大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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杵築の旧市街散策 その1(杵築市)

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 久しぶりに杵築の町を散策しました。懐かしい町並みを楽しみつつ、この30年あまりでずいぶん変わった風景に一抹の寂しさも感じました。特に弓丁から本町にかけての道路拡幅により、懐かしい商店街の風情が失われたことは残念でなりません。けれども、北台から祇園町にかけての上町筋界隈、それから北新町・古野界隈は昔の面影をよう残します。数回に分けて、昔の町名や辻々の小さな神社などを紹介しつつ、杵築の町をぐるりとまわりたいと思います。

 この散策におきましては、適当な駐車場所がないところが多いので全て歩いてまわりました。石段が多く自転車は不便なので、もし実際に散策される際には徒歩をお勧めいたします。今回は飴屋の坂横の公共駐車場に車を置いて出発します。

 

1 岩鼻の井戸

 谷町筋沿いに古い井戸が残っています。この井戸を岩鼻の井戸と申します。ちょうどこのあたりが仲町(上手)と谷町(下手)の境界です。

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 ひところは荒れ気味で見る影もありませんでしたが、道路拡幅に伴い町並み整備の一環として昔の形に復元されました。説明板の内容を転記します。

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市指定史跡
岩鼻の井戸・岩鼻の坂

 歩くことが交通の手段だった江戸時代では、道路脇の清水や井戸で喉を潤していた。この井戸は谷町の岩鼻の下にあって、町筋唯一の井戸であった。武士、町人、農民も利用し藩命で井戸を浚えた。
 岩鼻の地名は、岩が突出しているからであり、この岩は凝灰岩で、北台や南台の台地の基盤の岩石である。
 この岩鼻の井戸から北台を結ぶ坂を岩鼻の坂と呼ぶ。

平成8年2月27日指定 杵築市教育委員会

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 また、写真はありませんがこの少し右側には戎様の石祠があります。近隣の方々により戎講が組織されていました。

 

2 岩鼻の坂

 前項の説明板にもありましたように、岩鼻の坂は井戸のところから北台に上る小路です。景観の整備で舗装や手すりなどがきれいになっていますけれども、その屈曲した道筋には昔の面影をよう残します。

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 石段を正面に上り詰めたところは天理教の教会です。岩鼻の坂は、この石段を半ばまで上ってから右に折れて坂道を進み、さらに左に折れて上っていきます。

 ところで、今は道が広くなってしまって見る影もありませんが、昔、これよりもやや左手、新町と仲町の境のあたりで道路が鉤の手に屈曲していました。昭和の中頃までは路線バスが谷町筋を通っていましたが、車体の大型化等に伴い通行困難になって上町廻りに変更になった経緯があります(その後の道路拡幅によりバス路線は谷町筋に戻りました)。また、天神祭りで山車が通るときなど、この屈曲を通るのに軒先すれすれをかすめていたのも懐かしい思い出でございます。

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 岩鼻の坂の上部で、この辺りには上から車が入ります。ここからはもう北台の家並みで、これを上り着いたところの右側には旧「和洋」の建物が平成初期まで残っていました。みんな和洋、和洋と呼んでいましたので正式名称は忘れてしまいましたが、和裁や洋裁を学ぶ専門学校です。今は隣接する杵築幼稚園の用地拡幅により、和洋の痕跡は全くなくなっています。

 

3 酢屋の坂

 岩鼻の坂を上がり着いたら右に折れて進みますと、十字路になっています。その右側がなだらかな石段になっています。この坂は杵築の旧市街を代表する石畳道です。

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 この坂は、大正8年に大規模な修復がなされまして、今の姿になりました。ところがそれ以降、徐々に傷んできて草が生えたりしていたほか、左右の石垣の上の土塀も崩れがちでした。それがすっかり様変わりして、きれいになっています。非常になだらかで幅広の石段は、実際に歩いてみますと歩幅と合わずにやや歩きにくく感じます。これはどうしてかと申しますと、騎馬や駕籠にて通行するのに都合のよいようにつくられているのです。石垣の風情も含めて、杵築の旧市街随一の景観であると存じます。

 これを下り着いたところが谷町の中心で、大昔にこの坂の下に酢屋があったので酢屋の坂と申します。向かい側は志保屋(しおや)の坂、その上は南台の家老丁です。志保屋の坂もすっかり改修されてしまって、昔の面影は微塵もありません。けれども、今の景色もなかなかのものではありませんか。なお、志保屋の坂につきましては、このシリーズの後の方で別項を設けて紹介しようと思います。

