大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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西安岐の庚申塔めぐり その3(安岐町)

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 久しぶりに西安岐の庚申塔シリーズの続きを書きます。今回は大字掛樋を巡ります。この地域は庚申塔以外の文化財・史蹟も目白押しで、近距離に密集していますから短時間でたくさん見学することができます。適当な写真がないところは飛ばして、またの機会に補います。

 

6 小野の庚申塔

 安岐市街地から県道34号を安岐ダム方面に進みます。オレンジロードとの交叉点から先が大字掛樋で、鳴川渓谷に沿うた段丘上の小野部落を行きます。小野の中ほど、県道右側に小野公民館があります。その坪にいくつかの石造物が寄せられており説明板も整備されていますが、適当な写真がないので今回は飛ばします。

 小野部落の最後の民家に入る角(右側)に、県道に面して庚申塔が立っています(冒頭の写真)。一旦通り過ぎて、左側の路肩が広いところに駐車して歩いて戻ってくるとよいでしょう。左端の碑銘は、石橋と石樋の竣工記念碑です。石橋の寄附人は掛樋村、石樋の寄附人は馬場村で、明治6年とのことです。馬場村は安岐地区で、やや離れた場所ですのにどうして寄附をしてくれたのでしょうか。その石橋はもう残っていませんが、庚申塔の手前の谷川か、または少し先から向野部落へと鳴川渓谷(安岐川)を渡るところに架かっていたのでしょう。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 前を通るたびに、いつも新しいお供えがあがっているのが見えます。近隣のお宅の方がお世話をされているのでしょう。講の現状は不明ですが、信仰が続いているようで嬉しくなります。この塔は武蔵町でよう見かけるタイプのデザインで、さして珍しい点はありませんが厚肉彫りの主尊の存在感があって、じっと物思いにふけるような表情もなかなかよいと思います。しかも頭部が縁取りを越して日月の彫られた面まではみ出していますから、いよいよ立体感が引き立ってまいります。塔身と笠が不釣り合いで、もしかしたら後家合わせかもしれません。寛延4年、260年前の造立です。

 

7 小野の石塔群

 庚申塔の横から坂道を上がれば、台地上に墓地がございます。新旧様々な墓碑が並ぶ中で、左端の方に五輪塔や宝塔がたくさん寄せられています。

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 これらの塔は古い時代の墓碑と思われます。墓地を整備した際にこの一角に寄せたものと思われますが、粗末にならないようにきちんと安置されています。

 

8 筧隧道

 墓地から反対側に下れば、県道34号の現道・旧道の分岐付近に出ます。今は橋を渡って安岐川右岸に渡り向野部落を経由しますが、旧道は安岐川に沿うて崖道を辿りずっと左岸を経由していました。その旧道に古いトンネルが残っています。

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 このトンネルはほんの数年前まで素掘りにコンクリートを吹き付けただけの状態でしたが、久しぶりに訪れると補強されていました。しばらく通行止めになっていたので、崩落の危険性が高まっていたものと思われます。または後ほど紹介します岩屋堂付近の落石も関係があるのかもしれません。

 さて、この筧隧道は明治40年の開通です。このように古いトンネルというものは迎え掘り(両側から同時進行で掘り進めること)の測量を誤うて半ばにて屈曲している例が往々にしてありますが、こちらは距離も僅かでありますから、測量の誤りというよりは崖に沿うて意図的に屈曲させたものと思われます。半ばに川に面した窓が写っています。土被りの浅いところを掘って、わざと窓を作ったのでしょう。これは明り取りや、またはズリ出しの利便性を図ってのことではないかと推量しております。

 県道としては旧道化しておりますものの筧部落の方の利用があり、まだまだ現役のトンネルです。国東半島に数多いトンネルの中でも、明治期のものは珍しいのではないでしょうか。特に指定はなされておりませんが、地域の生活に根差した史跡として価値があると思われますので、先の通行止めの際に元の形を一変するような改良がなされずに済んでよかったと思います。

 

