大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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来浦の名所めぐり その3(国東町)

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 来浦地区の名所シリーズを久しぶりに書きます。今回はすべて、大字来浦の名所です。前回平原(ひらばる)の庚申塔まで紹介しました。本来なら今回は猿坊の堂様と庚申塔からスタートしたいのですが、適当な写真がないので飛ばして上園の庚申塔からとします。

 

12 上園の庚申塔

 オレンジロードと県道544号との交叉点を起点とします。この交叉点から県道を岩戸寺方面に進み、右に市杵島神社の鳥居を見送ります。そこから右側のカーブミラーを数えて(左側は無視)、1つ目が立っている角を右折します。上園部落を抜けて道なりに上っていけば、元キウイ畑であったところに大きな砂防ダムが造成されています。ダムの堤に沿うて右カーブしていけば、ほどなく左上に庚申塔が見えます。

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 この階段が目印になって、すぐ分かります。いま通ってきた道路は椎茸の作業などでときどき車が通りますので、邪魔にならないように駐車する必要があります。

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青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏

 上園部落は庚申様のお祭りを今もされているそうです。それで、塔の周囲も整備が行き届いています。コンクリで舗装し、しかも基壇を別にこしらえた上にもとの台座を安置してありますから、塔自体の高さにも増して立派に見えてまいります。

 この塔は、何と申しましても笠の形状が目を引きます。特に破風の形状が庚申塔のそれとしては風変りです。普通庚申塔の笠の破風と申しますと千鳥破風かせいぜい唐破風でありますのものを、このような形状はなかなか見かけません。装飾は少ないものの、優美な形状が見事ではありませんか。そして塔身にも特徴があります。普通、このように主尊・猿・鶏を3段に分けて配している塔では、主尊の下部に枠線が入り上下が2区画に分かれていることが多うございます。それがこちらでは上下の境界線どころかぐるりの縁取りまでも省いて、まったく平らな石面から諸像のみが浮き上がるように半肉彫りでこしらえてあるのです。これはシンプルな形状のようで、却って制作難度が上昇するのではないかと推察いたします。

 主尊は特徴的な風貌で、細い脚を揃えて矩形の台座の上に立っています。赤い彩色がほのかに残ります。両脇に控える童子は左右で体型が異なり、特に細身の童子については裳裾を優雅に広げて気品のある立姿でございます。猿が向かい合うて砂遊びをするように見えるのもおもしろいし、鶏の姿も微笑ましく、いっぺんにこの塔が好きになりました。台座には8名の方のお名前が刻まれています。以前、江戸時代以前の塔であっても造立者として苗字のある名前が連名になっている例をいくつか紹介しましたが、こちらは苗字は名乗らず名前のみです。

 横に立っている小さな庚申塔には、梵字や銘の墨書が僅かに残っていました。

 この塔の下から林道を直進すれば宮本の八坂神社に出ますし、枝道を下れば次に紹介する光明寺庚申塔大聖寺に至ります。しかし舗装が悪いうえに道幅が狭く離合困難ですので、来た道を後戻って一旦県道に下る方がよいでしょう。

 

13 光明寺庚申塔

 県道に下ったらオレンジロードまで戻ります。交叉点の直前、左側の路肩が広くなっているところに車を停めます。ここから少し距離がありますが、これより先には駐車できそうな場所がありません。交叉点を左折してオレンジロードを少し進み、左側に「カーブ多し」の注意標識が立っているところを右折します。1軒の民家を右に見送りいよいよ山道の様相を呈してきたら、左側1つ目の分岐を左折します。簡易舗装の道を進んでいき、右カーブした先で右に折り返すように今来た道の上の段を少し後戻ると、左方向の斜面に踏み分け道があります。それを上がれば大岩のねきに庚申塔が立っています(下の道路からは見えません)。道が不明瞭になっていますが、特に危ない場所はないので山裾を適当に探せば見つかると思います。探訪時には1度も引き返すことなく行き当たり、その首尾のよさに庚申様のお導きのような気がしてまいりました。

 なお、光明寺と申しますのはこの辺りの字で、県道沿いにございますお寺の名前に由来する地名です。

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 どうしてこんなに不安定なところに安置したのかと呆気にとられてしまいました。何かの弾みで転落するのではないかと心配になります。

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青面金剛6臂、3猿、2童子

 この塔は向かって右側のへりを僅かに打ち欠いているほかは、ほぼ完璧な状態を保っています。特に主尊の細かい彫りが、まるで昨日こしらえたかのようによう残っておりますことに感嘆いたしました。瑞雲の下に面をとって深く彫りくぼめ、主尊を見事な立体感で半肉彫りに仕上げてあります。横の枠がないうえに童子も伴わず、碑面いっぱいに配した主尊の存在感たるや見事なものです。しかも頭身比、指の握り、脚の様子などほんに写実的な表現で、今にも碑面から浮き出てきそうなほど生き生きとしているのが素晴らしいではありませんか。むっちりとした目鼻立ち、羂索や衣紋のカーブなどもごく自然です。神々しさが感じられる立ち姿には、均整の美が感じられます。

