大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝来の名所めぐり その2(安岐町)

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 今回は大字朝来の一部をめぐります。適当な写真がないところが多いので不十分な内容になってしまいますが、ひとまず飛び飛びに紹介していきます。

 

5 油原の蓮池

 山浦大橋から朝来野川に沿うて、2車線の市道を進みます。右側1つ目の分岐を鋭角に右折して坂道を上りつめて道が平坦になったところの左側にある池を蓮池と申します(冒頭の写真)。この池は灌漑用の溜池ですがほんに風光明美で、特に花の時季の朝の探訪をお勧めいたします。昔は近隣在郷に知られた名所で、朝来小学校や西武蔵小学校の児童が遠足に訪れたりしたそうです。時代の移り変わりで長らく等閑視されてきたきらいがありますが、近年ロングトレイルのチェックポイントとして標柱が立てられ、再びその名が知られるようになってきました。

 この辺りが油原(ゆはる)部落で、ちょうど朝来の谷と西武蔵の谷の中間、丘陵上に位置します。油原は上組と下組に分かれて、今では上組に数軒を残すのみとなり下組は全くもって廃村の様相を呈しておりますが、大昔は交通の要衝でした。それと申しますのも、西安岐の庚申塔シリーズで申しましたとおり大字掛樋は城園(じょうぞの)部落から渓谷沿いに古い道があって、油原を経由して弁分(べんぶ)に抜けていたのです。その道は今でも徒歩で通ることができます。朝来から安岐に下る近道として、戦後しばらくまでは通る人があったようです。

 

6 油原下組の石造物

 蓮池のところの十字路を右折して、昔の道に沿うて油原の下組を目指します。左に山神社を見送って先に進むとアスファルト舗装が途切れ、自動車は行き止まりになります(歩いて直進すれば渓流に沿うて城園に下ることができます)。舗装が途切れるところが広くなっているのでそこに車をとめて、いま来た道を歩いて少し戻ります。

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 道路右側の、この道を歩いて上がります。この先には数軒の廃屋や耕作放棄地があり、以前は自動車も上がったと思われますが現状ではとても通れません。右を見ながら上ると石塔が2基立っています。

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 立派な庚申塔百万遍供養塔が立っていました。庚申塔だけでなく、まさかこんなに立派な百万遍供養塔がすぐ横に立っているとは思いもよらなかったものですから、その感激も一入でございます。

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奉〇光明真言(○は判読不能
百万遍供養塔
宝暦十二年三月吉日
矢野庄兵衛
同 儀助

 百万遍供養塔というものをあまり見かけた覚えがありません。百万遍と聞いてすぐ思い出すのが、以前西方寺の名所シリーズでも言及しましたが百万遍の数珠繰りです。今では廃ってしまいましたが、昔は国東半島の多くの部落に百万遍の講があって、年に数回座元(通常は家ずりで交代していきます)に集まって数珠繰りをして後座を楽しんでいました。おそらく油原下組でも、同様の講があったのでしょう。

 この塔は入母屋の笠が立派で、軒口に懸魚があるほかその上には紋が刻まれています。塔身下部にはお坊さんが刻まれていて、その優しそうなお顔がほんによいと思います。こういった供養塔の類の塔身に像を刻出しているのは珍しいのではないでしょうか。これほど立派な塔ですが、蔦などに覆われてしまっていましたので、粗末にならないようにできる範囲で除去しました。

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青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏、龍!

 この塔はほかには見られない特徴がございます。笠の大きな唐破風に、龍がとぐろを巻いているではありませんか。はじめは蛇かなと思うたのですが、明らかに脚らしきものが刻まれているのと、頭に角が生えていますし、顔も蛇とはほど遠く眉毛なども刻まれていることから、龍であると判断いたしました。どのような意図で龍を配したのか分かりませんが、とてもおもしろい工夫であると感じます。また、笠のすぐ下、日月の註中間に鏃のような文様が見られます。これもどのような意図があるのか分かりません。

 主尊はポンパドールのような髪型で、細い目を吊り上げて口をヘの字に曲げ、さても恐ろしげな風貌でございます。右手で、異様に太く長い棒を持っているように見えます。この棒の上3分の1の辺りに短い横棒が2本刻まれていて、はじめはこれが手なのかと思いましたけれども、ようよう見ますとこれは手ではなくてどうも鍔のようです。刀を杖のように、逆さまに持っているのではないでしょうか。衣紋の下部、鱗模様のところの脇に渦を巻いているのは、羂索か蛇か判断に迷うところです。脚が異様なるガニ股で寸詰まりになっており、全体としてややアンバランスな立ち姿ではありますけれども、非常に存在感のある主尊であります。

 下の枠の中では振袖さんの童子が行儀よう合掌しておりますのも、主尊との対比がおもしろいではありませんか。その内側ではおうこをかたげた猿が仲よう向かい合うて、これがちょうど左右対称にて多分に画一的なデザインと申しますか、めいめいに生き生きとした感じというよりはこの2匹が対になって、家内円満とか夫婦和合などを象徴するデザインとしての一体感がありまして、作者の美意識が感じられます。大きな鶏の上に童子が立っているように見えますのも微笑ましく、この円満な下の枠の中を、上の枠の主尊が守っているかのようです。型にはまらない表現の工夫が感じられる、秀作といえましょう。

 

7 釜ヶ迫の石造物

 油原から朝来野側沿いの市道まで引き返して、弁分方面に進みます。右側に釜ヶ迫国東塔の看板がある角を右折して坂道を上り、一つ目の角を右にとります。行き止まりの民家の手前、路肩に邪魔にならないように駐車したら、左の斜面の上に国東塔があります。国東塔以外にもたくさんの石造物がありますので、斜面を上がって見学することをお勧めします。

