大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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西安岐の庚申塔めぐり その5(安岐町)

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 西安岐の庚申塔シリーズの第5回目は、大字吉松を巡ります。今までに探訪できた吉松の庚申塔を一度に全部紹介しますので、長い記事になります。まだ行き当たっていない名所旧跡・文化財もありますから、その分についてはまたの機会に油留木の名所旧跡と同時に紹介したいと考えています。

 

18 一ノ瀬の開山堂の石造物

 安岐中学校の交叉点から吉松方面にまいります。仁王(にんにょう)部落にて、道路左側にかかる1つ目の橋を渡ります。突き当りを右折し、橋の直前を左折して川べりの道を行きます。橋を渡って道なりに左折してすぐ、路肩が広くなっているので邪魔にならないように車を停めます。そのまま歩いていき、右カーブしているとこを直進して田んぼの中の細道を行けば堂様があり、その坪にいくつかの石造物が寄せられています。こちらは実際寺の開山堂とのことです。冒頭の写真に層塔の残欠や六地蔵塔が写っておりますのも、その関係のものと思われます。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 こちらは一ノ瀬部落の庚申塔で、開山堂の石造物群のひとつです。舟形の塔身が美しく、諸像もよう残ります。対称性を崩した日月の周りには、鱗模様の瑞雲がお花模様のようなデザインで配されています。主尊は炎髪が顔の左右にはみ出し気味にて、まるで帽子を被っているように見えてまいります。彫りの深いお顔は、きりりとつり上がった目つきがほんに恐ろしげです。ほっそりとした腕の配置など失礼ながら表現に稚拙なところはありますけれども、どっしりと強そうな感じがよう表現されていると思います。ちょうど主尊の足元が僅かに落ち窪んでおります点にも、その体重の重さが見てとれます。

 童子は小さくてかわいらしい雰囲気かと思いきや、主尊と同じく険しい表情で睨みを効かせています。鶏に監視されている猿は、狭い部屋に閉じ込められてお気の毒なことでございます。

 

19 一ノ瀬上の庚申塔

 車に乗って開山堂入口の細道を左に見送り道なりに行き、一ノ瀬部落の半ばにて突き当りを左折します。家並みが途切れた少し先に、道路端右側の斜面に庚申塔が立っています。車は、この少し先で道幅がやや広くなっているところがありますから、そこに邪魔にならないように停めて歩いて戻るとよいでしょう。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 武蔵町や安岐町でよう見かけるタイプの庚申塔で、既視感がありますけれども細部は少しずつ異なります。視線よりも少し高い位置にありますので、こうした下から見上げますと塔身と笠の噛み合い方がはっきりと分かりました。塔身の上端中央がやや前面に出ているのは、笠が安定するための工夫と思われます。全体に厚みのある塔身ならまだしも、この塔のように薄型ですとその形状のまま笠を接合したら据わりが悪いのでしょう。

 主尊は脚が太くてどっしりとした立ち姿でございます。彫りも厚肉になっていますから、いよいよその力強さが際立ちます。ところが猿と鶏はもともとささやかな表現で、しかも特に猿に至っては薄肉のレリーフ状ですのでだんだん分かりにくくなってきています。仲よう立って目・鼻・口を押える姿がほんに可愛らしいので、よく観察してみてください。

 それにしても同じ一ノ瀬部落の中で、開山堂と道路端の2か所に庚申塔が立っているのはどのような理由なのでしょうか。その理由としては、①庚申講の違いによる、②賽ノ神的な霊験を期待して村はずれに別々に立てた、この2点が考えられると思います。①については、一ノ瀬部落の中の土居(班)構成は存じませんが、無常組などは内と外に分かれていたかもしれませんけれども庚申講を2つ以上組織するほどの軒数はないような気がいたします。このことから、②が確からしいような気がしますが確証はありません。

 

20 七郎の庚申塔

 吉松は、大きく前谷と本谷に分かれます。七郎部落は前谷のカサで、ほかの部落から少し離れています。一ノ瀬上の庚申塔の前の道をずっと上っていき、オレンジロードの交叉点を過ぎてなおも登れば七郎部落に出ます。その中ほどの観音堂そばに庚申塔が3基立っています。詳細は以前の記事を参照してください。

oitameisho.hatenablog.com

 

21 田口の庚申塔

 七郎部落から前谷線を後戻って、本谷線の新道に突き当たったら左折します(右に行ったら仁王の公民館がポツンと建っている道です)。道なりに少し行けば田口部落で、左手に民家が集まっています。右側には、田んぼの先の川向うに小さな堂様が見えます。

