大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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滝尾の名所めぐり その2(大分市)

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 前回は大分社のみの紹介となってしまいましたので、滝尾百穴、曲石仏(磨崖仏と新四国)、曲八幡社まで一気に紹介します。今回は庚申塔はありませんが、興味深い史跡・文化財が目白押しです。特に曲石仏は、磨崖仏に興味関心のある方にはぜひお参りをお勧めしたい名所中の名所です。

 

2 滝尾百穴

 滝尾地区には横穴墓群がいくつかありましたが宅地造成などで破壊されたところが多く、今では一般に見学できるのは滝尾百穴(ひゃっけつ)のみとなっているようです。百穴の名に違わぬ大規模な横穴群で、一目見ればあっと驚かれること請け合いでございます。

 こちらは、大分社からそう遠くないところにあります。前回紹介した大分社までの道順を後戻れば、正面に滝尾中学校の正門があります。百穴は、中学校のグラウンドに面しているのです(冒頭の写真)。なんとまあ珍妙なる光景でありましょうか。道路からもよう見えますけれども、近寄ってじっくり見学したくなります。その場合は学校が休みの日にしないと迷惑になりそうです。正門前のスペースに駐車したら(学校のある日は不可)、グラウンドに沿うて車道を歩き、ラウンドの端と民家の間の背戸を上がってフェンスの戸を開けて中に入れば、左手にずっと横穴が並んでおり間近で見学することができます。

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 冒頭の写真で見えた横穴群に行く途中にも、このような横穴がいくつも並んでいます。この辺りは木の枝で隠れがちにて、車道からは見えにくいと思います。中には横穴入口まで岩肌にステップを刻んであるところもありました。

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 こうして間近に見上げますと、ものすごい迫力に圧倒されます。何段にも分かれた横穴は、かなり高いところまで穿たれています。その開口部は長方形、楕円形、五角形など様々で、穴の高さも含めまして規則性がなく、自由奔放な感じがいたします。

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滝尾百穴横穴古墳群
大分市羽田
市指定史跡(昭和49年1月9日)

 ふつう「滝尾百穴」と呼ばれるこの横穴古墳(横穴墓)群は、総計84基を数える群集墳です。凝灰岩質の崖面に横穴を掘り込み、その中に遺体を安置し、入口を石などの蓋で閉じたものです。しかし、いつ頃か内部は荒らされ、また物置用など別の目的に利用されたりしたため、遺物は失われ、形もつくり変えられたものがあります。
 このような横穴古墳(横穴墓)は6世紀後半を中心とする100年間(古墳時代後期)に盛行した墓制で、密集して営まれたことから群集墓と呼ばれます。当時の庶民の家族墓と考えられており、1基に数体が埋葬されることも珍しくありません。
 この横穴墓群の横穴の規模は大小さまざまですが、大きいもので高さ約1.8m、床面の幅約2m、天井部の形にはドーム形、家形、アーチ形のものが見られ、市内第1の規模を持つものです。崖面の横幅120m、面積694㎡を史跡指定地にして保存をはかっています。
 横穴には、もともと各横穴に行くための墓道がありましたが、風化して残されていません。横穴の入口を羨門、これから中へ通じる部分を羨道、遺体を安置する部屋を玄室といいます。横穴墓群は羽田、下郡、稙田、松岡地区など市内の各所に営まれています。

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 上の方の横穴はどうやってこしらえたのか不思議に思うておりましたところ、説明板に「墓道」の表記を見つけました。風化して残っていない「墓道」がどのような構造であったのか気になります。また、下から見える範囲でも2つの横穴が内部でつながっているのをいくつか見つけました。これは、説明板にて言及されている後世の物置利用による改変によるものと思われます。または、防空壕として利用されたこともあるのかもしれません。

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 写真はありませんが、この右の方にトンネル状になった横穴もあります。これもおそらく倉庫か何かの用途で、後世に改変されたものでしょう。

 

