大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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犬飼の名所めぐり その1(犬飼町)

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 犬飼町のうち、犬飼地区の名所旧跡を訪ねるシリーズの第1回目です。ひとまず写真のあるところを紹介して、途中で飛ばした名所はまたの機会といたします。

 さて、犬飼地区は大字犬飼・下津尾・田原からなります。このうち大字犬飼は旧藩時代からの旧市街と犬飼港のみの狭い範囲です。その由来は江戸時代に、岡藩の中川久清公の犬が狩りの際に病んだとき、この地で手厚い看護をしたことによるそうです。犬飼の周囲は大字下津尾に囲まれています。つまり犬飼は町方、下津尾は在方で、ある意味で両者は一体の地域であるといえましょう。初回は犬飼・下津尾のうち、大野川通船に関する史蹟をめぐります。

 

1 犬飼港跡 (●大野川通船について)

 犬飼は大野・直入地方の玄関口です。それは地理的に見ても最も大分(府内)に近いだけではなく、物流の拠点でもあったためです。内陸部の地域は交通不便であったので江戸時代以降に鶴崎・犬飼間の船便が発達しました。明治に入ってから犬飼より上流部の浚渫や、蝙蝠の滝に舟路(しゅうろ…船を通すための滑り台のようなもの)の造設により竹田まで船が上がるようになりましたが、鉄道の開通まで犬飼港の繁栄は続いたそうです。犬飼に汽車が来たのが大正6年のことで、それ以降船便は急速に衰えました。今や廃絶して久しく、各地に残る史跡にその面影を残すのみとなっております。犬飼港跡は、大野川通船に関する史蹟の代表格です。

 標識が充実しているので特に説明するまでもありませんが、一応道順を申します。国道10号は久原(くばる)交叉点から、犬飼橋を渡ります。2本の橋がVの字に架かっているうちの、右に行く古い方の橋(冒頭の写真では手前に写っています)です。橋を渡ってすぐ、踏切の手前を左折して坂道を下って行けば駐車場で、川原には河川公園が整備されています。ここから少し左(下流方向)に行けば説明板が立っています。なお久原交叉点は、ほんの20年ほど前まで交通渋滞のメッカでしたが、バイパス道路の「どんこ大橋」が開通してからは渋滞の困りがなくなりました。

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 犬飼港跡まで来ますと、古い石畳がよう残っておりますのですぐ分かると思います。その石畳に関する碑銘がありますので内容を転記します。

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犬飼港四百石の石畳

明暦二年(一六五六)の古より波路はるかに実り豊かな文化と産物が絶え間なく荷揚げされ船積みされた犬飼の港
三百三十年の時の流れに出会いと別離の織り成した泣き笑いの石畳
奥豊後の玄関口として栄華を極めた往時の面影を今にしのび時代に恋して碑銘を刻む

昭和61年春
 犬飼町
 犬飼町教育委員会
 一木秀夫 撰
 志藤尚山 書

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 石畳がなだらかな斜面になり、川の流れに落ち込んでいます。ここから荷揚げ・積み荷をしたのでしょう。対岸を見ますと護岸工事が完了しているほか、すぐ近くには立派な橋が2本も架かり自動車が盛んに往来しています。現状では江戸時代の港の賑わいを想像することは難しい状況です。けれども、流れ清らな大野川とこの石畳が、300年以上の前の面影を静かに伝えているのです。

 大野川を往来していたのはもちろん、動力仕掛けではありません。帆掛け船です。下りは川の流れに乗ればよいのですから容易いことでしょうが、上りは往生したことでしょう。追風が吹けばよいものの、それ以外のときは船から棹を差して川底を突きつつ、船子が岸から綱を引いて歩いたのです。鶴崎から犬飼までは流れが穏やかですけれども、これから先、徐々に上流に向かうにつれて並の苦労ではなかったはずです。

 なお、犬飼港は岡藩の港でしたが、この対岸(ほんの少し上流です)には臼杵藩による吐合港があったそうです。この名称は大野川と野津川の吐合に由来すると思われます。吐合港の痕跡はあまり残っていないようですが、またいつか戸上地区の名所のシリーズを書くときに紹介します。

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 説明板には、昔の犬飼港の絵が掲載されています。説明部分を転記します。

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犬飼港跡
港として生まれ、港として栄えた犬飼町

 ここ犬飼町は、江戸時代、岡城主中川公により川港として作られた港町です。ここより上流は陸路を、ここより下流は船路となるため、物流の拠点となって、参勤交代はもちろんのこと、商人をはじめとする庶民もこの港を利用し、町は多くの人で賑わっていたと伝わっています。
 荷物の上げ下ろしに使われたとされる船着き場は、石畳によって整備されていました。もともとこの河原は、大野川層群と呼ばれる泥岩と砂岩が積み重なった硬い岩石でできており、足元の悪い場所でしたが、岡藩には凝灰岩を加工して石畳をつくる技術があり、この船着き場も複雑な岩盤にはめ込む形で石畳が造られています。

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 ところで、大野・直入地方の盆踊りの演目のひとつに「猿丸太夫(さるまるだゆう)」があります。猿丸太夫と申しますと鶴崎踊りのそれを思い浮かべる方が多いと思いますが、大野・直入地方でも流行し今でも踊られています(臼杵踊り系の踊りの伝わる地域を除く)。両者は節も踊りも違いますけれども、元は同じだったものがいろいろに分かれて独自に伝承されたのでしょう。もしかしたら「猿丸太夫」の伝搬にも、大野川通船が一役買っていたのかもしれません。

