大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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滝尾の名所めぐり その1(大分市)

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 先日、大分市の曲石仏と滝尾百穴を再訪する機会を得ました。これらは大分市の中でも指折りの名所でありますからぜひ紹介したいと思うておりましたものを、手持ちの写真が悪くて掲載を見合わせておりました。それで、このたび写真を撮り直すことができましたので、滝尾地区の名所旧跡のシリーズとして紹介していこうと思います。

 さて、滝尾地区は大字津守、片島、曲、下郡(しもごおり)、羽田(はだ)からなります。市街地の拡大により下郡方面に大規模な住宅団地が造成されたほか、主要道路沿いには小売店舗・飲食店の進出もめざましい中で、昔ながらの田園風景も残る地域です。

 この地域においては開発により失われてしまった史跡もありますが、曲石仏や滝尾百穴をはじめとする数々の名所旧跡、神社がございますほか庚申塔や石幢、お弘法様などもたくさん残っています。その中から、ひとまず2回に分けて大分社の石造文化財、滝尾百穴(横穴古墳)、曲石仏(磨崖仏)と新四国、曲八幡社を紹介します。

 

1 大分社

 南下郡東下交叉点から県道56号米良バイパスを判田方面に行き、長谷バス停留南交叉点を右折します。滝尾中学校正門前三叉路を右折して少し行けば、右手に大分社がございます(冒頭の写真)。そのすぐ横に参拝者用の駐車場もありますので、安心してお参りができます。こちらはいつも境内の清掃が行き届いており、住宅街の中にあってそう広い神社ではありませんけれどもほんに気持ちのよい場所です。

 説明板の内容を転記します。

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大分社(元 豊後国一の宮

1 鎮座地

大分市大字羽田字宮田435番地2

2 神社名

大分社(おおきたしゃ) 元郷社・通称おおいたしゃ
 江戸時代までは大分宮・大分大明神と称していたが、明治維新後に大分社と改称された。境内の宝塔には、中世の神社銘であった「大分社」の金石文が刻まれている。

3 御祭神

○ 伊邪那岐命
 国家安泰・子孫繁栄・家内安全・五穀豊穣の神
○ 伊邪那美命
 国家安泰・子孫繁栄・家内安全・五穀豊穣の神
○ 豊門別命
 第12代景行天皇の第7皇子
○ 大分君恵尺大神
○ 大分君稚臣大神
 大分の先祖神。壬申の乱大海人皇子、後の天武天皇に味方して武勲を挙げ右大臣・左大臣に次ぐ処遇を受ける。「日本書紀」に記されている。国指定史跡の古宮古墳及び真玉町猪群山の巨石と深い関わりがある。

4 境内末社

○ 猿田彦
 道祖神、開運の守護神
○ 青筵社
 畳表、七島藺の守護神
○ 宮地嶽社
 開運・商売繁盛の守護神
○ 金刀比羅社
 産業・航海安全の守護神
○ 天満社
 和歌・書道・学問・災難除去の守護神
○ 秋葉社
 火防・火鎮めの守護神
○ 生目社
 眼病の守護神
○ 龍王
 雨・水の守護神
○ 武内社
 武運隆盛・勝負事の守護神
○ 大将軍社
 元は田営社と称せられた。農耕牛馬・家畜の守護神

5 社殿

 本殿は瓦葺神明造り、申殿・拝殿・神楽殿を有す。

6 祭礼日

歳旦祭(元旦祭) 1月1日 午前2時過ぎより斎行
月次祭 2月から12月までは、毎月1日の御前9時より斎行
・春季大祭(祈年祭) 3月14日
・大祓いの式 6月30日 午後2時半より斎行
・夏期中祭(夏越祭) 7月19日
例大祭遷座祭) 10月14日 隔年毎に、御神幸祭・里内への御巡行が執り行われる
・秋季大祭(新嘗祭) 12月14日 お正月用の御守御札の入魂祈願祭も斎行
・大祓いの式 12月31日 古い御守御札等の御霊ご遷座償却奉告祭も斎行