3 曲石仏

 滝尾百穴からの道順の説明が文字だけでは難しいので、国道10号の宮崎交叉点を起点に記します。焼き肉きんぐ光吉店の手前を左折して道なりに行き、右に分かれる2つ目の角を右折してすぐ橋を渡ります。道なりに行けば、左側に曲八幡(次に紹介します)の鳥居が立っています。その次の角を左折して坂道を上っていけば、森岡小学校の裏口に着きます。車道行き止まりが広くなっているので邪魔にならないように車を停めたら、標識に従って擬木階段の遊歩道を下っていけばほどなく仏龕が見えてきます。

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 こちらが、上の駐車場所から下ってきたときに最初に出合う2つの龕です。右の龕は、側面に磨崖五輪塔が2基ずつ彫られています。左の龕は、側面に磨崖連碑の痕跡阿残っています。連碑は、端の方が崩れてしまっていますし縦線がほとんど消えかかっていて、上部の額部によりようやっとそれと分かる状態でありますが、五輪塔の方は状態が良好です。

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 側面に五輪塔や連碑を刻んでおきながら、正面の壁には何の痕跡も見られないのが不可解です。或いは、この場所に墨書にて梵字曼荼羅などが書かれてあったのかもしれませんし、磨崖ではない単体の仏様が安置されていたのかもしれません。この点については説明板にも言及されておらず、詳細は分かりませんでした。

 ここからもう少し階段を下ると、曲石仏の中心となる龕に着きます。そのすぐ手前、右側に仏様が安置されていました。

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 こちらは、曲の新四国の第87番札所です。もとは村中に点在して札所めぐりのコースが設定されていたものと思われます。けれども宅地開発や道路工事等の影響でしょうか、今では曲石仏の境内にたくさんの札所が集められており、寄せ四国の様相を呈しております。ただし、この87番札所については龕をこしらえて安置してあることから、元々この場所にあったものと思われます。また、全ての札所がこちらに寄せられているわけでもなくて、車道沿いでも番号の振られた仏様を数体見かけました。

 続いて、この横にあるひときわ大きな龕の仏様を紹介します。

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三部大乗妙典塔

 一字一石ではなく、お経を書写した巻物を3部奉納した記念の塔でしょう。にっこりとほほ笑む仏様のお顔の、なんとお優しそうなことでしょうか。拝む者の心がほっとするような、なんとも親しみやすいお顔でございます。

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 龕の入口側面には、多聞天持国天が向き合うています。こちらは持国天です。風化が著しいものの、そのお姿ははっきりと分かります。

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 こちらが多聞天で、持国天よりもなお傷みが進んでいます。龕の入口にあって雨風の影響が大きかったのでしょう。おいたわしいお姿でございますが、長年の風雨に耐え、今なおじっと中の仏様を守ってくださっているのです。

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 この大きな仏様は磨崖ではなく、寄木造の手法をとった石仏です。大日様かお釈迦様とされています。その継ぎ目が一見して分からないほど自然に仕上げたさても見事なお細工で、優しそうなお顔立ち、螺髪などの細やかな表現など、ほんに素晴らしいではありませんか。

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 奥に見える磨崖仏は風化が著しく、詳細は分かりませんでした。手前のお弘法様は、先ほど申しました新四国に関するものです。その高い台座には、曲の新四国の由来が漢文でびっしりと刻まれていました。篤信家の方が、地域の方々のために新四国を開いたとのことで、曲はおろか近隣在郷からもお参りが多かったようです。

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 側面には2段に棚をこしらえて、たくさんの仏様が並べられています。こちらも新四国の札所です。傷んでしまったものもありますけれども、粗末にすることなくこのように立派にお祀りしてありますし、めいめいに新しいおちょうちょをつけています。今も地域の方の信仰が篤いのでしょう。

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 この龕の正面に、本来の参道がございます。まだこの道を通ったことがなくて、どこに出るのか分かりません。本当はこの道を通ってみたかったのですけれども、雨降りで足元が悪かったのでまたの機会といたしました。

