大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その7(豊後高田市)

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 引き続き、大字蕗をめぐります。今回は富貴寺境内の白山社(六所権現)からスタートして、陽平(ひなたびら)で折り返して堀口までまいります。ひとまず写真のあるところを飛び飛びに紹介して、今回掲載できなかったところはまたの機会といたします。

 

31 白山社(六所権現)
 前回、富貴寺境内の石造文化財をいろいろと紹介しました。白山社はその続きです。境内左側から参道の石段を上がります(冒頭の写真)。なお、こちらは富貴寺境内にて拝観料が必要です。写真はありませんが、拝殿の天井絵が見事なのでお参りをされる際に見学してください。

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 白山社の本殿です。宝暦11年に建立された貴重な建築でありますが傷みがひどく、今は写真のように鞘堂を設けて保護されてあります。

 説明板の内容を転記します。

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白山社(六所権現)

 当初は六所権現であったが現在は白山社と呼ばれています。村の古文書では「当社は蕗村の宋廟であり村随一の古社である。勧請の時代は不明。白山妙理大権現、相殿の神五座と合わせて六所大明神と呼ぶ」とあります。当時は御神体板6枚、御神体木像6体、脇に妙見菩薩があったといわれており、古くには村を挙げての奉射祭もあったようです。 寛文6年(1667)造立、その後宝暦9年(1760)に消失。現在の社殿は宝暦11年(1762)のもの。拝殿も同時に消失したため文政2年(1819)に造立された。拝殿には当時書かれた天井絵が現在も残っています。古くより富貴寺の鎮主として崇敬されてきましたが、明治の神仏分離以降は村社として今に至ります。 現在白山妙理権現の御神像は富貴寺にてお祀りしています。

 白山権現とは加賀の白山の山岳信仰修験道が融合した神仏習合の女神であり、神道では古くは伊邪那美命(現在では菊理媛神)、仏教では十一面観音の化身とされています。 白山権現とは水を司る神さまです。水には、心身を清める神秘的な力があるとされ、災いや厄などをはらってくれる御力に富む神さまといわれています。また水を司ることから「五穀豊穣」の御利益があるとされ古くより信仰されてきました。その他にも女神ということから「子孫繁栄」、様々なご縁を結ぶ「良縁成就」の御利益も頂けるといわれております。 貴重な社殿ですが老朽化の為破損が多く、早期の解体修理が望まれております。

六所権現とは

 六郷満山寺院の鎮主として古くより祀られてきましたが、明治の神仏分離令の際に他の名前の神社に変わったものが多いようです。祭神は宇佐神宮比売神、大帯姫(神功皇后)と隼別皇子、大葉枝皇子、小葉枝皇子、雄鳥皇子の宇佐若宮の四神を祀るといわれますが、実際のところ祭神は一定ではなかったようです。六諸権現の名は安貞2年(1228)の六郷満山の目録にもみられ、中世から六郷満山寺院の鎮主として崇敬されていました。

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32 陽平の山王宮

 富貴寺をあとに、県道を都甲(とごう)方面にまいります。四土居(よどい)部落を過ぎてしばらく人家が途絶え、その次が陽平部落です。陽平は蕗谷のカサで、いま陽平から都甲への新道が工事中です。山王宮は道路左側に参道の石段が分かれていますので、すぐ分かります。車はその下あたりの邪魔にならないところを探して停めるしかありません。

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 竹林の中をなだらかな参道が伸びており、気持ちの良いところです。その参道の下の方に庚申塔が1基立っています。

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青面金剛尊塔
安政四年 乙未歳 十一月十六日
柏木文次良 永松平蔵

 蔓で隠れて見えにくいのですが、青の字の上には流麗な字体にて梵字が彫られています。その左右には大きく日輪・月輪も見えます。造立者と思われる2名のお名前が刻まれており、苗字を伴います。講員がたった2名であったのではなく、代表者の2名であると思われます。苗字の名乗りができるような立場の人だったのかもしれません。