9 岩屋越

 筧隧道の上を越す旧道も残っています。この山越道を岩屋越と申します。この道は古い道という史蹟的な側面のみならで、仏龕や各種石造物群などの文化財もたくさん見られますので、散歩がてら探訪をお勧めいたします。筧部落側からは道が荒れていて上りにくいので、トンネル手前(小野側)から上るとよいでしょう。

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 トンネルの手前、この場所から右に上がります。特に道標はないものの、いかにもそれらしい入口ですからすぐ分かると思います。分岐点付近に適当な駐車場所がありませんので、冒頭「小野の庚申塔」の項にて紹介した駐車場所から歩いて来るとよいでしょう。

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 山道は落ち葉に埋もれています。特に危ないところはなく、坂道もなだらかなので楽に通ることができます。掘割状になっていますのは、荷車の通行を考慮してのことかもしれません。ただし現状では、道が荒れてきていてとても荷車は通れそうにありません。

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 坂道を上っていくと、右側の岩壁にいくつもの仏龕が残っています。

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 その数の確認を忘れてしまいましたが、おそらく新西国の類であったのでしょう。昔、数体の仏様が盗まれてしまって、やむなく全ての仏様を頂上部の岩屋堂(次項参照)に移して以来、この仏龕は全て空になっているとのことです。それにしても、写し霊場の参道として意図的に拓いた道ではなく、元々あった道にこのように龕をこしらえて仏様をたくさん並べてあった例は近隣では珍しいような気がいたします。

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 仏様を移してから長い年月が経っていますのに、思いの外龕がよう残っており感心いたしました。峠にあります岩屋堂跡の石造物群は次項に譲ります。

 

10 岩屋堂跡

 文化財関係の書籍やインターネットサイト等で、岩屋越頂上の堂様の写真を見たことがあります。その堂様の中に庚申塔や牛乗り大日様、道中で見かけた龕に収まっていた仏様が集められていると知り、お参り・見学を楽しみにしていました。

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 坂道を登りつめて平坦になったところの写真です。谷筋を迂回した向こう側にいくつかの石造物が遠目に見えました。今月初めて現地を訪れて、はて、堂様はどこかいなと浮足立って歩を進めたのですけれども、跡形もなくなっていました。どうも付近で大規模な落石・がけ崩れが生じたような形跡がありました。岩屋堂跡地の先には大岩が転がり、落石防止ネットが厳重に張り巡らされて旧道が跡形もなくなっています!その崩落の影響で堂様の建物が壊れてしまったのではないか、中の庚申塔や仏様は無事であろうかと心配になりまして、その夜はなかなか寝付けませんでした。屋外に地域の方が見当たらず尋ねることができませんでしたので、今でも真相は分かりません。とても気になっています。中に安置されていた文化財がどうにか無事で、里に下ろされてどこかに安置されていればと願うております。

 いちばんの目的であった岩屋堂のお参り・見学は叶いませんでしたが、屋外の石造物は一部破損しているほかは無事残っていたので、ここに紹介いたします。

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 幸いにもお顔は無事でしたが、右肩から腕にかけて大きく破損しています。ずいぶん前からこのお姿であったのか、または最近の落石・崩落によるものなのかは分かりません。おいたわしいの言葉しかございません。細かいところまで行き届いた彫りが立派で、優しいお顔が印象に残った仏様です。

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 幸いにも大岩の上に立つお弘法様は無事でした。崖から離れていて難を逃れたのでしょう。大きな像が小高い場所に立っていますので、実物以上に立派に見えます。付近に数ある石造物の中でも、こちらは特別の台座をこしらえて安置されています。よほど肝煎りのものであったと思われます。足元には「修行大師 建設者 清原忠〇郎」(○は判読不能)の銘板がありました。

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 すぐそばに立って見上げますと、なかなかの迫力です。慈悲深そうなお顔、お数珠の表現、やや角ばった衣紋など個性的で、一度拝見したら忘れられません。

 なお、このお弘法様の近くに昔、立派な宝篋印塔があったそうです。しかし大昔に近隣の方の酒代に消えてしまったそうで、今や所在不明の状態であります。昔は往々にしてこのようなことが起きていたようです。