 右から見ざる言わざる聞かざるの猿は、丁寧に顔を赤く着色しています。鶏の尾羽のたっぷりとした感じのカーブもようございます。これらは主尊に対してことさらに小さく、それがために可愛らしさを感じますし、主尊の存在感がいよいよ引き立ってまいります。台座には10名の方のお名前がずらりと刻まれています。残念ながらこの部分は傷みが激しく、全員の名前を読み取ることは叶いませんでした。

 

14 大聖寺の石造物

 光明寺庚申塔から県道に返って、車で少し下ります。ほどなく「天台宗治地山大聖寺」の大きな石柱が立っていますので、その角を左折して砂利道を行けば広い駐車場があります。そこから参道の石段が伸びています。その石段の上がり端を右に行けば立派な庚申塔がございます。見落とさないように気を付けてください。

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 参道からの道がやや荒れ気味ですが、距離は知れているので特に困ることはないと思います。灯籠の竿には「灮明台」とあります(台は旧字)。この「灮」の字は「光」の本字で、灯籠ではあまり見かけない文字のような気がします(私が見落としていただけかもしれませんが)。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 まず笠を見ますと入母屋になっていて、しかも隅が反っているのがなかなか格好ようございまして、軒口の傷みが惜しまれます。日月・瑞雲は左右対称の形状にて、日輪に赤い彩色を施して両者を区別しています。よう見ますと月輪も、その周囲と外向きに跳ね出た部分のみ赤く着色しています。これは日輪・月輪それぞれの光でもって瑞雲が照らされている様子を象徴的に表現してあるのでしょう。瑞雲は見事なお花模様です。日月・瑞雲の部分の華やかな表現の素晴らしさに感激いたしました。

 主尊は法令線の目立つ厳めしいお顔立ちで、山高の三角帽がよう似合うています。お相撲さんのように肥った体型で、衣紋の下部が化粧まわしのように見えてまいります。外側に高く広げた腕がやや長すぎるような気がしますけれども、この部分も含めて力強い感じがよう出ています。童子は振袖さんで、下げ髪を外向きにクルリと撥ね出しているのが可愛らしいではありませんか。鶏と猿はめいめいの部屋の中にやや窮屈そうに収まっていて、密着した猿の腕と脚が菱形の連続模様のようになっているのもよいと思います。

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 長く続く参道の石段の両脇には、杉が大きく育っています。この参道の半ばにて睨みを効かせる仁王像は、片足に体重をかけてさても勇ましげな立ち姿でありますものの、寸胴型の体型にてなんとなく愛嬌が感じられます。

 石段を登って立派な楼門をくぐれば、整備の行き届いた気持ちの良い境内に着きます。車道経由で車で境内まで上がることもできますが、たいへん狭いので通行はお勧めできません。下の庚申塔や仁王像を見学するためにも、石段経由で参拝した方がよいでしょう。本堂にお参りをしたら、左の方に行きますと庚申塔や日待供養塔がございます。

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 このように、やや高い石垣の上に並んでいます。下からでも十分に見えますが、もし近寄りたい場合は簡単に上がることができます。

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 銘を見ますと「日待塔」か「月待塔」か、判断に迷います。はじめは「日」の字に見えましたが、右の縦角の下が撥ねているので「月」のような気もしました。けれども横画の間隔が広いので、おそらく「日」でありましょう。国東半島から速見地方にかけて、お日待ちの行事がわりと近年まで残っていたところもありましたが、今は滅多に見かけません。または庚申様のお祭りと融合したところもあると思います。

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青面金剛4臂、3猿、2童子

 大聖寺には都合3基の庚申塔がございますが、中でも特に見学していただきたいのがこちらの塔です。まず笠の重厚なことといったらどうでしょう。破風の二重曲線や懸魚、さらに垂木の丁寧な表現など、近隣ではなかなか滅多に見かけない豪勢さでございます。

 そして、何といっても主尊の格好のよさは、近隣在郷でも指折りでございまして、まるで木彫り細工のような細やかさです。円弧をなす火焔輪光もあいまって雷様のような雰囲気が感じられ、ちょうど左手に持った宝珠も雷様の太鼓のようではありませんか。また、上背がありながらもヒョロリとした雰囲気ではなく、肩のあたりのがっちりとした力強さ、自身満々な表情など、向かうところ敵なしといったところです。衣紋の下部の複雑なひだ、「あれ天人の羽衣は…」と唄いたくなるような流麗な曲線など、何から何まで行き届いた表現は完璧といえましょう。

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青面金剛1名4臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼

 こちらも見どころの多い塔です。まず笠を見ますと、破風のところに「梅に鶯」の絵柄が浮き彫りになっているではありませんか。これは鏝絵のようなつもりで表現したるものと思われます。ほんに風流で、華やかな感じがいたします。垂木はごく形式的で、正面のみであり、隣の塔の笠にくらべるといくぶん簡略化された表現になっています。

