大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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杵築の旧市街散策 その3(杵築市)

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 今回は祇園様から天神様までをめぐります。前回の末尾に紹介しました新屋敷の豊川稲荷経由の道順にて、祇園様を起点に紹介します。もしこの辺りのみ散策するのであれば、天神様に車を置いて逆の道順に歩くとよいでしょう。

 

27 八坂神社

 新屋敷の豊川稲荷から道なりに行けば、八坂神社の横の道に出ます。この道筋が北祇園町で、右折すれば射場(いば)の坂経由で峯本へ、左折すればすぐ札ノ辻の五叉路です。この五叉路は北台からずっと一直線に続いてきた上町(うわまち)筋がはじめて二又に分かれるところで、辻に面して八坂神社がございます(冒頭の写真)。辻から5方向に伸びる道を八坂神社の鳥居を向いて順に申しますと、右前は北祇園町の道、左前は南祇園町経由で祇園橋に至る道(旧県道)、右後ろは新屋敷への道(北新町から宮地嶽神社に上がった道を直進するとここに出ます・車不可)、左は靏ノ口(つるのくち)経由で弓丁に下る坂道(車不可)、後ろは上町筋です。

 祇園町や靏ノ口方面は番所の外ですが、拡大をつづけた旧市街と一体の地域です。けれども今回はその方面に行かなかったのでまたの機会に補うことにして、ひとまず八坂神社を紹介いたします。

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 八坂神社は、昔から「祇園様」と呼んでみんなに親しまれてきました。天保13年に木田の商人が京都から勧請したと申します。祭日は7月の15日頃でしたか、もう記憶が定かではありませんが、ヨドと本祭の2日続きであったような気がします。大昔は日中に御神幸の行列が出てていました。7月25日の天神様の行列と同じくらい盛大に行われ、明治末期の頃など近隣在郷から大勢集まり押すな押すなの大賑わいであったと聞きましたが衰えて久しく、今は2軒ほどの露店が出てカラオケ大会などが開かれる程度の小規模なお祭りになっています。

 こちらは、境内は狭いものの近隣の方々の信仰篤く、いつも掃除が行き届いています。石造の旧社殿は必見でありますので、旧市街を散策される際にはお参りに立ち寄ることをお勧めいたします。

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 今の社殿の左後ろに、石造りの旧社殿が保存されています。全てが石造りで、これほどまで精巧にこしらえた社殿は近隣在郷はおろか、県内でも稀であると存じます。垂木その他の見事なお細工は、木造のそれと全く同じような見た目になっています。こちらは昭和58年に県の文化財に指定されました。

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 説明板の内容を転記します。

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昭和58年4月 大分県有名文化財に指定

八坂社石造旧本殿一棟

天保13年壬寅2月吉日製

石工 田染中村 渡辺初助

昭和58年7月大祭記念 八坂社

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 これほど立派な文化財でありますから、できれば教育委員会による詳細な説明板も設置されればと思います。

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 祇園様は、以前は近隣の子供の遊び場にもなっていました。小学校の下校時間など馬場尾や下司・宗近方面に帰る子供達が境内でひとしきり遊んで帰る姿をときどき見かけたものですが、今はその姿も稀になっているようです。町並みも生活の様子もすっかり様変わりしてしまいましたが、祇園様は札ノ辻の昔を今に伝えます。

 

28 馬場尾口番所

 札ノ辻の半ば(五叉路よりも僅かに北台寄り)に、「馬場尾口番所跡」の石柱が立っています。

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 杵築城下には馬場尾口のほかにも、前回までに紹介した北浜口や清水寺跡付近など、いくつかの番所がありました。これらのうち、一般の出入りが許可されていた唯一の番所が馬場尾口で、実質こちらが杵築城下の玄関口であったそうです。馬場尾村(今の大字馬場尾)は、古くは松尾村と申したそうで、番所の名も当初は「松尾口」であったと聞きました。先ほども申しましたが、これから先、南北の祇園町や靏ノ口、煙硝倉(えんしょうぐら)などは番所の外であったので狭義には城下町とは言えませんけれども、上町筋に沿うて西へ西へと拡大していった市街と一体の地域でした。

 

29 札ノ辻の堂様

 馬場尾口番所跡の標柱から僅かに下ったところを右折します。この先は袋小路になっていて、行き止まりに堂様がございます。

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 このように狭い用地に建っておりますので、堂様というよりは覆い屋のような雰囲気も感じられます。袋小路にてよその方が通りがかりに手を合わせるようなこともなく、近隣の方々のみに知られている堂様です。こちらには数体のお地蔵様や庚申塔などが寄せられています。元からこの場所にあった像もあれば、道路工事などで移されたものもありましょう。

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 華やかな模様のきれでこしらえたおちょうちょをかけて、鄭重にお祀りされています。近隣の方のお世話が行き届いているのでしょう、棚の上にはごみが全く落ちていませんでした。