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 文化財指定されている岩屋堂板碑も破損し、半ばで折れて上部のみ安置されている状態でした。もともと破損の痕跡があって、半ばを補修して立っていたようです。落石か何かの影響で転倒し、その部分がまた折れてしまったものと思われます。下部はどこかに落ちてしまったのか砕けてしまったのか、それらしい部材を見つけることができませんでした。

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 岩屋堂の石造物について、今後何か情報があれば都度補足します。

 

11 城園の堂様

 岩屋堂から筧側に下ることはできない状況でしたのでもと来た道を引き返して、一旦車まで戻りました。車に乗って筧隧道を抜けて、筧部落を抜けます。写真はありませんが道路右側に関神社があります。なお、大字名は掛樋、部落名は筧で、用字が異なるだけで読みも意味も同じです。

 道なりに行き、溝部商店の交叉点を右折して県道651号を西武蔵方面に進むと、ほどなく道路右側に歳神社がございます(写真なし)。鳥居の横の空き地に駐車してお参りをしたら、ここから先は適当な駐車場所がないので歩いて行きます。県道を道なりに行き、左折して軽自動車がぎりぎりの幅の簡易舗装の農道を進みます。この先の沈み橋は、軽自動車ならどうにか渡れるかもしれませんが脱輪が心配です(※)。徒歩なら安心して渡れます。道なりに田んぼの中を行けば城園(じょうぞの)で、民家が1軒だけ残っています。その民家の右側に堂様がございます。遠目にも分かりますので、特に迷うようなことはないと思います。 ※どうしても車で行きたい場合にはこの沈み橋を渡らずに、長野部落から迂回すると安全です。

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 参道石段の下に説明板がありました。内容を転記します。※印は私が補いました。

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奈多行幸会道

「奈多行幸会(なだぎょこうえ)」とは

 八幡総本宮宇佐神宮では、古来6年毎(卯歳・酉歳)に八幡神の御験(みしるし・御神体)である薦枕を新調し、摂社(田笛社・鷹居社・郡瀬(ごうせ)社・泉社・乙咩(おとめ)社・大根川社・妻垣社・小山田社など)を巡幸して宇佐本宮に安置される行事=行幸会が行われた。
 それに伴って、旧御験は宇佐神宮から4~5泊の日程で高田・田染・田原・弁分(べんぶ ※朝来地区)・瀬戸田(せどた ※西安岐地区)の各地を巡り、奈多宮(※杵築市)に収められ、奈多宮に置かれていた旧来の御験は沖合の御机島(いつくしま ※一般に市杵島の用字が通用しています)に移され、そこから海に放たれた(竜宮に遷御した)と伝えられる。
 以上のように、慎重された御験が宇佐本宮に奉納され、旧御験が奈多宮に遷御される儀式、特に宇佐宮から奈多宮に移される儀式が「奈多行幸会」と呼ばれている。

梅園ウォーキング愛好会

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奈多行幸会道/油原(※ゆはる)古道
蓮池―菱池―鰻淵―城園お堂様―宇佐田―関神社

城園お堂様
明和4丁亥歳(1767年)城園寺よりこの地に移転
城園寺は清巌寺の末寺
城園寺の所在の地は不明

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 下の説明板にある「油原古道」は、堂様の左手から渓流に沿うて下油原(朝来地区)に登る道です。この道は廃道ですが、鰻渕付近には川の中を通る石畳がまだ残っているそうです。もう少し暖かくなってきたら探訪してみたいと思っています。また、清巌寺とは夷谷は祇舎谷不動の清巌寺なのでしょうか。もしそうであれば香々地町「夷谷の名所」シリーズで紹介しましたので、ご覧になってください。

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 石段の状態がよく、周囲の整備も行き届いています。堂様は施錠されていましたが、坪にたくさんの石造物があり自由にお参り・見学できます。興味深い文化財が数多うございましたので、今から詳しく紹介します。

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 松が明けないうちに訪れたこともあってか、新しいシメがかかっていました。山裾にたくさんの石塔、その奥の龕には庚申塔などが並んでいます。

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 国東塔は素朴な造形です。このようにたくさん並んでいますので壮観です。後家合わせかなと思えるようなものもありましたが、立派に祭壇をこしらえてきちんとお祀りされています。特に右から2番目のものが印象に残りました。