大野地方の「猿丸太夫
〽猿丸太夫 コラショ
 奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の
 アラヨイヨイヨイヨイ ヨイヤサー
 トッチンチンリン トッチンチンリン

鶴崎踊りの「猿丸太夫
〽来ませ見せましょ
 鶴崎踊り いずれ劣らぬ花ばかり
 ヨイヨイ ヨイヨイ ヨイヤサー
※「猿丸太夫、奥山に…」の文句は廃絶

 

2 蔵前通りの金毘羅権現

 犬飼港跡から遊歩道を川下方面に辿り、道なりに一旦川岸に上がれば蔵前通りです。ここには金毘羅権現をはじめとして、犬飼港が栄えていた頃の史蹟が多く残っています。ここは大字下津尾のうちですが、旧市街の拡大によりこの辺りまで町方であったようです。

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 鳥居にはシメが架けられ、お花畑も手入れが行き届き、今も信仰が続いていることがうかがわれます。金毘羅様は船の安全を掌る神様として、漁業や通船に携わる方の絶大なる信仰を集めてきました。ちょうど波乗り地蔵(後ほど紹介します)に行く道中にございますので、お参りをされてはいかがでしょうか。

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 記念碑の内容を転記します。

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犬飼開港三百三十年記念碑

 港神豊後金毘羅宮 第7回氏子総会が昭和60年夏に催された折、開港330年記念事業として境内鳥居の建立、脇石灯籠舎2基の復元奉納が発議され鷲尾克己、若松鉄之助、宇野俊直、後藤利夫、久保山マサ子、杉山亨、渡辺トミ子、河野サダ子、横田成美、河野通信、一木秀夫、一木美智子、宇野克彦、若松成次、渡辺靖夫、一木あや子、宇野暢晃、宇野功二、以上18名による醵出金をその基金となし速やかに世話人による広く地域の方々への呼びかけも行い、会費5万円で発起人会が発足、引き続き1万円の入会金で期成会も設立されここに氏子共々85名が結集して、式年大祭の斎行と奉賛事業の完遂を見ることができました。金毘羅権現の悦びもまたいかばかりかと感慨無量、善男善女が心より寿ぐ佳き春を迎えました。

おらが豊後の金毘羅さまは 川の流れにラブコール

月の光を水面に映し 流れはキラリと様子する

過ぎ逝く三百三十年の いぬかい湊の恋模様

昭和六一丙寅年春 一部区 区長 一木秀夫撰

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刀掛け石

(説明板より)江戸時代、茶室に入室の武士が刀を掛けるために棚の下に据えられた石です。

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越戸茶屋跡

 説明板によれば、この石垣の積み方を「算木積み」というそうです。算木とは和算で使う計算補助具です。

 このような史蹟を左に見ながら歩いていくと、そのうち木蔭の道になります。ほどなく左側に「波乗り地蔵」の説明板が立っています。説明の都合上、その内容は後で記します。

 

3 火の道

 波乗り地蔵の説明板のところから、右方向に急な下り坂が分かれています。この道は犬飼港のうち「大名の港」と呼ばれる、参勤交代の船が発着していた港跡に至ります。その「大名の港」は大野川と柴北川の吐合にあたります。さきほど犬飼港跡の説明板にもありましたようにこの辺りは岩盤が堅いので、火薬を使って岩にひびを入れて、鶴嘴等で砕いて道をつけたとのことです。それでこの坂道を火の道と申します。

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 掘割のような急坂です。岩盤をこれだけ砕いて道をつけたのですから、よほどの大工事であったことが推察されます。やはり大名行列の通る道ですから、それなりに立派なものにする必要があったのでしょう。

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 振り返って撮影した写真です。かなりの急坂ですし、見学に訪れる方も稀なようで落ち葉が積もりがちです。転ばないように気を付けてください。

 

4 波乗り地蔵

 火の道を下り切ったら、右側の岩盤に気を付けて歩いてください。

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 波乗り地蔵と刻まれた石が設置されています。この正面の岩盤に線彫の磨崖仏がございます。こちらは保存状態がすこぶる良好であるものの、線彫でありますから光線の加減によってはどうしても見づらくなります。できれば曇り空の日にお参りされますと、細部まで見えやすいようです。

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 荒波の上に浮かぶ頼りない小舟の上に、光背を伴うお地蔵様が前かがみで立っています。お顔を見ますと、舟がかやりはしないかと心配しているように見えてまいりまして、何ともおもしろく感じました。全体的にバランスがよく、細かいところまで丁寧に表現された秀作といえましょう。

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 説明板の内容を転記します。

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波乗り地蔵
 この火の道を下ると、大野川と柴北川の合流点の大きな岩壁の西側に線彫りされた、やや前かがみの姿勢で小舟に乗った地蔵立像の「波乗り地蔵」があります。
 「波乗り地蔵」は中川公(岡藩主)が参勤交代で犬飼より府内まで下る際、安全祈願のため刻まれたという説と、雪舟が文明8年(1476)大野町沈堕の滝を描くため来たときに犬飼に立ち寄り描いたという説がある。

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今回は以上です。大野川通船の昔を今に伝える史蹟を紹介しました。簡単に一巡できますので、近隣の名所めぐりのコースに取り入れてはいかがでしょうか。次回は大字田原の名所旧跡を紹介します。