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 左の2基は庚申塔です。左端のごく小さい塔の銘は「庚申大菩薩」、その隣の塔の銘は「猿田彦尊」です。猿田彦尊の方は半ばで折れてしまっているのが惜しまれます。それにしても、「庚申大菩薩」とはほんに仰らしい尊号でございます。それほどまでに心願をかけたのでしょう。その文字が細い字体いて「薩」の字など今や消えかからんとするささやかさでありますので、これみよがしな感じはせず、語弊がありますけれども却って微笑ましさすら感じられました。

 この堂様の少し手前から背戸を入れば、祇園様のところから靏の口経由で弓丁に下る道の途中に抜けられます。その近くには、田能村竹田の滞在したことに由来する竹田荘がありました。

 

30 柳家

 堂様から上町筋に返って右折します。坂道を下ったところが十字路になっていて、この辻までが札ノ辻、右は冨坂町、左は新屋敷(車の通り抜け不可)、正面(上町筋の続き)は西新町です。札ノ辻は西新町から一続きの町ですので、当然こちらもたいへん賑わっていたとのことです。

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 札ノ辻と西新町の境界の辻から、札ノ辻側を向いて撮影した写真です。札ノ辻と冨坂町の角地に建っている柳家は、旧の料亭です。前回申しました北新町・新屋敷界隈の検番から、こちらまで芸者を派遣していました。料亭としての営業は戦前までで、戦後は大衆的な食堂として長らく地域の方々に愛されてきた老舗中の老舗です。経営されている方がご高齢になり今までのような店舗運営が困難になってきたとのことで、一時は存続が危ぶまれましたが、この歴史ある店舗をいろいろな業態のお店に貸し出す方式にて維持されているそうです。1階部分は食堂として昭和30年代風の面影を、2階の外観は料亭時代の面影を色濃く残す貴重な建造物でございます。

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 正面が西新町で、かつての賑わいを偲ぶよすがもないほど静かな町並みになっています。平成半ばまでは、正面左に見えるオレンジ色の庇の福岡堂(食料品等)のほか、札ノ辻には高橋理髪店、大鳥菓子店(ぽっこん菓子)などいくつかの店舗が営業を続けていましたが、昔からのお店は柳家以外みな閉めてしまいました。当日はこの辻を右折して冨坂を下りました。

 

31 冨坂町

 柳家の辻から谷町筋(新町と弓丁の境界)に下る坂道を冨坂と申しまして、この坂に沿うた町並みが冨坂町です。この町名は坂の名に由来するのではなく、綾部冨坂さんが開いたことによるそうです。それで、冨坂町の坂なので坂自体を冨坂と呼ぶのでしょう。小さな町なので、天神祭りの行列のときには新町とくっついて「冨新組」となっています。

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 かつては6角形の滑り止めのついたコンクリ舗装の坂道でしたが、町並み整備の際に舗装がきれいになりました。写真の中央に、右方向に手すりのついた石垣が写っています。この石段を上がれば上久保(その1にて紹介した小路です)に至ります。もう閉店して20年ほど経つかと思いますが、この坂道の上の方、柳家の向かいあたりに玉川というおいしいチャンポン屋さんがありました。その並びには大黒鮮魚店、かど生花店、その下はさて何屋さんだったでしょうか。柳家の側は、上から山田酒店、岩尾建具… 下の方には安森医院がありました。今も営業しているのは僅かです。

 

32 新町・弓丁

 冨坂を下って谷町筋に出たところが十字路になっています。右は弓丁、左は新町、正面は天神坂を上って馬場丁に至ります。弓丁と新町は、道路拡幅により昔の面影が全くなくなっています。写真を撮り忘れたので、文章のみに留めます。新町側は、スカヤ(文具店)や弥助寿司などが懐かしい店がいくつもやめてしまいましたが、とま屋(お茶とお茶菓子)、岡田化粧品店、中央クラブ(洋食店)など昔からのお店もまだまだ残っていますし、最近は新しい飲食店も増加しています。やはり上町筋に比べると賑わいを保っているといえましょう。一方で弓丁は半ば住宅街と化し、商店街の雰囲気は薄れています。

 弓丁には昔、今の杵築カメラ(元は谷町にありました)の向かい側に「杵築館」という映画館がありました。県内のあちこちを巡業していた馬場尾歌舞伎の常設芝居小屋を前身として、のちに映画館になったとのことで、昭和50年頃まで営業していたようです。今の映画館のように傾斜のついた座席ではなく、平面の座席の昔ながらの映画館であったそうで、もし今も建物が残っていたら名画座として復活できたかもしれません。なお、市内には杵築館のほかに本町や守江にも映画館があったそうです。

 