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 参道の坂道の横にいくつかの石造物が並んでいます。こちらも新四国の札所です。

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六十四番札所

 雨ざらしになっていますが、ほとんど傷みもせで元の形がよう残っています。お参りをいたしますと、昔の方の御詠歌の声が聞こえてくるような気がしました。

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三番札所

 横並びの番号が「64番」と「3番」ですから、やはりこちらも近隣の道路沿いなどにあった札所を移動したものであることがわかります。螺髪の表現など、細かいところまでよう行き届いた彫りに感心いたしました。そして一つひとつにきちんと花立てを設けて、お供えがあがっています。

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 説明板の内容を転記します。

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曲石仏・附双塔(五輪塔)磨崖連碑
大分市大字曲1372
県指定史跡(昭和41年3月23日)

 奥行約7m、高さ約6mの石窟の中央奥に、円満な顔立ちの釈迦如来大日如来とも)坐像1躯が安坐しています。頭・胸・腰・両膝を別々の石材で組み合わせ、腹部を空洞にするなど、寄木造の形式をとった石仏で、鎌倉中期以降、室町初め頃の造仏と思われます。入口の両壁面には、右に多聞天立像、左に持国天立像が石窟の守護神として彫り出されていますが、引き締まった彫法などから、鎌倉時代の作品と推定されます。
 この石窟の向かって左にある龕には、おだやかな作風の阿弥陀如来坐像を中尊に、右に観音、左に勢至菩薩を配した三尊仏がありますが、おそらく曲石仏の中の初期で、平安末期の造仏と思われます。
 また、これより少し東に離れた崖面には、五輪塔2基を薄肉彫りにした龕や、7基の板碑を連続して彫り込んだ龕が造られています。
 この地は平安中期、「曲別府」とも呼ばれ、宇佐神宮の領地となったところです。最初の造仏は、たぶん宇佐神宮の力が関係していたものと思われます。

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 磨崖仏など、指定文化財の内容を詳しく知ることができました。ただ、新四国についての説明がなかったのが残念です。

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 こちらが左の龕です。中央に三尊形式の磨崖仏、その左右の空間にはやはり新四国の札所がずらりと並んでいます。また、説明板には記載がありませんでしたが、この龕入口の左右には1基ずつの磨崖宝塔の痕跡が確認できました。

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 中が阿弥陀様、右が観音様、左が勢至様です。この並びは阿弥陀三尊と申しまして、観音様は阿弥陀様の中にある慈悲の、製至様は智慧の化身であると申します。いずれも風化摩滅が進み、殊に観音様の傷みが顕著です。でも、前にも申しましたが磨崖仏というものは自然と一体となったところに意味がります。月日の経過とともに傷んでしまっても、それは見かけのことであって本質的な徳の高さ・ありがたさには何の変りもございません。

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 左端に、磨崖宝塔がうっすらと写っているのが分かりますでしょうか。ちょうどこの日は雨降りで崖が濡れていたので、はっきりと見えたのだと思います。乾いていたら一層分かりにくいことでしょう。

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 それにしても、この札所を安置している棚は後補のものであると存じます。それ以前は、阿弥陀三尊様の両側の掘り込みには何が安置されていたのでしょうか?

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 こちらにも磨崖宝塔が写っています。フェンスの、右から2本目の支柱から上に辿ってみてください。

 曲石仏の紹介は以上です。ほかにも見逃した仏様がありそうな気がしてきました。今度また天気のよいときにお参りに行きまして、もう少し注意深く周囲を探索してみようと思います。

 

4 曲八幡神社

 曲石仏から、いま来た道を後戻ります。車は下の広場の隅に停めることができますので、安心してお参りできます。

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 こちらの八幡様は傾斜地に所在しており、その地形をうまく生かして通路やお社、諸々の石造物が配置されています。藤棚も見かけました。花の時季はもっとよいと思います。