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 このように、道路から小さく堂様が見えるのですぐ分かります。こちらは田口部落の薬師堂です。右折して橋を渡り、坪に車をとめます。2基の庚申塔のほか、五輪塔などいくつかの石造物がございます。お参りをしたら見学いたしましょう。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔も、安岐町や武蔵町でときどき見かけるタイプです。こちらは笠に個性があって、宝珠をいただいた立派な造りが目を引きます。屋根のカーブも程がようて、格好がよいではありませんか。ややガニ股気味に立つ主尊はお腹が出て、貫禄十分の姿でございます。それに対して童子は7頭身くらいはありそうで、しゃなりしゃなりと柳腰の風情にて主尊との対比もおもしろうございます。向かって右の鶏のことさらにデフォルメした表現もおもしろいし、哀れなるかや狭い部屋に閉じ込められた猿も愛らしく、全体として珍しい点はありませんけれども一つひとつのデザインが工夫された塔であるといえましょう。

 「後藤氏一家中敬白」の文言から、後藤さんが個人で造立したように思われます。けれども、個人で造立したのであればその方の屋敷の坪に立てそうな気がしますが、堂様の坪に立っているのがどうも不可解です。或いは、故人ではなくて後藤一統の数軒による造立なのかもしれません。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼

 こちらの塔はやや傷みが進んで、諸像の細かいところが薄れてきているのが気にかかります。主尊は頬を膨らまして、太い眉を吊り上げ、細い目をカッと見開いて睨みを効かせています。三叉戟をとる腕の表現などはやや稚拙な表現でありながらも、勇ましい雰囲気が感じられる主尊でございます。その主尊に踏まれた邪鬼は顔の左右に小さく脚を表現したタイプで、直川村で見かける邪鬼に似通っています。

 童子は一つ髷で鬢をクルリと外に跳ねだしたかわいらしい髪型で、お慈悲の表情にて優しく控えています。打ちかけが裾広がりになっているのも優美です。猿は珍妙な表現がおもしろいものの、傷みが進んで一見してそれと分かりにくくなっているのが惜しまれます。

 

22 尾崎の庚申塔

 田口の薬師堂から本谷線に返って、先に進みます。正面の尾根の突端に灌漑の関係の記念碑の立つ四叉路から、民家の裏の旧道に入ります。坂道を上っていき平坦になるところの右側に製材所跡があって、その建物の間の背戸を上がれば庚申塔が立っています。一旦通り過ぎて、左側の路肩に車を置いて歩いて戻ってくるとよいでしょう。

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 この坂道を登ります。足元がよくないので、地面が濡れているときは避けましょう。

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 そのうち、石段になります。この石段は上の方にある弁天様の参道です。今のところ緩みはないようですが荒れ気味で、踏面が傾いていますので帰りは転ばないように気を付けてください。杖を持っていくと安心です。この石段を登っていくと、半ばで左右に作業道跡と思われる細道が通っています。この細道と交差するところの左手に、数基の庚申塔が並んでいました。

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 庚申塔は5基を数えますが、残念ながらその全てが斜面に向かって倒れかかっており、破損が目立ちました。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 元々の彫りが薄かったとみえて、風化摩滅により諸像の姿が消えかかってしまっています。でも、こちらの5基のうちでは最も状態のよい塔です。木漏れ日が差して、うまく撮影できなかったので写真では余計に見えにくくなってしまっていますが、実物を見ればもう少しよく分かります。主尊は優しそうなお顔で、赤い衣紋を纏うて行儀よう立っています。こけし人形のような童子がすぐそばに寄り添うて、真下の小部屋に3猿、その下には2鶏が刻まれています。全体的にほのぼのとした印象を受けるお塔でございます。

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 この3基はすべて文字塔です。墨が消えてしまって、銘は全く読み取れませんでした。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、(2鶏)

 こちらの刻像塔は半ばで断裂し、なんともおいわたしい姿でございます。『くにさき史談第九集』に掲載された写真を見ますと、猿の真下に鶏が刻まれています。けれども現地で実物を見ますと、鶏はかすかにその痕跡を認められる程度にまで消えかかってしまっていました。主尊を見ますと堂々たる立ち姿で、このように傷む前は存在感のある塔であったと思われます。

 

23 尾崎の弁天様

 庚申塔のところから石段を登り詰めたところに、弁天様がございます。こちらにも庚申塔が1基立っています。

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 このように不揃いの石段で、踏面が狭いうえに急傾斜です。緩みがないか確認しながら気を付けて通りました。