 碑面の上部、斜めに彫りくぼめたところに瑞雲を配したことで、この部分の角ばった雰囲気が薄まっているのも見逃せません。よう工夫された配置であると言えましょう。主尊は前回紹介しました向鍛冶の庚申塔にそっくりで、腕の形状が特徴的です。じっと目を閉じて悟りを極めるような表情には、優しそうな雰囲気が感じられます。主尊の真下は鬼のお面か邪鬼かで迷いましたけれども、お面の上に立つというのも違和感がありますから一応、邪鬼と判断いたしました。直川村などで、顔のみをもって表現した邪鬼をいくつも見ました。こちらもその範疇でありましょう。

 童子は神妙な面持ちで、両腕を組んで立っています。猿と鶏は帯状の狭い区域に仲よう並び、この部分の表現がまたようございます。それと申しますのも、この種の帯状に猿と鶏が並ぶものは得てして薄肉の彫りでありますものを、こちらは厚肉彫りで、腕や脚の様子なども違和感がありませんで、ほんに生き生きとした感じがするのです。隣の塔のように均整がとれているわけではありませんけれども、遊び心が感じられる風流な塔で、秀作といえましょう。

 

15 旧大聖寺跡の石塔群

 大聖寺から県道に返って、僅かに下れば右側の田んぼの中に、大木のかげに五輪塔が密集しているのが見えます(冒頭の写真)。すぐそばに駐車場が整備されていますので、簡単に訪れることができます。こちらは、旧の大聖寺の跡地です。

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 説明板の内容を転記します。

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大聖寺跡・五輪塔

 大聖寺は延文3年(1358)の建立 寺中には南北朝から室町時代にかけての宝塔・宝篋印塔・各種の五輪塔200あまりがある。五輪塔群は鎌倉・室町時代に活躍した北浦辺衆の墓塔群だと思われる。
 伝承によると延文年中、鎌倉から菊池氏討伐のため筑後に派遣された父二階堂左京之進を慕い来浦にたどりついた六丸とその母は、ここで筑後梨地ヶ原の戦いで父は討死したことを聞き、以後この地の田原親宏の保護のもと、一族郎党とともに土着したのち親宏に滅ぼされた。
 この悲劇の主人公六丸の墓もここにある。なお、この位牌は大聖寺にある。

国東町教育委員会

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 一点補足いたしますと、こちらの五輪塔や宝塔、宝篋印塔などははじめからこの場所に密集していたのではなくて、来浦川沿いに点在していたものを河川改修や圃場整備その他の際にこちらに寄せて安置したものであるとのことです。

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 壊れている塔がほとんどなく、良好な状態を保っています。こちらはほんに気持ちのよいところで、春の彼岸花や若葉、夏になればカンナが咲き蝉しぐれの青田を見晴らし、秋は紅葉、冬は青天井また雪景色と四季折々の景観が見事です。来浦地区を探訪される際には必ず目に入る名所ですから、ぜひ訪れてみてください。

○ 来浦小唄について

 戦前に作られた「来浦小唄」という新小唄をここに紹介します。これは、昭和3年頃に二三吉や佐藤千夜子のレコードで人気を呼んでいた「龍峡小唄」(長野県の新小唄)の替唄です。この唄は文句がほのぼのとしてなかなかよいし、四季折々の風情がありますのに、すっかり忘れられているのが惜しまれます。龍峡小唄を御存じの方は来浦地区を探訪される際にちょっと口ずさんでみると、いよいよ興趣が増してくることでしょう。

 

「来浦小唄」

〽アー 沖の島から夜が明け初めて
 ここは来浦 町に平和の 風が吹くヨ
 ハヨイトヨイトヨイトサノ ヤレコノセ

〽アー 両子・文珠に夕日が落ちて
 町も夕霧 沖の島陰 灯が見えるヨ

〽アー 沖にちらほら灯影が見える
 漁りする灯か さては灯台 島の灯かヨ

〽アー 金比羅鼻から瀬戸内見れば
 島は薄墨 通う白帆に 白帆に浮くヨ

〽アー 来浦川辺に飛び交う蛍
 道の小草も 闇に黄金の 花が咲くヨ

〽アー 水が届けた深山の紅葉
 秋の深さを 告げに来浦 来の浜ヨ

〽アー 来浦よいとこ稲穂は黄金
 繭は白金 お国自慢の 青莚ヨ

〽アー 冬が来たぞえ来浦町に
 来浦富士も 雪の薄化粧 あで姿ヨ

〽アー 嶺の淡雪あとなく解けて
 春の風吹きゃ 金比羅岬に 花が咲くヨ

〽アー 鎮守大杉八坂の宮と
 古城城址 これが名物 見てござれヨ

 

今回は以上です。記事中に庚申塔が多くなると文章が長くなってしまいまして、更新に時間がかかりました。来浦シリーズも続けてまいりますが、次はどこか別の場所の短い記事を少し挿もうかなと考えています。