その1(国見町)

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 国見町は名所旧跡・石造文化財の宝庫の感がございます。以前、伊美地区の名所・文化財を何か所か紹介しました。そのシリーズも半ばではありますが、先日岐部(きべ)の庚申塔を何か所か訪ねる機会を得ましたので、新しく熊毛地区(旧熊毛村)のシリーズを書いてみようと思います。熊毛地区は上岐部・中岐部・下岐部(以上大字岐部)、大字大熊毛、大字小熊毛、大字向田(むかた)の7地域・4大字に大別されます。探訪が不十分なので道順が飛び飛びになってしまいますが、ひとまず上岐部からスタートして中岐部、下岐部と進んでいきたいと思います。

 

1 松林寺

 国東町から国道213号を通って国見町にまいります。「ペトロ岐部神父記念公園」のところを折り返すように左折して、市道岐部線に入ります。道なりに内陸方面に進んでいきますと、オレンジロードとの交叉点手前右側に松林寺がございます。車は、すぐ隣にある上岐部公民館に停めさせていただくとよいでしょう。松林寺は現在無住で、地域の方により守られています。こちらは石造文化財の宝庫の感があり、多種多様な石造物が境内に並んでいますので興味関心のある方にはお参り・見学をお勧めいたします。冒頭の写真の五輪塔群もその一部です。

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 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財(平成5年3月26日指定)
石造地蔵菩薩立像及び比丘尼立像
   所在地 大分県国東市国見町岐部
   所有者又は管理者 松林寺講中
   年代 鎌倉時代
 松林寺は臨済宗妙心寺派で、嘉慶2年(1388)8月、釈雪牧開祖、その後成徳元年(1711)雲租が中興するが、現在は無住である。
 地蔵信仰の起こりは平安時代以降といわれており、鎌倉時代に入ってその信仰はいよいよ盛んになり、以後各時代を経て今日に及ぶ。民衆の最も親しい菩薩として民間に広く信仰され、その像は数多く製作され、地蔵菩薩の無限無量の大慈悲心に美しい親愛の情をささげているのである。
 地蔵はあらゆる場所に身を変えて現れ、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人などの六道の衆生を救う仏で、「この世の末法の教え」とし、仏なき末法の世の救い主となり、いろいろな現世利益で飲食・伊福・宝飾・医療などが充足し、病も除くなどの現世利益だけでなく、六道・悪趣である地獄の苦しみを救う。
 また、地蔵は人々の衆生済度を容易にするため、外見は衆生に親しみやすい童子や草鞋や比丘尼像の姿に変えたりするが、その典型が松林寺の像であろう。
※名前の起こり
「安忍不動なること台地の如く、静慮親密なること秘蔵の如くなれば地蔵と名づく」
「地は万物を産み諸宝を蔵するところから地蔵と名づく」
総高 比丘尼像 120cm(台石より)
   地蔵菩薩像 96cm(相石より)
(銘)比丘尼像 永徳元年(1381)
   地蔵菩薩像 永徳2年(1382)

市指定有形文化財
無宝塔(平成4年6月12日指定)
 総高138cm
宝篋印塔(平成8年6月12日指定)
 総高206cm

国東市教育委員会 平成22年3月

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 説明板にあった尼さんとお地蔵さんが並んでいます。どちらも優しそうなお顔で、拝みますとその慈悲深さにほっといたします。ありがたい仏様に自由にお参りができますのもほんにありがたいことです。地域の方々のお蔭様でいつも境内はきれいに整備されていますので安心してお参りができます。尼さんの左隣の小さな石像は、「おめが様」のような気がしますが説明板に言及がなかったので正体不明であります。

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 境内には宝篋印塔が2基ございまして、そのうち左手に立っている方は自然石の上に安置されていますので実物以上に大きく立派に見えてまいります。