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 こちらが石段を登り詰めたところの弁天様と庚申塔です。この場所には堂宇は残っていません。けれどもそれなりの広さの平場があることから、かつては小堂を有したのではないかと推量いたしました。または、祭祀のための平場でありましょうか。残念ながら転石が目立ち、やや荒れ気味の印象を受けます。先に庚申塔を紹介します。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 参道の半ばにあった5基の庚申塔とは比べ物にならないくらい、状態がよい塔です。この塔のみ弁天様の境内という特別の立地にあるのはどうしてかとつくづく考えますに、残りの5基を粗末にしているというわけではなくて、都合6基もある尾崎部落の庚申塔の代表として、この1基を特に鄭重にお祀りしてあるのではないでしょうか。何基もの塔を持つ講の待ち上げにおいては、複数ある庚申塔を代表する1基か2基にのみ餅をかぶせたりする例も多々あったようです(たとえば文字塔が複数と刻像塔が1基の場合は、代表して刻像塔に餅をかぶせる等)。庚申塔を庚申様の依代として見れば、さもありなんと思われます。こちらの庚申講の現状は存じませんが、同様の事象は十分にありえます。

 こちらの塔は、対称性を崩した日月・瑞雲と波形の縁取りがよう合うています。主尊をその縁取りの下に収めずに、頭部や弓が段差を超えて上にはみ出すように配しているのもよいと思います。お顔の傷みが惜しまれますがその他はほぼ完璧に残っており、すらりと背の高いのが格好よく、上半身を微妙によじらせているような立ち方も勇ましい雰囲気が出ています。狭い部屋の中には猿や鶏が仲よう収まって、夫婦和合・家内安全を象徴しているかのようです。宝永六年の銘があります。300年以上経っているとは思えない状態のよさに感激しました

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 向かって右の石灯籠は壊れたものを立て直したようで、火袋の部分のみ大岩の上に置いてあります。

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 左の灯籠はばらばらに壊れてしまい、竿が折れており修復は難しそうです。

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 弁天様の石祠の前には、いちめんに苔を纏うたとても小さな狛犬が佇んでいます。このような姿になっても、目を見開いて弁天様を守ってくれています。祠の真後ろには磨崖像が刻まれているような気がしましたが、見間違いのようです。その上の矩形の掘り込みには何が置かれてあったのでしょうか。農村部における弁天様や貴船様は、水を掌る神様として絶大なる信仰を集めてきました。特に灌漑設備が発達する以前は少し雨が降らないだけでも旱害につながりかねませんでしたから、神仏にすがるよりほかなかったのです。

 

24 尾崎の大日様

 弁天様のところを右に行ってみると、尾根筋に沿うて道があることに気付きました。何か石造物がないかと思いまして、まず左にとって上り方向に進んでみました。しばらく行っても何も見つからなかったので今度は反対方向に進みましたら、右手に古いめいめい墓が見えてた先が浅い掘割になっていて、古い山越道と交叉した先に大岩と2基の石祠を発見しました。

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 この岩も、大昔は何らかの信仰を集めていたものと思われます。

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 向かって左の石祠は、唐破風のところに「大日」の銘がありました。右は分かりません。石垣をこしらえて、鄭重にお祀りしてあります。お参りをして、来た道を戻って弁天様経由で車に戻りました。

 

25 中村の庚申塔

 弁天様参道下から旧道を先に進めば、ほどなく本谷線新道に突き当たります。右折してしばらくいくと中村部落に入り、オレンジロードとの交叉点を直進します。右側の民家の石垣の先、耕地に上がる坂道(車不可)を少し進んですぐ、右方向に折り返すように上がれば庚申塔ほかの石造物が数基並んでいます。車は、交差点よりも手前の路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかなさそうです。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 用地が一面草だらけになっていて、塔には蔓がからみついて碑面がほとんど見えない状態になっていました。停めた車が邪魔になりはしないかと懸念されまして急いで見学したので、蔓の除去もおざなりになってしまいこのような写真しか撮れませんでした。鶏や猿など、蔓に隠れてしまっているところも良好な状態を保っています。

 唐破風を伴う笠が優美で、瑞雲の鱗模様も洒落ています。主尊は目を閉じて、口を静かに結び、何か物思いに耽っているようなお慈悲の表情でございまして、そのうちにある心の優しさのようなものが感じられます。中村部落を長年の間じっと守ってくださっている、ありがたい庚申様でございます。

 

今回は以上です。大字吉松には、まだ行ったことのない名所旧跡・文化財がいろいろあります。けれども、今回こうしてある程度まとまった量を一度に紹介することができて、自分なりに満足しています。それと申しますのも、あらためて写真を見直してあれこれと比較してみたりする中で、新たな気付きがいろいろあったためです。その仔細はいちいち申しませんが、現地で十分に観察したつもりでも、あとで写真を見返すことによる気付きから自分なりの考察に至ることがしばしばあります。今後も、写真を撮るときにはその視点を忘れないようにしていきたいと思います。