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 石垣をついた上に立つ拝殿はなかなか年季が入っており、境内の雰囲気によう合うています。灯籠の猫脚が優美で、洒落ています。仁王像は小型ながら、なかなか格好がようございます。

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 立派な眉毛と鼻を見てください。額の皺も相俟って近所のおじいさんのような印象を受けるお顔立ちではありませんか。足元を見ますと衣紋の下部を前方に折り返して、平面にて支えてあります。これは安定を図るための工夫でありますが、それと感じさせないほど自然な仕上がりになっていることに感心しました。

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 こちらはヘの字に曲げた口がすばらしい。しかも、腕をよう見ますと筋骨隆々とした雰囲気を出そうとして、微妙な肉付きなどが工夫されていることが分かります。

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奉書写大乗妙乗

 享保3年に立てられた一字一石塔です。銘の中に「星聖国家豊穣」とあるのが気になりました。この部分は彫りが幼稚ですし、「国家豊穣」なる言い回しを享保3年にしたものでしょうか?あるいは、ここは後年の刻字である可能性も考えられます。

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 複雑に絡み合う枝ぶりが見事です。拝殿に向かって右側の林の中には板碑が何基もあるそうですが、尋ねた時季が悪かったようで行き当たりませんでした。またいつか捜してみようと思います。

 

33 其ノ田の石造物

 今度は山王宮から今来た道を後戻って、其ノ田(そのだ)を目指します。富貴寺を過ぎ、三叉路を直進して小田原(こだわら)方面に少し行きますと左側に「其ノ田板碑入口」の看板が立っています。その角を左折してすぐ、公民館(蕗分教場の運動場跡)に駐車します。川べりの道を歩けば、立派な石灯籠が見えてきます。

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常夜灯

 文化三年の銘がありました。立派な石垣の上に立っていますのでたいへん大きく、立派に見えます。しかも猫脚の部分がすべて唐獅子になっていて、見事なお細工でございます。手前に立つ碑銘は道標で、近隣の道路端に立っていたものを道路工事によりこちらに移したものと思われます。「右 高田」「左 立石 大分」と彫ってありました。

 この常夜灯の近くからトン橋で川を渉って、反対側に上がれば板碑や五輪塔が並んでいます。

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 この2基の板碑は、県指定の文化財になっています。いずれもすらりとした姿がよく、しかもなだらかに前方に湾曲していて、斜めから見ますとその美しさが際立ちます。額部や梵字(三尊形式)もよう残り、近隣に数多い板碑の中でも指折りのものといえましょう。しかも造立年は建武元年、なんと約690年も前です!板碑というものは全体に凹凸が少ないので、たとえば宝篋印塔などの複雑な造りの石造物に比べれば傷みが進みにくいのかもしれませんけれども、それにしても700年近く前のものがこれほど立派に残っているとはびっくり仰天でございます。富貴寺のすぐ近くにありながら、こちらはよほど興味関心のある方しか訪れないようです。こんなに貴重なものを気軽に見学できるのですから、富貴寺にお参りをされる際にはぜひ立ち寄ってみてください。


34 其ノ田の飛び石

 板碑のすぐ近くに、大きな岩にシメがかかっているのが目に入ります。

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 この大岩を「飛び石」と申しまして、峯入りの際にお坊さんが順々にこの上から飛び降ります。近くに比較対象がありませんので大きさがわかりにくいと思いますが、人の背丈ほどの高さがあります。


35 蕗分教場跡

 其ノ田の石造物や飛び石を見学したら車まで戻ります。先ほど申しましたように駐車した公民館は分教場の運動場跡地で、その端には校舎が残っています。

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 小学校2年生までこの校舎に通い、3年生からは本校(田染小学校)に通うたとのことです。でも今は子供がとても少なくなったこともあり、分教場は廃止されています。なお、田染小学校の分教場は大字平野にもありました。また、近隣で申しますと河内(かわち)小学校の旧小田原分教場の校舎も残っています。

 