7 由緒略記

 上野六坊村(現在の上野丘町)に御鎮座していたと伝えられているが、創建年代は不詳。六坊の名称は、当神社の社僧6人の住居が構えられていたことに起因する。
 平安時代の初め第56代の清和天皇の御代、貞観11年(869)3月に滝尾下郡の滝尾山の神ヶ迫に造営された本殿、5間4面の広大なる新社殿に上野六坊村より御遷宮遷座する。鎌倉時代の初期、第82代後鳥羽上皇の建久7年(1196)に、豊後国二豊の守護職となった府内城主、大友能直公により、府内城の鬼門除けの神社として手厚い保護を受けて、多くの土地を社領として賜る。第103代、御土御門天皇の寛正6年(1465)に、信仰の道を深めた大友親繁公により、傷んだ社殿の改築がなされた。
 第106代、正親町天皇の元亀3年(1572)の2月11日、大友家内紛の巻き添えの戦火に遭い、社殿をことごとく焼失する。やっとのことで難を免れ、運び出された御神体は、神社の上席神主の国家大膳宅傍らの羽田字角屋敷内、栗の木の元に急遽造営された仮御社に奉安されて祀られた。この不慮の災火により、当神社に伝わる重要なる古文書類、宝物類をことごとく焼失する。
 後水尾天皇寛永3年(1626)、松平忠直公(のちの一伯)蟄居先の萩原から更に滝尾津守に移館される。津守宮西に鎮座する熊野神社を、子息の松千代君の産土神と崇めるにあたり、大分社の氏子中の、鴛野、曲、津守、片島(辻堂以西)地区の村人を、熊野神社の新たな氏子として組み変えることを余儀なくされて、今日に至っている。大友氏の滅亡後も、代々の府内藩主の当神社に対する崇敬心は変わることなく、多大の金品の奉納が祭典ごとになされてきた。
 111代、後西天皇の明暦3年(1657)3月、元の御神幸所(現在の鎮座地)に御社殿を造営し、角屋敷から御遷宮御鎮座する。120代、仁孝天皇天保11年(1840)に再造営し、現在の本殿となる。翌年の天保12年(1841)4月、拝殿を造営。明治26年(1893)4月、拝殿を改築し現在に至る。大正14年3月26日、郷社となる。

 鳥居の右側にある宝塔は、北朝の康永4年(1345)8月に建立されたもので、南北朝時代、大友氏泰(7代)が、北朝方の足利尊氏についていたことを伝える重要史跡である。

 明治4年(1871)11月に大分県となるが、その県名「大分」の名称は、王政復古により「壬申の乱」で活躍して天皇家とも深い縁をもった大分郡の豪族「大分君恵尺・大分君稚臣」の出身地名から採ったものである。

※当社では、現在お鎮め申し上げている主祭神の五柱の大神と末社の十柱の大神の御神霊の全ての神様を総称し、産土の大分社大神と及び申し上げて祭祀を掌っている。

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 境内には珍しい庚申塔狛犬など、素晴らしい石造文化財が目白押しですので、お参りをしたら一つひとつ見学されることをお勧めいたします。

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 こちらが、説明板に「大友氏泰が北朝方の足利尊氏についていたことを伝える重要史跡」とあった宝塔です。金石文によるものと思われますが、摩耗により読み取りは困難でした。笠は照屋根で重厚な感じがいたしますが、首部が幅広のために寸胴型の塔身と今ひとつ馴染んでいないような気もします。けれども優美な格狭間やどっしりとした姿には、さすが古風の面影を残しております。

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 日露戦役記念碑のそばに、いくつかの石塔類が並んでいます。いずれも破損が著しく、後家合わせと思われるものもあります。

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 お参りをされる際に、ぜひ見学していただきたいのが狛犬です。さても珍妙なる姿で、おもしろいではありませんか。よくも破損せなんだものぞと思われる不安定な立ち姿で、横の「お願い」を見ますと「元の姿に復元改修をしました」とあります。やはり、一旦は破損したことがあったようです。けれども修復できる程度の破損で幸いでございました。

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 こちらなど曲芸めいた姿にて、こしらえた石工さんの遊び心が感じられます。このような姿の狛犬はよそで見た覚えがありません。後足などに補修の跡が見受けられますが、自然な仕上がりになっています。

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 摂社も鄭重にお祀りされています。めいめいの石祠が立派な造りです。生目様、秋葉様など夫々の霊験も入口の説明板に記されています。

 最後に、境内の隅にたくさん寄せられている庚申塔を紹介します。これは、元から境内に立てられたものもあるかもしれませんが、その並び方から推して、ほとんどが近隣地域からの移設であると推量しました。表示札には「道祖神」とあります。猿田彦の刻像塔・文字塔、青面金剛の刻像塔・文字塔、「奉待庚申尊」の文字塔など、多種多様な庚申塔が並び、語弊がありますがさながら庚申塔の展覧会のような様相を呈しております。数が多いので、これはと思ったものをいくつか紹介します。

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 こちらが庚申塔の区画の全景です。前後3列に亙って整然と並べられています。最前列は、向かって右端が青面金剛、あとの4基が猿田彦です。中列と後列は概ね青面金剛で、いくつか「奉待庚申」などの塔も混じっています。この排列には、前から順に①「猿田彦青面金剛」、②「刻像塔→文字塔」のような規則性(①が優先される)が感じられました。前列左の2基(猿田彦の文字塔)は、個別の写真の掲載を省略しますが自然石の形状をうまく生かしつつ一部を整えて格好のよい姿に仕上げた、優秀作であると存じます。

