大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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犬飼の名所めぐり その2(犬飼町)

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 最近は忙しくて思うように名所や文化財の探訪ができておらず、過去の写真を使った記事が続いています。今回は犬飼地区のうち大字田原の名所旧跡を紹介します。この地域で有名なのはなんと申しましても犬飼石仏です。こちらは大型の磨崖仏をはじめとして各種石塔群も素晴らしく、犬飼町を周遊される際には必ず立ち寄るべき名所中の名所でございます。ほかにも数か所、適当な写真が手元にあるところを掲載して、不足分はまたの機会といたします。

 

5 渡無瀬の庚申塔

 国道326号を菅尾方面に行きます。豊肥線のガードをくぐってすぐ、犬飼石仏の標識に従って右折して大野川べりの道(国道326号の旧道)を行きます。また石仏の標識がありますのでそれに従って右折して踏切を渡れば渡無瀬(となせ)部落です。道なりに行けば、道路右側に庚申塔やお弘法様などが並んでいます。道が狭くて車を停められません。もしゆっくりお参り・見学されたい場合は、大野川べりの道から右に上がらずに一旦行き過ぎたところに公共駐車場がありますから、そこに停めて歩いて行くとよいでしょう。

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 こちらの庚申塔は文字塔で、銘はほとんと消えていました。きれいな舟形の塔です。その隣の大きな石造物も庚申塔のような気がしますが、確証を得ません。中央には龕をなして、五輪塔か何かの残欠と思われる石造物が安置されています。龕の形状からして、もとは舟形の石仏がおさまっていたのではないかと思います。お弘法様の御室は屋根が立派です。近隣の方のお世話が続いているようで、新しいお花が上がっているのを何度か見かけたことがあります。

 

6 犬飼石仏

 庚申塔を過ぎて道なりに上って行けば、左側に桜の広場があります(冒頭の写真)。そのすぐ上、渡無瀬公民館の辺りで道幅がたいへん広くなっているので、路肩に寄せて邪魔にならないように駐車します。

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 車を停めたら「国指定史跡 犬飼石仏」の大きな看板が目に入ります。ここから参道の石段を上がってもよいのですが、車道を進んだところから折り返すように境内に入り、帰りに石段を下ることをお勧めします。その方がいろいろな文化財を見落とす可能性が低くなります。

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 車道沿いにただ1基、五輪塔がございます。この石垣の上が犬飼石仏の境内で、崖下にたくさんの五輪塔などが寄せられておりますが、もしかしたらそれらの中には、この道沿いに立っていたものもあるのではないかと推量いたしました。

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 車道から境内に入ったところです。手前右は与謝野晶子の歌碑です。記された和歌を転記します。

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犬飼の 山の石佛 龕さえも ともに染みたり 淡き朱の色

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 私がお参りをするときはいつも昼の日中ですが、この歌を読んで、いつか夕焼け空に雁が渡る頃に寄ってみたくなりました。左の崖下には五輪塔をはじめとする多様な石造物がずらりと並んでいます。磨崖仏は奥の堂様の中の岩壁にございます。

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 磨崖仏の堂様の隣には、弘法大師堂がございます。その背後の岩壁には立派な書体で「南無大師遍照金剛」の名号が刻まれています。また、写真の左上には「龍」の字が見えます。見切れてしまっていますが、磨崖仏の真上に右横書きで「龍傳山」と刻まれています。「山」の字のところが崩落しているのが惜しまれます。

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 形の整った五輪塔もありますが、転倒・損壊したものも多々あります。左端の石造物には「金剛…」の銘がありました。その右の折れた碑には「典日本回国」「延岡」などの銘が残っています。おそらく「大乗妙典日本回国」と思われます。お六部さんの塔でありましょう。その隣の「宗仁金(仝?)」とは一体、どのような意味でしょうか。不勉強で分かりませんでした。

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 五輪塔の造形の素晴らしさに目を奪われますが、ほかの石造物にもいろいろと興味深いものがございます。写真の右端は宝篋印塔で、優美な格狭間が見事です。もし塔身が残っていたらさぞや立派なものであったことでしょう。その左に折れて倒れているのは庚申塔で、上部の円の中に「庚申」、その両側に梵字が2つ彫られていました。下部には漢文の銘が残っています。

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 こちらの仏様はお慈悲の表情、爪先を揃えた立ち姿など何もかもが優しそうな雰囲気で、一目拝見して大好きになりました。

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 境内の石造物はかなりの数ございます。今回、その一つひとつの写真を撮っていなかったので詳細の説明はできませんでしたが、立派なものばかりです。これ以上破損が進まないことを願うています。また、写真では分かりにくいと思いますが堂様の外壁に接するところの岩壁に、線彫りの宝塔と板碑がございます。失礼ながらその表現は稚拙で、今から紹介する磨崖仏よりもずいぶん時代が下るものと思われます。

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 説明板の内容を転記します。

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犬飼石仏

 この犬飼石仏は阿蘇凝灰岩の岩壁に半肉彫された、本尊不動明王と脇侍仏の二童子からなっております。本尊不動明王は、高さ3.76mの大坐像であり、脇侍仏は向って右側合掌姿が矜羯羅童子で高さが1.7m、左側の金剛棒を持って立っているのが制叱迦童子で高さが1.73mあります。
 本来、不動明王は恐ろしい形相をしているものですが、本不動明王の顔は極めて温顔であり、半眼(左眼を墨で一線書きにしているため片目をつむっている状態です)で民衆を浄化しております。また、両脚を組んで、足の裏をはっきりと表面に向けて坐る結跏趺坐の表現も興味深い点であります。
 この石仏は伝えるところによると、日羅によって彫られたといわれておりますが。その一面鎌倉時代以前の古い様式がうかがわれるため、制作時期は平安時代まで遡る可能性も考えられております。
 石仏上方の岩壁には「龍伝山」の三大朱文が彫られ、また、堂側右岩側にある「南無大師遍照金剛」の八大文字はかなり時代が下がり刻まれ、厚い大師信仰をしのぶことができます。境内には外に、永徳2年(1382年)の刻銘のある石造五輪塔、堂右には洞龕のミニ五輪塔群があります。
 当石仏は昭和9年1月22日に国の史蹟として指定されております。