 

4 北台の武家屋敷群

 酢屋の坂上の十字路から勘定場の坂にかけて、道の両側に武家屋敷群が残っています。そのうちのいくつかは現役の民家でありますが、大原邸、磯矢邸などは中を見学することができます。この武家屋敷群は南台の武家屋敷群と対をなすものです。

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 以前は両側の塀の傷みがひどかったものを、すっかりきれいに修理されていました。とても雰囲気のよい通りですけれども、昔の傷んだ塀もまた、あれはあれで風情がありましたし歴史を感じられて、よかったと思います。

 

5 藩校の門

 北台武家屋敷群の一角に、杵築小学校の門があります。今では裏門のようになってしまっていますが、昔はこちらが正門でした。

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 とても小学校の門には見えない、見事な造りでございます。

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 説明板の内容を転記します。

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藩校の門

 この門は天明8年(1788)に7代藩主親賢公が設立した藩校「学習館」の藩主御成門です。学習館では明治4年(1871)の閉校まで藩士の子弟を中心に漢学・国学・洋学・算学など学び幕末や明治維新の混乱期に活躍した人材を多く輩出しました。
 現在も杵築小学校の門として使用されています。
 なお、この門を入って左側に「藩校模型学習館」があり、中には藩校模型を展示しています。

杵築市教育委員会

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6 勘定場の坂

 藩校の門を過ぎて少し行くと勘定場の坂で、こちらも酢屋の坂と同じようななだらかな石畳の坂道です。旧藩時代に、この下に勘定所があったので勘定場の坂と呼んでいます。

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 これを下れば広小路です。大手前から坂道を上れば台山で、今は昭和45年頃に建った模擬天守が杵築のランドマークとして親しまれています。写真にも小さく写っています。台山周辺の史蹟・文化財は後回しにして、ひとまずここで引き返します。

 

7 杵築幼稚園の石段

 武家屋敷群を引き返して、十字路を右折します。ほどなく左側に杵築幼稚園の石段があります。

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 杵築幼稚園は国内でも有数の歴史のある幼稚園です。先ほど申しましたように「和洋」跡地まで園地を拡幅し、昔の面影を残すのはこの石段と、園庭の藤棚のみになっています。石段はいつ頃からこの姿であるのかは存じませんが、昭和30年頃には既に今の石段になっていたそうです。かなり古いものと思われます。

 今はどうなっているか分かりませんが、昔は卒園式のあと、卒園児がこの石段を下るのを年少組の園児が上から手を振って見送っていました。昭和40年頃までは年少組の園児が極端に少なく、ほとんどが年長組の1年間のみ通いましたので年齢の違いなど関係なしに一緒に遊んでいたものを、卒園の段になって遊び友達が上から見送ってくれてアレあの子はもう1年幼稚園かえと気付いたなどの話を聞きます。

 

8 北浜口の坂

 杵築幼稚園の石段を過ぎたら五叉路になっています。右手は杵築小学校正門で、今は児童館などが建っていますが昔は数軒の民家があり、袋町という町名がありました。正面右が北浜口の坂の新道「車坂」、正面左が北浜口の坂の旧道「番所の坂」、左手が上町筋です。

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 北浜口の坂の旧道を半ばから振り返って撮影したものです。この坂の上に北浜口の番所がありました。その番所を復元した頃に崩れがちだった石畳もきれいにして、今は浮石などなく安全に通行できます。この坂は、酢屋の坂や勘定場の坂よりもやや傾斜があります。

 今回はこの坂道を下りました。

 

9 臥雲の坂

 北浜口の坂を下って、突き当りを左折します。「びんごや」の建物の裏を見てすぐ、右にカーブミラーの立っている角を左折します。この辺りを臥温(がおん)と申しまして、古くは臥雲の用字もありました。最近新しい家が次から次に増えてきています。水路に沿うて行き、途中からあぜ道のような小道になります。その先で左右に、車の通る道が交叉します。これを左にとれば臥雲の坂の新道、まっすぐ狭い道(車不可)を行けば旧道です。

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 これが臥雲の坂の旧道です。昔は西町に鍛冶屋さんがあってその横に抜けていました。今は竹藪になっていてとても通れませんので、引き返して新道を上ります。