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 説明板の内容を転記します。

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八幡神社由縁略記

鎮座地 大分市大字曲字宮1156番地、県庁より1里17町30門

神社銘 曲八幡神社
御祭神 誉田別命 応神天皇仲哀天皇神功皇后

木造瓦葺 神明造り
社殿 7尺四方
境内 1872坪 神社9社
金刀比良社 祭神 大物主命 産業ノ神
天満宮 祭神 菅原道真 学問ノ神
秋葉社 祭神 可遇突命 火風ノ神
大歳社 祭神 大歳ノ命
大将軍社 祭神 保命ノ神 牛馬ノ神
水天宮社 祭神 龍王ノ神 雨水ノ神
天満宮社 祭神 菅原道真 学問ノ神
蚕業神社 祭神 養蚕神
猿田彦社 祭神 猿田彦神

祭典日記
元旦祭 1月1日
春大祭 4月5日
大祓 6月30日
夏大祭 7月18日
秋大祭 10月15日
大祓 12月31日

八幡社由緒略記

祭神 誉田別命
今より約706年前即ち第91代宇多天皇の建治3年丁丑、ある日西方より白鷺が雲風に乗じ現在の宮地に飛び来たった様に見えたので村人達は行ってみると、宇佐八幡宮と大署した旗があったので村人達は、これは八幡様がこの地をこよなく愛されている証拠であるとして、この奇譚を機に直に豊前の国宇佐の地に至り、八幡宮に詣で、ここに御分霊勧請して戴いて帰り現在の地に祠堂を造り崇敬するようになった。嘉永6年(1853)今より128年前春の頃、本曲・今曲の両庄屋である大津留・首藤両氏と村人達の談合のうえ御神殿を改築して、氏神として尊崇を愈々厚くした(嘉永6年改築記念額による)。なお文久4年にはさらに社殿を造営して宮地等の整備を行い、結構なる社殿となした。明治6年村社に列せられ今日に至る。

昭和58年8月吉日

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シベリヤ出兵記念碑

 台座に8名のお名前が刻まれていました。写真はありませんが、境内には日露戦争の記念碑もあります。その内容がなかなかのものですから、見学をお勧めします。

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蚕影社

 境内の摂社のうち、こちらは特別の参道を設けて特に鄭重にお祀りされていました。この一帯では昔、養蚕が盛んであったのでしょう。養蚕の繁忙期は、ちょうど稲作の繁忙期と重なります。ですから昔、養蚕をしていた家庭は繁忙期になると目の回るような忙しさで、わずか一間を残して畳を全部あげてまぶしを広げ、子供からお年寄りまで寸暇を惜しんでの作業に追われて人間の方が小さくなっていた云々のエピソードを方々で聞きます。曲における養蚕の様子は存じませんが、きっと似たような状態であったと思います。今は見る影もありませんが、このようなお社は昔の方の暮らしの様子を今に伝える、貴重な遺産といえましょう。

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 見事な枝ぶりの楠です。

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 説明板の内容を転記します。

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大分市の名木 くすのき

樹高30m 幹周4m 樹齢500年

 現在地は、元古樹豊な林であった。これを造成して神祠を奉造、その後記念として氏子の総意により現在地に植樹し現在に至ること、約400有余年に及び当時の面影を残し、氏子の称賛と宮地の森厳を保持し敬神の念は日毎に深まる。

指定番号 55号(樹木)
指定年月日 昭和58年4月4日
指定理由 大分市名木保存条例による

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猿田彦

 祠の中には、破損した神像が安置されています。庚申塔ではなくて、御神体としての位置づけであると思われます。

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 こちらの狛犬は唐獅子で、よう整うた姿が見事です。

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 お社は手入れが行き届いています。ありがたくお参りをさせていただきました。

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天満宮

 こちらは傷みが進んでいるのか、鞘堂で保護してあります。

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蚕業組合

 

今回は以上です。2回にわたって、滝尾地区の名所旧跡を4か所紹介しました。この地域には、ほかにも碇山などの名所がありますので、またいつか続きを書きたいと思います。