大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その6(豊後高田市)

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 田染シリーズの続きです。今回から数回に分けて、大字蕗をめぐります。まず、富貴寺(ふきじ)周辺の文化財を探訪いたします。このブログではあまりにも有名な名所は簡単な紹介で済ませてきましたが、富貴寺には素晴らしい石造物がたくさんありますので、少し詳しく紹介したいと思います。

 

28 谷ノ坊の仁王像

 標識がたくさん立っていますので、富貴寺までの道案内は省略します。駐車場に車を停めますと、参道入口付近の簡単な御室の中に小型の仁王像が見えます。こちらは、旧谷ノ坊から近年移したものです。谷ノ坊跡は現在民家になっておりまして、こちらの仁王像はその民家の裏手に所在しておりましたので見落としやすく、よほど興味関心のある方しか見学されることもなかったようです。それが、道路端に移されましたので簡単に見学できるようになりました。

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 吽形の髷と左足、阿形の右腕が欠損しているのが惜しまれます。けれども、その他の部分は比較的よう残っています。小型ながらずんぐりとした体形にて力強そうな感じがよう出ていますし、なんとなく愛嬌もあって、とても親しみやすい仁王さんでございます。

 

29 富貴寺参道下の石造物

 富貴寺の参道下に、庚申塔、対の十王石殿、石幢などの石造文化財が並んでいます。これらは、旧地蔵堂や富貴社にあったものを移したものです。地蔵堂は廃絶しており、元の所在地を存じませんが愛宕地蔵磨崖仏のある堀口地蔵堂とは別の地蔵堂です。地蔵堂の廃絶や、神仏分離等の影響によりこちらに移されたものと思われます。用地がきちんとしていますので文化財が粗末にならずに済みますし、同一地域内の移動でありますから地域の方の暮らしから離れてしまうこともなく、しかも容易に見学できますのでなによりでございました。なお、堀口地蔵堂と富貴社については別の記事で後日紹介します。

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 庚申塔の隣の自然石は銘が分からず、種別が分かりませんでした。その隣はお不動さんです。笠がひどく傷んでいるのが惜しまれますが、碑面の状態は良好です。

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青面金剛4臂、1猿、1鶏

 特に説明板もないので富貴寺にお参りされる方の多くがこの前を素通りされていきますが、ちょっと足をとめてぜひ見学して頂きたい庚申塔です。まず線彫の日月・瑞雲は左右の対称性を崩してお花模様のように表現してありますので、華やかな感じがして、なかなか洒落ています。丸顔の主尊は衣紋の複雑なしわを丁寧に表現してあるほか、腕の配置やがに股で地面を踏みしめる脚に、勇ましい雰囲気がよう出ています。田染地区の庚申塔の特徴として二童子を伴わないものが甚だ多うございますが、こちらなど童子がいないことに気付かないほどに主尊の存在感があるではありませんか。なお、主尊の足元の複雑な模様は何を表現しているのか分かりませんでした。

 下の枠の中では、大きな猿がただ1匹、横を向いて壁になんかかるようにしゃがみこんでいます。その隣には大きな鶏がただ1羽。この鶏は、地面に立つのではなく何かの台の上に立っているのがポイントです。そうすることで猿と鶏の顔の高さが揃うて、ほんに仲良う向かい合うている様子を上手に表現できています。それで猿と鶏が仲の良い友達のような、微笑ましい雰囲気が感じられます。

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 石幢もかなりの完成度でございます。殊に笠の形がよくて、軒口の反り方がいい塩梅です。大げさな感じがなくて、格好のよさが際立ちます。しかも龕部の六地蔵さんの彫りも丁寧で、その境目の枠が二重に縁取りをなしている点など丁寧な表現ですし、中台の蓮の花びらもふっくらとして、美しいではありませんか。保存状態も良好です。

 その後ろにございます十王石殿は、参道の左右に2基ございます。長手の面に3体、側面に2体、4面で都合10体の十王様を刻んでいます。像の彫りがすこぶる丁寧で状態がよいほか、入母屋の笠も二重垂木を丁寧に表現しており、微に入り細に入った優秀作といえましょう。

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 反対側の石殿です。豪勢な笠に注目してください。

 