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 茶壺型の塔身と蓮台がよう合うています。返り花以下は傷みが激しく、全体的に軸がぶれ気味のように感じられました。地震などで崩れず、今後も永く残ってほしいと思います。

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 龕の中にも2基の庚申塔、お弘法様など、いろいろと並んでいます。『くにさき史談』で庚申塔の写真のみ見たことがありました。こうした実物を拝見しまして、写真で見る以上に立派なものでありますうえに多種多様な石造物と一緒に並んでいることに感激いたしました。

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 こちらの仏様は厚肉彫りの体躯に対して、腕や持ち物はレリーフ状に表現しています。表情や細かい部分の表現、蓮台を伴う台座など全体的によう整い、なかなかの秀作であると感じました。優しそうなお顔を拝見いたしますと、拝む者の心が救われるような気がいたします。

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青面金剛4臂、2童子、3鶏、2猿

 左の庚申塔は状態がよくなくて、主尊以外の姿はうっすらと残る程度にまで風化が進んでしまっています。主尊は頭頂部に小さな髷をこしらえたような髪型で、目を吊り上げで口をヘの字に、へそを曲げたような表情に見えます。持ち物は羂索以外はほとんど消えてしまっています。斜めに走った亀裂から下はさらに傷みがひどく、童子は輪郭を残すのみ、猿と鶏に至っては目を凝らしてその痕跡がようやっと分かる程度でした。猿が何匹か数えるのにも難渋しましたが、おそらく3匹と思われます。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、1鶏、4夜叉、邪鬼、ショケラ、唐獅子

 この塔の実物を拝見することができてよかったと心から思いました。近隣在郷で稀に見る豪勢さでございます。微に入り細に入ったデザインの妙、細かい彫り。しかも塔身のみならで笠や台座も、ほかには見られない工夫がございます。これをこしらえた石工さんの、一世一代の力作でありましょう。これほどのものであれば費用も嵩んだのではないでしょうか。

 まず笠を見てみます。懸魚を伴い、垂木も深彫りにて実物そっくりの表現です。しかも垂木には赤い彩色が施されています!庚申塔の笠でこれほど精巧なつくりのものは、なかなか見かけません。主尊は大きな目をぎょろりと剥いて、鼻や口も含めて迫力満点のお顔でございます。額の中央は、これは3つ眼なのか、または皺なのか?判断に迷いますけれど、いずれにせよお顔の迫力に一役買うております。むっちりとした腕が複雑に重なり、弓の弦などはごく細く、体回りは非の打ち所のない素晴らしい彫りです。ショケラは振袖さんで、表情もしっかり残っています。童子はお芥子の髪型で、左の童子は3頭身という頭の大きさ、右の童子は何とも言えない珍妙な表情、それぞれに愛嬌がありまして主尊との対比の妙がございます。

 主尊に踏まれた邪鬼は我関せずの表情にてこれ見よがしに大口を開け、その真下では3匹の猿が互い違いに横向きで、ちょうど夜叉に囲まれた谷間にて曲馬団の演技のように折り重なっているのも面白いではありませんか。4夜叉まで刻んだためにスペースが少なくて強引に押し込んだ感もありますけれども、もしそうであっても却って効果的であるといえましょう。いちばん下の猿の頭の前には、邪鬼の足元とのごく狭い隙間に鶏がただ1羽だけ刻まれています。もう1羽どこかにいないかと思いしげしげと眺めましたが、見つけられませんでした。

 そして、台座には唐獅子と牡丹が大きく彫られています。右端の突起が獅子の花で、横向きに大きな顔が見えます。その背中から後ろには牡丹の花で、ちょうど獅子の体と重なるように配されていますのでほんに賑やかで、豪華な感じがするのです。これは素晴らしい!本匠村は番ノ原部落で、塔身に獅子の刻まれている庚申塔を見たことがあります。ところが国東半島では、獅子を伴うものは稀です。その意味で、こちらの塔は台座ではありますけれども、獅子が彫られているという点だけ見ても貴重なものといえましょう。

 

今回は以上です。大字掛樋のうち向野部落上の石造物も探訪しましたが、予想外に記事が長くなってしまいましたので、次回に回します。