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 やや軸がぶれていますけれども、欠損部位がなく完璧な姿を残す立派な国東塔です。特に請花・反花が大きく、しかも花弁の曲線が写実的で、さても優雅な雰囲気が感じられます。首部に穴が見えます。これは、納経のためのものです。

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 説明板の内容を転記します。

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国指定重要文化財(昭和29年3月29日)
宝塔(釜ヶ迫国東塔)

所在地 国東市安岐町大字朝来字宮原
所有者 朝渓吉生
製作年代 建武2年(1335)乙亥2月12日

 国東半島独特の特徴をもつ石造物が「国東塔」と呼ばれるものである。この国東塔は、一種の宝塔であり、大正7年(1916)天沼俊一博士による国東塔と名づけられた。
 一般の宝塔との相違は、
一 当身の上部に空洞を設けており、ここには経文、毛髪等を納入したものである
一 塔身に蓮華座がつき、請花・反花とがあり、どちらかをつけたもの、両方をつけたものとがある
一 相輪に火焔宝珠がつく
一 基壇が二重或いは三重になっている
等である。
 国東塔は鎌倉時代中期までは、如法経を奉納し、伽藍安穏仏法興隆を祈念するため建立されたが、鎌倉時代末期に至っては武士による国土安穏、武家一族の安穏の目的で建立されるようになったという。
 この釜ヶ迫国東塔は塔身の銘文から建武2年(1335)造立されているが、国東塔が隆盛を極めるのは南北朝時代に入ってからのことである。
 基壇は二重で、請花座は縦線を入れた単弁で中間の帯とともに一石で造っている。帯には連珠紋を彫っており、これは釜ヶ迫国東塔独自のもので他に例を見ない。また、塔身には四方に四仏の梵字が彫ってあり、この配列は国東半島はもとより県下に点在する。

銘文は―
 大願主
  紀友房 同守房
  同中子 同乙子
 キリーク(弥陀)
  右為慈父慈母所
  奉造立如件
  建武二年乙亥二月十二日
   各敬白

国東市安岐町教育委員会

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 まさか700年近くも前の造立であるとは思いもよらなかったものですから、この説明板を読んで吃驚いたしました。国指定でありますから管理が行き届き、適宜修繕等なされてきたものとはいえ、とても600年以上が経っているようには見えない状態の良さです。

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 すぐ近くの斜面には、仏様を数体彫り出した石板が安置されていました。

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 特にこの石板を見て気付いたのが、ぐるりが不整形であるという点です。或いは、これらは磨崖仏の断石なのではないでしょうか。近隣の地形の改変により、仏様が粗末にならないように当該箇所のみ切り出してこちらに安置した可能性があります。

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 付近にはたくさんの五輪塔や宝塔、宝篋印塔等の石塔が残っています。これらは古い墓碑なのかもしれません。五輪塔は、壊れているものもありますけれどもなかなかよい形をしています。

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 この一角は傷みの進んだ塔が目立ち、特に宝篋印塔に至っては完体ではありません。後家合わせと思われるものもあります。年代は存じ上げませんが、おそらく国東塔よりは新しいものでしょう。

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 国東塔のところから左の方に小道を辿ると、少し離れたところにも五輪塔が立っていました。この道を行くとどこに出るのかは未確認です。

 

8 岩尾の板碑

 国東塔から下の市道に返って、少し行けば弁分にて県道405号に合流します。道なりに進み旧朝来支所手前、バス停のある角を鋭角に右折して西武蔵に抜ける道を上っていきます。

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 少し上ると、左側に小さなお稲荷さんがあります。そのすぐ先、左側の路側帯が広くなっているところに車を停めたら来た道を歩いて戻ります。お稲荷さんにお参りをして、写真のところから右に細道を登ります(奥の方に写っているなだらかな坂道ではなく、手前の側溝に蓋のしてあるところから直角に折れて入る急な坂道です)。道なりに行けば板碑のすぐそばまで寄ることができます。

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 こちらは、見学を目的として訪れたというより、たまたま通りがかりに道路からかすかに板碑らしきものが見えたので立ち寄ったのですけれども、思いの外立派なものであったので驚きました。全体的にどっしりと重厚感がありますし、梵字の彫り口の力強さ、さらに墨もよう残っています。

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 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財(昭和59年3月30日指定)
岩尾板碑

所在 大分県国東市安岐町大字朝来
所有者 岩尾組
年代 元亨4年(1324)

 碑文より紀という姓がみられるが、古代郡司郷司の系脈を引く先住土着の有力名主だったと思われる。また、元亨4年前後、この安岐郷では、志賀泰朝、朝来野弥次郎、安岐次郎安吉などによる大宮司領横領の紛争が頻発している。
 額部は碑身から8cm前に出ており、碑身に大きく種子が薬研彫りされている。石材は凝灰岩で、時宗関係の板碑では最も古い。

(総高168cm、幅87cm)

<右>
         紀近定
種子(観音) 同願主
         僧義覚

<中>
種子(弥陀) 元亨二二年七月十◇日

<左>
種子(勢至) 巳上
       大願主末弘
平成5年12月
 国東市安岐町教育員会

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 一点補足しますと、上記のうち二二年と申しますのは四年の意で、四が「死」に通ずるのを忌んでこのように表記したものです。

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 あと3年で造立700年です。人通りのある道のすぐそばに、700年も前の石造物が残っていて気軽に見学できるのですから、これは見学しないわけにはいきません。

 

今回は以上です。弁分の探訪が不十分な状態ですので、近いうちに再訪したいと考えています。