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 臥雲の坂の新道は、平成半ばまでは砂利道で、昔の面影をよう残していました。けれどもそれなりに傾斜のある坂道で車の通行が不便であったので、舗装されて今に至ります。

 

10 臥雲のお稲荷様

 臥雲の坂の新道半ばにお稲荷さんがございます。

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 道路端に窟をこしらえて、鄭重にお祀りされています。この坂道が拓かれたのはいつ頃か存じませんけれども、先ほど申しましたように旧道とは全く違う場所を通っています。新道沿いにお祀りされているのはどうしたことでしょうか。こちらに移されたのか、または上からこの場所までは道があったのかもしれません。現地に説明板がなく、杵築史談会『忘れられた神々と野仏』シリーズにも記載がなく、詳しいことは分かりませんでした。

 

11 上町~西町

 臥雲の坂新道を上り詰めると、上町(うわまち)に出ます。右折すれば、ほどなく左に紺屋町の坂が分かれます。この角から先、正面の上り坂あたりまでが西町です。この辺りには佐野家(佐野医院)の建物が保存されており、見学することができます。今は静かな町並みですけれども昔は、鍛冶屋、畳屋、表具屋、左官屋などのほか、菓子屋、酒屋などの小売店や小料理屋なども並び賑やかであったそうです。道路に面した部分が、明らかに昔商売をしていたであろうと思われる造りの民家が今もたくさん残っています。

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 紺屋町への分岐点から西町、西新町方面を向いて撮影した写真です。ここから先が西町、正面手前の坂を上ったところが西新町、正面奥の坂からが札の辻で、上り詰めたところに祇園様があります。ここから祇園様までほぼ一直線の町筋になっていて、昔の谷町筋が鉤型に屈曲していたのとは対照的な町並みです。

 今回はこの角を左折して紺屋町を下ります。

 

12 紺屋町の神明様

 上町から紺屋町筋に左折してすぐ、左手に神明鳥居が立っています。境内には神明社と多賀社の石祠のほか、お弘法様などもございます。平成半ばまでは神明様・多賀様それぞれ古いお社が残っており歴史を感じられる場所でしたが、老朽化により解体を余儀なくされたのは残念なことでした。

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 地域の方により清掃が行き届き、気持ちのよい場所ですけれども、今の神明様はなんとなくがらんとしていて寂しい雰囲気です。昔、境内にはブランコなどの簡単な遊具もあって、近所の子供達の遊び場になっていた時代もありました。

 

13 紺屋町の坂

 上町と仲町を結ぶ坂道を紺屋町と申します。古い建物がいくつか残っていますが、空き地も目立ちます。

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 昔、この通り沿いには紺屋(染物屋)が何軒も集まっていたので、紺屋町と呼ぶようになったそうです。それが江戸時代の大火で焼失し、紺屋は衰退してしまい町名にのみ残ったのです。今回はこの坂道の半ばで右折して、横丁を抜けました。

 

14 一つ屋の坂

 紺屋町の坂の半ばから横丁を抜ければ、ほどなく一つ屋の坂の半ばに出ます。ここは十字路になっていて、上れば西町、下れば仲町と新町の境界、直進すれば下久保です。

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 紺屋町の坂とよう似た坂道で、一応旧市街にある名前のついた坂道ということで観光マップなどにも載っていますが、さほど昔の面影は残っていません。この坂道は紺屋町よりも寂しいところであったそうで、家が1軒しかなかったから一つ屋の坂というなどと聞いたことがあります。けれども、いくら何でもこの市街地にあって家がたったの1軒しかなかったとは考え難いので、これはこじつけではないかと思います。

 今回はこれを直進して下久保方面に行きました。

 

15 久保の坂

 一つ屋の坂の半ばから冨坂町方面への小路を下久保と申します。直進すると道が鉤の手になっていて、その鉤の手の半ばが石段になっています。これが久保の坂です。この辺りは観光客が足を踏み入れない場所ですが、昔の町並みの面影がそれとなく残る、好きな場所です。 

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 石畳が再整備されてきれいになっていますが、昔の雰囲気をよう残す坂道です。これを登り詰めたら直角に左に折れて、上久保の小路です。直進して冨坂町、半ばで右折すれば西新町に抜けられます。

 

今回は以上です。次回は、このシリーズで特に紹介したかった古野・北新町・新屋敷・札ノ辻界隈をめぐります。