30 富貴寺

 いよいよ富貴寺境内へとまいります。こちらは晩秋、銀杏の散り敷く頃が特にお勧めです。または、12月にライトアップされるとき、夜にお参りをするのもよいでしょう。特に雪が積もっていると、ほんに幻想的な雰囲気を楽しむことができます。けれども石造物の見学をされる場合は、昼のほうがよさそうです。

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 この立派な仁王門は昭和50年代に建てられたもので、それ以前は石段の両脇に仁王像が雨ざらしで立っていました。しかし、江戸時代には同じ場所に旧の仁王門が立っていたそうです。

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 天衣が破損することもなく、良好な状態を保っています。大きな鼻の目立つ風貌、やや斜めに立つ姿など、勇ましい感じがよう出ているではありませんか。衣紋の表現も含めて、細かいところまで工夫された表現です。

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 吽形は黒目の墨がよう残ります。眼と眉が近く、しかも鼻筋が通っていて、役者ごかしの端正なお顔立ちにて阿形とはまた違った印象を受けました。

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 こちらが国宝に指定されている大堂でございます。何年か前に撮った写真を載せました。この大堂には、昔は鞘堂(覆屋)が設けられていたものを、戦時中の爆撃で破損し撤去されたとのことです。大堂もその影響で傷んでいたのですが、無事修復されまして昔日の面影を今に残しています。宝形造の屋根が美しく、周囲の景観によう合うています。

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 説明板の内容を転記します。

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天台宗 蓮華山 富貴寺
宇佐六郷満山霊場四番札所

養老2年(718)仁聞菩薩開基
 平安時代宇佐神宮宮司家の祈願所であった蕗浦阿弥陀寺(現富貴地大堂)の別当として、宇佐宮司家の保護のもと九つの坊を持ち、平安末、鎌倉初期までは権勢を誇っていたが、武士の台頭や、戦国時代の混乱などで衰退した。
 江戸に入ってから徐々に復興し、除災招福、五穀豊穣を祈願する祈願所として本日まで法灯を護持している。

富貴地本堂
 本尊 阿弥陀如来(県指定有形文化財) 不動明王

富貴地大堂(国宝 阿弥陀堂
 本尊 阿弥陀如来(国指定有形文化財

阿弥陀如来
 無量の寿命を持つことから無量寿如来とも言います。限りない光(智慧)と限りない命をもって人々を救い続ける西方極楽浄土の仏さまです。四十八願の誓いを立てて、有名なものでは「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くというものです。極楽往生、現世安穏の御利益から広く民衆から信仰されてきました。

不動明王
 「お不動さま」の名前で親しまれており、憤怒の顔はどんな悪人も仏道に導く心の決意とされています。仏法の障害となるものには怒りをもって屈服させますが、仏道に入ったものには常に守護をして見守る仏さまです。また、背中に背負った火炎で我々の悪い心を退治してくれるといわれています。除災招福、厄除開運の御利益で古くより信仰されています。

毎月縁日
毎月15日 阿弥陀如来縁日
 御前11時 阿弥陀護摩供 富貴寺本堂にて
 午前15時 先祖回向 阿弥陀堂にて
毎月28日 不動明王縁日
 御前11時 不動護摩供 富貴寺本堂にて

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 もうひとつ、別の説明板も転記します。内容が重複しているところもありますが、丁寧な解説で勉強になりました。

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蓮華山 富貴寺
国宝 阿弥陀堂(通称富貴寺大堂)
国指定重要文化財 大堂壁画・阿弥陀如来坐像