36 富貴社

 蕗の分教場をあとに、小田原方面に進みます。右側の擁壁が途切れるところから富貴社の参道石段が伸び、鳥居も立っていますからすぐ分かります。この石段の左側に細い車道が並行しています。小型普通車までならどうにか通れる程度の細い道ですが、下の道路が狭くて駐車できそうな空き地がありませんので、車で来た場合にはこの車道を上がって上に停めるしかありません。もし運転に不安があったり参道を下から歩いて行きたいときには、公民館に車を置いたまま歩いて来るとよいでしょう。

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 このなだらかで幅広の参道は整備が行き届き、さすがは蕗村の鎮守でございます。以前このシリーズで申しましたように、田染地区のうち大字蕗以外の地域は田染三社(元宮・二宮・三宮の八幡様)の氏子圏でありますが、蕗のみ富貴社の氏子圏となっております。

 この石垣は、概ね野面積に近いものを角のところのみ布目に近く積んでおり、その境目のところも含めて寸分たがわぬ細工になっております。石灯籠は火袋が破損している例が多いようです。仁王像は正面向きではなく、参道を左右から挟み合う形で睨みを効かしています。それで、この位置から見ましたらちょうど行き遇うた知人同士が会釈をしているようにも見えてまいりまして、何ともおもしろく感じました。

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 鼻を吹き広げてすまし顔でありながら、腕も脚もほっそりとして、あまり力強そうな感じのしない仁王さんです。破損した天衣の残欠を台座に置いてありました。

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 こちらは天衣もよう残り、特に破損個所は見受けられません。素朴なお姿で、親しみやすい仁王さんです。

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 こちらは、桜か紅葉の時季に参拝されますと特によいでしょう。広々と気持ちのよい境内に佇みますと、時のたつのも忘れてしまいそうです。

 

37 堀口の五輪塔

 富貴社境内から、本殿を向いて右の方に田んぼの方に下る小道があります。その道を行きますと、小さな塚をなしたところに五輪塔が数基立っているのを見つけました。一応、部落名から「堀口の五輪塔」とします。

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 何の由来も分かりませんが、もしかしたら古い墓標なのかもしれません。富貴社を参拝される際に見学されてはと思います。

 

38  堀口の地蔵堂

 富貴社から車道に返って、僅かに小田原方面に進みます。堀口部落最後の3軒(左側の道路下に1軒、右側の道路上に2軒)のところまできたら、右の2軒の間の背戸を上がったところに堂様が立っています。車道から見えますが、やや奥まっており屋敷の陰に隠れていますので、車だと気付かずに通り過ぎてしまいそうです。近くに適当な駐車場所がないので、富貴社または公民館に駐車して歩いて来るとよいでしょう。

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 ごく短い石段を上がれば、すぐ堂様の正面です。こちらは、建物自体はそう古いものではなさそうです。堂様というよりは磨崖仏の覆い屋とでも言った方がよさそうな気もします。

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 こちらが堂様の中です。大岩を取り込むように祭壇をこしらえてあります。その大岩には、中央にお地蔵様、その左右に比丘・比丘尼が中央を向いて坐っています。お地蔵様のお顔のみ別石で補うているように見えましたが、ほかはよう残っています。おそらく比丘・比丘尼は、施主夫婦を表しているのでしょう。こちらの磨崖仏は、愛宕さんの呼称で信仰が篤いそうです。その呼称から火伏を願うたものかと思いきや、豊後高田市による『磨崖仏パンフレット』によれば歯痛に御利益のある旨の伝承があり、昔はお礼参りの際に竹楊枝を歳の数だけお供えしていたそうです。

 磨崖仏の横には、お弘法様と板碑が前後に並んでいます。

 

今回は以上です。大字蕗の名所旧跡は写真のストックがなくなったので、田染シリーズの次回「その8」では七田の観音様を紹介しようかなと考えています。蕗にも、ほかにもいろいろと気になっているところがありますから、探訪できたらまた紹介します。