平成15年10月 犬飼町教育委員会

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 説明板にもありましたように、一見してお不動様とは思えないほど温和なお顔でございます。結跏趺坐、足の裏が見えるような坐り方もよう表現されています。ほんにありがたい仏様ではありませんか。その霊験を求めて、遠方からのお参りも多いそうです。

 それにしても、全体に朱や墨が残り、細かい彫りまでほとんど傷まずに残っている保存状態のよさに驚嘆いたしました。この大きな磨崖仏をどのようにしてこしらえたのでしょうか。岩壁に墨などで目印をつけたとて、鑿を振うときには岩壁に近接しているのですから、全体を見渡すことはできません。1ヶ所でも彫りすぎてしまえばその修正は困難を極めることでしょう。それをこれほど均整のとれた姿に仕上げたのは余程の計画性と技量、集中力によるものと思われます。仏様のありがたさはもとより、こしらえた方の技術の素晴らしさにも思いを致しまして、しばらく茫然としてしまいました。

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 岩壁に彫られた南無大師遍照金剛の名号の真下におわしますお弘法様です。お参りをしたとき、お灯明立に蝋燭が残っていました。

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 石段を下って駐車場所に戻るとき、左側に気を付けてください。壊れた五輪塔の後ろの岩壁に矩形の龕を斜めに配して、その中には一石五輪塔が収められています。さきほど紹介した立派な五輪塔の数々に比べますと、ほんに素朴な造形でございます。昔の方の信仰が感じられる文化財でありますので、こちらも見落とさずに見学していただきたいと思います。

 

7 渡無瀬の弁天様

 渡無瀬公民館下の広場(冒頭の写真)のところから、弁天様への道が分かれています。近くに案内板があるのですぐ分かります。この道は軽自動車であれば問題なく通行できそうでしたがそう遠くないので、お参りの際には犬飼石仏下に車を置いたまま、歩いて行くことをお勧めします。舗装路を道なりに行き、行き止まりの広場を左に行きますと弁天様の祠に出ます。

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 残念ながら灯籠などは壊れていましたが、弁天様の石祠は無事残っています。この小山にステップを刻んで、正面まで上がれるようになっています。落ち葉を枝で掃うてから通るとよいでしょう。

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 8臂の弁天様でございます。8本の腕が違和感なく表現されていますし、全体的にバランスがよく秀作であると存じます。優しそうなお顔立ちと光輪の印象から、ほんに親しみやすい雰囲気がございます。この地域を昔から守ってくださったありがたい弁天様。私は部外のものでありますけれどもなぜか非常に愛着を覚えまして、近隣地域の安泰をお願いいたしました。

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 御室の屋根の破風には右横書きで「辨財天」、その上には蓮の花と梵字が彫られています。もしかしたら、誤字ではないかと思われた方もおいでになるかもしれません。「弁」の旧字は「辨(辧」「辯」「瓣」の3字があって、夫々意味が異なります。簡単に書き分けますと「辨別」「辯護」「花瓣」です。「弁財天」は本来「辯財天」ですので一見してこの御室の「辨財天」は誤りのようにも思えますけれども、実際は「辨財天」の用字も通用していたようです。3つの異なる字をすべて「弁」としたので、今は書き分けで迷うことはありません。

 

8 細長橋

 車に乗って来た道を後戻り、踏切を渡って川べりの道(旧国道)に出たら右折して千歳村方面にまいります。ほどなく「細長橋は通行止めです」の旨の看板が立ち、その先に大野川にかかる立派な橋が見えてきます。

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 一旦遠ざかり、振り返って撮影した写真です。対岸は三重町は菅尾地区、細長部落です。細長側(臼杵領)には大野川通船の細長港がありました。明治9年に沈堕の滝の下まで船が上がるようになり、細長には商店が増加したいへん賑おうたそうです。当時、この場所に橋はなく渡し船が往来していました。その後、長年の悲願がやっと叶うてこの細長橋がかかったのが昭和6年のことです。

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 この橋は7つの桁をもち、当時の架橋としてはたいへん大規模なものです。橋脚は古い線路橋などで見かける切石積で、桁の中央部のみトラス橋になっていますので遠目に見ますと線路橋のようにも見えます。

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 国道326号の新道が開通してもなお活躍した細長橋も、竣工70年あまりが経ち老朽化が進んだことから、平成17年より通行止め・立入禁止になっています。でも、昭和初期の土木技術の粋の結晶であるこの名橋が取り壊されることなく保存されておりますのは、何よりでございます。文化財には指定されていないようですから、今後自然災害等で破損すれば修繕されることなく取り壊される可能性が高いと思われます。今のところは今日明日どうにかなりそうな状態ではありませんから、近くの名所旧跡を訪ねる際には車窓からでも見学されることをお勧めいたします。

 

今回は以上です。犬飼地区のシリーズは一旦お休みとして、またいつか追加の写真があれば続きを書きます。次回は朝来シリーズの続きです。