33 天神坂

 冨坂を下って、正面を斜めに上がる坂道が天神坂です。これは、上りついたところにある天満社(通称天神様)に由来します。

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 こちらも町並み整備の一環で、舗装がきれいになっています。マンホールの蓋には、カブトガニの意匠がございます。今や貴重な生物となったカブトガニは守江湾の干潟に多く生息しており、杵築の自慢になっています。この坂道の半ばより、右側に見事な石垣がございます。この上が天神様で、坂道はきれいになりましたけれどもこの石垣や、緩やかなカーブを描く道筋に昔の面影をよう残します。上り着いたところの左側、崖下に建つのが杵築市役所で、元のマルショク仲町店の建物に城下町風の意匠を施したものです。坂の上から市役所の屋上駐車場に入って、杵築の町並みを眺めてみるのもよいでしょう。

 

34 天満社

 天神坂を上りきる手前、右方向に数段の石段を上がれば天神様の境内です。左の建物は元昌寺で、天神様とは別の敷地です。

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 この石垣や玉垣に昔の面影がよう残ります。この天神様は元は据場にあったものを、元の場所があまり狭いのでこちらに移したとのことです。据場の元宮様は後日紹介します。

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 狛犬がぎょろりと眼をむいて入口方向に睨みをきかせていますが、何となく愛嬌が感じられる、かわいらしい姿でございます。たてがみなど、細かい彫りで丁寧に表現されています。

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 説明板の内容を転記します。

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由緒
祭神 菅原大神

元和のころ諸富某により杵築市据場(元宮の地)に勧請、その後延宝8年(1676年)現在の地に御遷座

年中祭日
元旦祭 1月1日
祈年祭 2月25日
例大祭 7月24日
 御神幸祭 7月25日
七五三祭 11月15日
神嘗祭 11月25日
除夜祭 12月31日

杵築天満社

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○ 天神祭りについて

 例大祭は一般に「天神祭り」「天神さま」と呼んで、杵築の町を代表する夏祭りとして広く知られています。7月に入りますと、町筋にてコンコンチキチンの鉦囃子を稽古する音が方々から聞こえてまいります。7月24日はヨドで、宵の口から境内や谷町筋に露店が並びます。この晩は冨坂にて冨新組と谷町組の山車がぶつかります。25日の昼間には御神幸が出て、梅雨も明けて暑い盛りの昼の日中を、御所車、花山、段尻、お神輿、毛槍ひねりなどの長い行列がめぐります。谷町筋から据場の元宮、広小路、上町筋など一面回りまして、辻々にて踊り舞台のついた山車が止まっては民舞踊を披露するのを常として、その道中には鉦囃子も賑やかに元気よう進んでいきますが、あの暑さでは疲労も並大抵のものではなかろうと推察します。宵の口より大勢の人が集まってまいります。露店も軒並びにて押すな押すなの大賑わい、夜も更けてまいりますと広小路にて花山がぶつかり合い、高速の鉦囃子も次第に乱調子のものすごさにて、大歓声の中のさても勇ましい光景でございます。

 ところで、かっては谷町筋がたいへん狭かったので軒先をかすめて山車の通っていたものを、道が広くなって何となく雰囲気が変わってきております。また、この2晩には中学生などの補導されることも多く警察より通達がありまして、昔よりもずいぶん早い時間に終えるようになってしまいました。踊り舞台の演目は、戦後よりずっとカセットやCDで演歌などを流して民舞踊を踊っております。それ以前は馬場尾歌舞伎の一座が演舞を披露したり、浄瑠璃をやったりしていたそうです。このようにだんだん様子は変わってきておりますけれども、今も昔も杵築の夏を告げる天神様でございます。

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 普段は静かな天神様ですが、通りがかりの方や隣接する児童公園で遊ぶ子供達がときどきお参りをしているのを見かけます。以前は杵築幼稚園の遠足の目的地にもなっていました。

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 境内にはお稲荷様などいくつかの石祠があります。その中から、妙見様の石祠を紹介します。こちらは、正面の戸を開けますと中に庚申塔(文字塔)が収められています。さて、元の妙見様はどこに行ってしまったのでしょうか。

 隣接する児童公園は、一時期木森が茂って鬱蒼としておりましたが、近年枝を下ろして明るく広々とした空間になりました。杵築市立図書館が杵築神社横からこの児童公園横に数年前に移転しましたので、市内を散策される際には図書館で史談会の冊子などに目を通しておくとよいと思います。残念ながら現地に旧町名や史蹟などの標識・説明板が乏しいので、事前に調べて地図に印をしておくとより楽しい道中になることでしょう。

 

今回は以上です。あまり同じ場所が続いてもおもしろくないので、次はどこか違う場所の記事を書いてみようと思います。少し間をあけて、このシリーズの続きも書いていきます。「その5」か「その6」くらいで終わりになりそうです。