 古くは「蕗寺」、また「蕗浦阿弥陀寺」と称した。寺伝では養老2年(718年)仁聞菩薩の開基という。
 創建については詳らかではないが、古文書によれば「富貴寺は宇佐神宮宮司家であった宇佐氏代々の祈願所であり、除災招福の祈祷が滞りなく行われている」とあり、富貴寺は宇佐氏によって除災招福の祈願所として、また極楽往生を願うため創建されたことがうかがわれる。
 建築様式や壁画の描法などから平安時代末、約900年前の創建とみなされ、堂内の約3分の2が創建当時のものであることから、九州に現存する最古の木造建築として国宝に指定されている。
 阿弥陀如来を本尊とし、極楽往生を願うための修法、あるいはこの世にいながら極楽浄土の世界を体験する為に作られた堂宇は阿弥陀堂と呼ばれ、浄土信仰が高まった平安時代に盛んに建立された。
 本尊阿弥陀如来は薄く滑らかな身体つきや、丸く盛り上がる肉髻、細やかに刻まれる螺髪、浅く流れるように刻まれた衣文などから、お堂の建立と同じく平安時代後期の制作とみられる。
 本尊の周りは極楽浄土の様子や、様々な仏、菩薩の姿を描いた壁画で飾られている。長い年月を経てきたことによる傷みや、第二次世界対戦における空襲の被害などにより、ほぼすべての絵具が剥落しているが創建当時は極彩色で彩られていた。極彩色の創建当時の様子が宇佐の県立博物館にお堂とほぼ同じ大きさで復元されている。
 創建当初、一歩この堂に足を踏み入れれば、そこは苦しみに満ちた現実世界でなく、麗しき極楽浄土であった。その中で浄土を体験し、往生を遂げることが出来るようにと祈りを捧げていたのであろう。

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 お参りをしたら、ぜひ境内の石造物を見学し、奥の院や白山社にも足を伸ばしてください。近隣の名所めぐりと組み合わせてお参りをされる場合には、一つひとつを見学しますと時間がかかりますから、その積りで予定を立てた方がよいでしょう。

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大乗妙乗一字一石書写塔

 比較的大きな一字一石塔です。「書写塔」の銘は珍しい気がいたします。その手前には十王様が並んでいます。やや傷みが進んできているのが惜しまれますが、このように苔に覆われてもなお堂々たるお姿でおわします。左端の岩には、写真では分かりにくいと思いますが大きく梵字が彫られています。

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 十王様の端には奪衣婆が睨みを効かせています。奪衣婆と申しますと、安心院の地獄極楽の洞窟内の奪衣婆がほんに恐ろしい風貌で、ついあの像を思い出します。こちらも地獄極楽のそれに劣らぬ恐ろしいお顔でございます。

 説明板の内容を転記します。

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奪衣婆・十王像

 かつてこの村にあった地蔵堂に祀られていたといあれております。現在阿弥陀堂の左奥に安置されている石仏の地蔵尊(応安元年1368)を本尊としたお堂で、地蔵尊の左右にこちらの十王、奪衣婆などが祀られていたそうです。地蔵堂は寛文年中(1661~1673)に再興されたとあるのでその頃にはまだ富貴寺の境内にはありませんでした。地蔵堂なき後こちらに移されたのでしょう。

十王像

 道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う十尊。亡くなった後、死者は行き先が決まらない中陰と呼ばれる存在になり、初七日から四十九日、百か日、一周忌、三回忌には順次縦横の裁きを受けることとなるという信仰。
 亡くなった日から初七日、四十九日に行う仏事は中陰法要といい、インドの経典にも見られます。百か日、一周忌、三回忌は中国の風習に由来します。七回忌、十三回忌、三十三回忌は日本に入ってからの風習です。亡くなってすぐの魂は不安定であるとされ、その魂を鎮めるために法要を行うようになったようです。
 四十九日で亡くなった方の行き先が決まるとされており、その後の法要は亡くなった方の冥界での安穏を祈る追善供養とされます。十王の本地は十三仏とされており当てはめると次のとおり。

初七日 秦広王不動明王
二七日 初江王(釈迦如来
三七日 宋帝王文殊菩薩
四七日 五官王普賢菩薩
五七日 閻魔王地蔵菩薩
六七日 変成王弥勒菩薩
四十九日 泰山王薬師如来
百か日 平等王観音菩薩
一周忌 都市王(製紙菩薩)
三回忌 五道転輪王阿弥陀如来
七回忌 阿閦如来
十三回忌 大日如来
三十三回忌 虚空蔵菩薩

奪衣婆

 亡くなった後、三途の川で死者の衣服を奪い取る老婆。奪い取った衣服は「懸衣翁」という郎爺によって川のほとりの木にかけ重さをはかられる。死者の衣服の重さは生前の行いによって変わり、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。その他にも三途の川を渡る渡し賃の六文銭を持たずに来ると衣服を奪われる、閻魔大王の妻など様々な説があったようである。