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猿田彦

 大正13年の銘があり、おそらくこちらに並ぶ塔の中ではいちばん新しいものと思われます。前列中央に配したのも道理の立派な造形で、特に袖のたっぷりとしたところや御髪、顎髭の細やかな櫛の目模様など、手の込んだ彫りが素晴らしいではありませんか。猿田彦の刻像塔は県内では作例が少なく、夷谷などで見かける首をことさらに傾げているタイプが思い出されます。ところがこちらは、そのタイプとは一線を画してことさらなデフォルメがなされておらず、写実性を極めた表現になっています。台座には造立に関わった方のお名前が刻まれていたのではないかと思いますが、残念ながら旧の台座は失われ、新しくコンクリでこしらえたものにてすげ替えてあります。

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猿田彦

 こちらは隣の塔にそっくりのデザインでありますけれども、よう見ますと細かい違いがあります。まず立ち方が違っていて、こちらは左足をやや引いて斜めに立っているように見えます。この造形は、丸彫りならまだしも碑面に薄肉彫りでこしらえるには難易度が高いと思われますが、見事な技巧でもって自然に表現しているのに感心いたしました。衣紋のひだの表現も見事でございます。台座には6名の方のお名前が刻まれています。造立年は記されておりませんが、おそらくこちらの方がいくらか古いと思われます。

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南無青面金剛大士

 青面金剛の文字塔としては珍しい銘で、よほどの心願を籠めてのものと思われます。寛政7年の造立で、8名のお名前が彫られています(田崎(実際は嵜の異体字)さんか濱崎(同)さん)。

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青面金剛1面6臂、1猿、1鶏、ショケラ、髑髏

 舟形の塔身の上部が前屈して、そこに主尊の頭がめり込むような配置になっています。太い眉と隈取をしたような眼が印象的なお顔には、静かに怒っているような厳めしさが感じられます。これとよう似たお顔の青面金剛を、別府市は御堂原など数か所で見たことがあります。距離を考えますと同一の作者とは思えません。作者が思い浮かべた青面金剛の表情として、たまたまイメージが重なったのでしょう。

 体前に回した腕のすぐ上には、ごくささやかな表現の髑髏の首飾りが見えます。このように青面金剛が髑髏の首飾りをさげている例は武蔵町など数か所で見たことがありますが、どのような意図なのでしょうか。てるてる坊主のようなショケラとの対比もおもしろいし、朱や墨の彩色が僅かに残っている点なども見逃せません。また、猿と鶏の表現は漫画的なおもしろさがあって、これまた主尊との対比が見事です。この種の猿・鶏は、以前吉野の名所シリーズの中で紹介した庚申塔と同種の趣向が感じられます。猿のおどけた所作など、一目見たら忘れられません。

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青面金剛6臂

 塔身の上部が破損してしまっており、もしかしたら日月や瑞雲がこの部分に刻まれていたのかもしれませんが分からなくなっています。けれども、その傷みが主尊に全くかかっていないのはこれ幸いでございます。こちらは猿も鶏も伴いませんが、そのことに気付かないほどに堂々とした主尊で、特に腕の配置の絶妙なること見事なものです。しゅっと鼻筋の通ったお顔立ちは西洋風の印象がございます。その髪型は丸髷を結うたように見えてまいりまして、特に鬢を下げ気味にしている点に上方風の風情があります。

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青面金剛6臂、1猿、1鶏、ショケラ

 御導師さんのような帽子を被った主尊はまさに怖い表情で、目つきはおろか、ぎりぎりと苦虫を噛み潰したような口許などにもその恐ろしさがにじみ出ています。足を見ますと指を省くばかりかまるでロボットのような表現です。この部分や衣紋、ショケラなど、簡略化されています。また、体前に回した腕以外はレリーフ状の彫りにて不自然な前後差がついてしまっているほか、三叉戟をとる腕の直角に曲がった表現など、失礼ながらあまり洗練された表現とはいえません。

 ところがどういう風の吹き回しやら、猿と鶏に至ってはなぜにここまでと思わせるほどの手の込んだ表現になっているではありませんか。やはり漫画的なデフォルメがなされておりますものの鶏の尾羽やトサカなど、写実性も伴います。主尊に力を入れすぎて猿や鶏に至っては力尽きてしまったのかと思われるような簡単な表現で済ませている作例を多々見かけますが、こちらにはそのような傾向は微塵も感じられません。

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奉待上庚申尊供養塔

 こちらも珍しい銘で、「庚申尊」なる言い回しはあまり見かけた覚えがありません。

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青面金剛菩薩

 青面金剛に菩薩とか神、大明神などの大仰な尊号を付した例を稀に見かけます。こちらもその一例で、造立時の願いがよほど真に迫ったものであったと推察されます。庚申講には多分にレクリエーション的な側面もありますが、その根底にある信心ですとか、神様仏様にすがるよりほかなかった昔の生活に思いを馳せますと、このような銘にもいろいろと感じ入るものがございます。

 

今回は以上です。本当は滝尾百穴まで紹介しようと思いましたが、長くなりましたので次回に回します。