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3不明像

 この碑は、庚申塔であるという伝承があるそうです。碑文は判読困難でありますが、下部に3体の不明像が刻まれています。おそらくこの部分を3猿と見做して、庚申塔であると推量したものと思われます。ただ、この像は本当に猿なのか、一見して甚だ疑問に思いました。それと申しますのも、櫛来地区で見学しました修道士磨崖像に拝み手の形などがよう似ておりますことから、こちらも所謂「おめが様」ではあるまいかと思ったのです。真偽のほどは定かではありませんが、可能性が全くないわけではなさそうな気がいたします。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 松林寺には刻像が2基ございます。こちらはオレンジロード端に立っていてあまり目立ちませんが2段の基礎、さらに笠が立派で宝珠を伴いますので背が高く、すらりと格好のよい塔です。ところが諸像の表現はほんにささやかな感じがして、ずいぶん大人しうございます。主尊は神妙な面持ちにて慈悲深そうな印象を受けました。ほっそりとした体の前に回した手を組んで行儀よう立つ姿には、その内にある高潔さが感じられます。童子もごく小さいものを、まして小さいのが猿と鶏で、彫りが浅くて写真では見えにくいと思います。オレンジロードの交通安全を見守ってくださっている、ありがたい庚申様でございます。

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 玄関前の庚申塔は先に紹介したものよりも大型で、しかも保存状態が良好です。格狭間がよう残っています。通路の反対側にはもう1基の庚申塔と、説明板にも紹介されていました無宝塔が立っています。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、1邪鬼?、1鬼面

 こちらの庚申塔は彫りの見事さ、工夫されたデザイン、独創性、どれをとっても近隣在郷で5本の指に入る秀作であると確信いたします。まず大きな唐破風を伴う立派な笠が見事です。その下の、碑面を斜めに掘りくぼめているところに複雑な文様で表現した瑞雲と日月も、お花模様のようで唐破風によう合うています。そして主尊は、見事な厚肉彫りで実に堂々たる立ち姿でございます。お顔を見ますと目つきは厳めしいものの、頬がむっちりとしていますから怒りで目を吊り上げたというよりは肉に押されて目が細まっているかのように見えてまいりまして、優しそうな口元と相俟って、なんとなく親しみやすい雰囲気がございます。衣紋が風になびいているのも、ほんに優美なことではありませんか。

 童子は唐人の雰囲気がございます。左右でめいめいに所作を違えてありますし、小首をちょいとかしげて主尊の足元を見ている姿などほんに生き生きとした表現です。主尊の足元は左右対称ではなく、或いは、傷んでしまった邪鬼なのではないかとも思いました。左下には鬼のお面が刻まれています!大分市で、主尊の真下に鬼のお面を2つ刻んで2邪鬼としてある塔を見たことがあります。でも、こちらは邪鬼にしては場所が風変りでありますし、もし主尊の下の台座に見えるところが傷んだ邪鬼なのであればなおさら、これは鬼のお面と見た方が自然でしょう。西方寺で上の方に鬼のお面を刻んだ刻像塔を見たことがあります。こちらも、それと同じ発想のような気がします。それは、修正鬼会などで鬼に特別の親しみをもってきた国東半島ならではのものと言えましょう。

 猿もくっきりと刻まれています。長椅子に腰かけるように見える点に注目してください。西方寺は京来寺の庚申塔でも、猿が腰かけていました。おもしろい表現だと思います。鶏が上下に並んで密接しておりまして、まるで下の鶏がおんぶをしているように見えてまいりました。どの像を見ても近隣在郷であまり見かけないデザインで、石工さんのひらめき・発想や、それを具現化するデザイン力と彫りの技術の素晴らしさが感じられる塔です。

 