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 富貴寺には笠塔婆がもともと6基ありましたが、そのうち1基は別府市立美術館に移され、境内では5基が保存されています。写真には4基が写っています(右の2基は笠が欠落しています)。いずれも、梵字などの彫りがよう残る秀作です。もう1基も、写真はありませんが境内の別のところに立っています。

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八臂弁財天

 8臂の弁天様は珍しいような気がします。細かい彫りまでよう残ります。しかも弁天様の収まる御室の立派なこと、見事なものでございます。特に笠の軒口、垂木の細かい表現が豪華ですし、台座の文様も洒落ています。

 説明板の内容を転記します。

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八臂弁才天(宇賀弁才天

 正徳6年(1716)の年号や施主の名前が彫られている。
 言語の「サラスバティー」はインドの聖なる川とその化身の名前。次第に芸術、学問など知を司る女神といわれるようになった。
 8本の腕(8臂)に弓、矢、刀、鉾、斧、長杵鉄輪、羂索、宝珠を持っています。頭上におじいさんの頭、蛇の体の宇賀神(蛇や龍の神様)を乗せたお姿の弁才天を宇賀弁才天と呼び、芸術、学問だけでなく福徳、財宝をもたらすとして古くより信仰されています。

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文殊菩薩

 説明板の内容を転記します。

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文殊菩薩(造立年代不明)

 「三人寄れば文殊智慧」で有名な菩薩です。正式名称は文殊師利。多くの仏典にて仏に代わり説法するほど智慧を完全に備えた菩薩様です。智慧を司り、お授けされるとされ、古くより信仰されています。

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 富貴寺の国東塔は、どっしりとした印象を受けます。以前、田染のシリーズの中で大曲は金高墓地の国東塔を紹介しました。あの塔と比べると、ずいぶん印象が異なります。それは塔身がお椀型になっていて、その上端がやや角ばっているためでしょう。蓮華座も、蓮の花びらを省いていますので浅いお椀をひっくり返して上下に重ねたような見た目になっています。しかも、格狭間も省いています。この飾り気のなさには、国東塔らしい華やかなイメージとは離れて、引き算の美のようなものが感じられます。

 説明板の内容を転記します。

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国東塔

 国東半島は石塔、石仏の宝庫と言われています。中でも最も国東半島を特徴づける石造物は宝塔の一種である国東塔です。国東塔は塔身下に「請け花」「反り花」の蓮華座を設ける特異な形態を持ちます。鎌倉時代後期から南北朝前半にかけ六郷満山寺院に大型のものが建てられました。塔身上部には奉納孔があり、経典を納める宝塔として建てられたことがわかります。後世には墓標化していきます。
 隣の小さな国東塔は墓標として建てられており、慶長8年(1603)の銘が残っています。

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富貴道路開通記念碑
明治四拾壹年壹月起工

 開通の「開」の字の書体が洒落ています。この碑銘を見て気付きましたのが、地名は「蕗」、お寺の名前は「富貴寺」と書き分けるので、道路名は「蕗道路」としそうなものを「富貴道路」としている点です。これは、お寺の名前にあやかったというよりは、おめでたい開通記念でありますからゲンをかついで「富貴」の字を宛てたと思われます。広く流布している俚謡の文句に「これの小坪に茗荷と蕗よ、冥加栄ゆりゃ富貴繁昌」とありますように、昔から「蕗」と「富貴」をかける例は多々ありました。

 なお、「富貴」は好字にて「蕗」の用字よりも時代が下がることは明白ですが、そもそも「ふき」という地名の意味は、「蕗」の字面通りの意味かどうかはわかりません。このように昔からの地名というものは、音に意味があって用字は二の次であるのが甚だ多いのです。

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 境内右側から石段を登れば薬師岩屋(奥の院)に至ります。岩屋に数体の仏様が安置されているばかりですが、その前にそれなりの平場がありますので、かつては何らかの建造物があったのかもしれません。こちらまで上がってお参りをされる方もあるようで、いつも絵馬がたくさん下がっています。

 

今回は以上です。説明板を転記していると文字数が多くなってしまいましたので、境内にあります白山社(六所権現)については次回にまわします。