2 行者山の石造物

 上岐部に行者山という小山があり、その頂上に近いところの堂様跡と思われる場所に役行者と思われる石仏や庚申塔などの石造物が安置されています。場所が分かりにくいので詳しく申します。松林寺の前から岐部線を下って行くと、左側の家並みが一旦途切れます。道なりに行き中岐部に入ってすぐ、左手の田んぼの中に1軒だけ、民家がぽつんと建っています。その民家を左に見送って、1つ目の角を左折します。山裾のところが3差路(直進・右折)になっていて、車はその角の路肩ぎりぎりにどうにか停められますが、農繁期はやめておいた方がよいでしょう。猪の柵を開けて元通りに閉めたら、その角から斜面を上がる細道に入ります。すると、下の写真の場所に出ます。

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 ここで行き止まりのように見えますが、正面に参道が続いています。しかし道も乏しい急傾斜にて、右に左に適当に折り返しながらやっと上がるような始末です。まして下りは往生します。ですから、この道には入らずに、先ほど申しました猪の柵をくぐったところから山裾に沿うた農道(簡易舗装)を右方向に行きます。しばらく行くと、左手にお墓への上り口(車不可)があります。それを無視して、農道が左に直角に折れる辺りの左手に山に上がる小道があります。だんだん道が荒れ気味になってきますが、こちらの道の方が傾斜が緩やかで通り易いと思います。

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 この坂道を頑張って登っていくと、左の方に石の御室が見えてきます。同じくらいの高さまで上がったら、斜面を水平に横切って行けば簡単に到着できます。

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 このようにお室の右側から近づいていくことになりますので気が引けますけれども、正面から上がるよりはずっと簡単・安全です。

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 門が崩れかけています。文化11年の銘がありました。こちらには庚申塔が2基あることは分かっていたのですけれど、まさかこのように立派なお室があるとは思いもよりませんでしたので感激いたしました。

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 さても立派な役行者像で、左右はおそらく前鬼後鬼でありましょう。国東半島では役行者の石像あるいは磨崖像を方々で見かけます。お参りするたびに、国東半島の山岳信仰の歴史が感じられます。

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 御室の左手には庚申塔が2基ございますが、残念ながら1基は倒れてしまい塔身と笠がばらばらになってしまっていました。幸いにも破損箇所は見当たらず、元通りに立て直すこともできそうです。

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青面金剛4臂、2童子、2(3?)鶏、2鶏

 こちらの塔は諸像の輪郭はまだよう残っていますけれども、碑面が荒れ気味で細かい部分がぼんやりとしてきています。主尊は、よう見えると目を閉じているのですけれども、一見して目のラインと眉のラインをあわせて、白目を剥いているように錯覚してしまいました。おちょぼ口で、なんとも可愛らしいお顔立ちでございます。腕は太く短く、むっちりと肉付きがようて力強そうに見えます。そして主尊の股間を見ると、何かの顔が刻まれているではありませんか。この顔は、もしかして髑髏なのかもしれないとも思いましたけれどもこんな場所に髑髏があるのは変です。いたずら者の猿が、主尊の後ろに立って脚の間から顔をのぞかせているのではないかと推量しました。

 丸顔の童子は目・鼻・口をちょんちょんちょんとささやかに表現していて、体も今に消えやらんとするような姿です。その下では2鶏と2猿を左右に分けているのが風変りで、鶏は雄鶏と雌鶏の大きさをことさらに変えていたり、猿は猿で長坐位に近い姿勢で戯れていたりと、多分に漫画的な表現であるのもおもしろいではありませんか。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 こちらの塔は、昨日今日倒れたのではなさそうです。全体が落ち葉に埋もれてしまっていたので手で払いのけ、土もできる限り除去しましたが、完全にきれいにすることはできませんでした。向こうに落ちている笠や塔身の厚さなどから推して、きちんと立っていたときはさぞ重厚な印象を受けたことでしょう。

 苔に覆われてしまって諸像の細かいところが分かりにくくなっていますが、主尊はシルエットだけでも十分に強そうな様子が伝わってまいります。碑面が下になっていなかったのは幸いですが、きちんと立っているところを見てみたかったものです。

 

今回は以上です。もう1か所載せようかとも思いましたが文字数が多くなりすぎるので、一区切りします。次回も岐部の名所旧跡を紹介します。