大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

深秣の名所めぐり その3(三光村)

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003426j:plain

 長谷寺に2回を費やして、しかも両方ともかなり長い記事になりました。今回は手短に、さっと済ませようと思います。井堀の不動堂、香紫庵、金現観音堂、加来どんの墓をめぐります。この中でも金現観音堂は皆さんにお参りをお勧めしたい名所です。

 

3 井堀の不動堂

 前回からの続きで、長谷寺駐車場を起点に説明します。三光インター方面に少し下れば、道路端に堂様がございます。ちょうど三叉路になっているところが広いので、路肩に寄せれば1台は駐車できます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003433j:plain

 この堂様はコンクリートブロックづくりで、簡素な建物です。屋根が傷んできているようで、台風等の被害が懸念されます。中には半肉彫りのお不動様と庚申塔猿田彦の刻像塔)が安置されています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003438j:plain

 堂内はきれいに掃き清められ、お供えがあがっていました。お不動様は素朴な造形で、足を揃えて行儀よう立つ姿には親しみやすい雰囲気がございます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003441j:plain

猿田彦、1猿、不詳像

 猿田彦の刻像塔は、猿田彦のみを彫出していることが多いような気がします。それが、こちらは日月(彩色あり)や猿を伴い、青面金剛の刻像塔と同様の趣向でこしらえてあるのが興味深く感じました。主尊のお顔を見ますと、一般に猿田彦像として思い浮かべる髭をたくわえたおじいさんの顔ではなくて、青面金剛のように見えてまいりますのもおもしろいではありませんか。首をかしげる所作はまさしく猿田彦のそれでありますし、その立ち姿はガニ股にて杖をついており、やはりどう考えても猿田彦像です。ただ1匹刻まれた猿は、稚児がだだをこねているように見えてまいります。可愛らしい猿です。その隣にも何か彫られていますが、まじまじと見てもよう分かりませんでした。鶏ではなさそうです。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003444j:plain

 屋外にも庚申塔が何基か立っています。銘はほとんど消えてしまって、読み取りは困難でした。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003447j:plain

 写真に写っている以外にも、つつじの左側にも数基の塔が確認できました。

 このすぐ近くには開山堂がございますものを、お山巡りの疲れからつい寄らずに済ませてしまいました。後になって、立ち寄ればよかったと悔やんでいるところです。またいつかお参りしたいと思います。

 

4 香紫庵

 不動堂から三光インターの方に下っていくと、道路端に香紫庵という堂様があります。その境内には五輪塔や宝塔などいくつかの石造物が並んでいます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003452j:plain

 右の碑銘には「月之輪墓」、台座には「秣中」とあります。長谷寺の下で見かけた「浦風墓」と同様の石造物です。相変わらず詳細が分かりません。「浦風墓」を見たとき、お相撲さんのお墓かなと思うたのですけれども、「月之輪」とはあまり四股名のような感じがしませんので、ますます分からなくなりました。

 宝塔や五輪塔の写真を間違えて消してしまいましたので、説明板の転記でもって代えます。道路端にあって簡単に見学できますので、長谷寺に行かれる際にはちょっと車を停めて立ち寄ってみてください。

~~~

市指定文化財 香紫庵宝塔

室町時代から桃山時代に建立したものと推察される供養塔である。塔身に四方仏を示す種子(仏・菩薩または種々の事項を標示する文字)が陰刻されている。

市指定 昭和52年4月1日
昭和53年1月 中津市教育委員会

~~~

 それにしても香紫庵とは、ほんに風流な名前ではありませんか。この堂様の由来が気になります。いつか図書館で『三光村誌』を見て、調べてみようと思います。

 

5 金現観音堂

 香紫庵からさらに下り、県道664号に突き当たったら右折します。道なりに犬丸川を渡り、左手に分かれる最初の二車線路(県道666号)に入ります。家並みが途切れて坂道を上っていき、最初に分かれる左方向への細い道をさらに登りますと山の上の方を通る広域農道に突き当たります。左折して少し行くと、右側に「金現観音堂」の立札が立っています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003502j:plain

 参道入口です。下の空き地に2台程度は駐車できます。訪れたときはちょうど桜のさかりで、なかなかよい景観でした。いよいよ期待感が高まってまいりまして、長谷寺のお山めぐりで疲れた足腰を奮い立たせて参道の急坂を勇み足で登りました。

 なお、この参道は旧来のものではないような気がいたします。広域農道が開通したのはそう昔のことではなさそうですが、この入口に行き着く道は広域農道経由以外にはありません。参拝の利便性を考慮して、広域農道からの道をつけたのでしょう。あとで旧参道と思われる道も紹介します。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003509j:plain

 境内に上がりついてあっと驚きました。幅広の岩壁を帯状に削って棚をこしらえ、仏様がずらりと一列に並んでいます。台座のみになっているものもありましたが、ざっと数えて80程度はありそうでした。一見して、寄せ四国の類であろうと推測いたしました。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003513j:plain

 山の中に点在していた札所を堂様に下ろしたのであれば、わざわざ帯状に岩壁を削って一列に並べたりはしないと思います。堂様の中に雛壇上に並べるのではないでしょうか。このことを踏まえて、こちらは、はじめからこのようなお祀りの仕方であったと考えられます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003519j:plain

 堂様の左側のうち、端の方はめいめいの龕をこしらえています。堂内のお観音様にお参りをして、岩棚に並ぶ仏様をまじまじと眺めておりますとおもしろいことに気付きました。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003523j:plain

 仏様のやや上に、小さな龕を無数にこしらえてあるではありませんか。中に何かを収めるには彫りが浅いし、そもそも小さすぎます。もしかしたら磨崖碑の類かもしれませんが文字は確認できず、説明板もなかったので何のことやら分からずじまいです。文化財には指定されていないようで、インターネット上にもこの情報がほとんどありません。そもそも、金現とは何でしょうか。もし地名であるならば、ずいぶん風変りな地名です。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003527j:plain

 端の方の、めいめいの龕に安置された仏様です。台座の部分に三番、五番など若い番号が確認できました。こちら側から順々にお参りをしていくのでしょう。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003532j:plain

 めいめいの龕の先には掘割状の通路があります。明らかに人為的なものであり、こちらが旧参道であろうと推量いたしました。こちらから境内に入れば、一番札所の仏様から出会うことになり理にかなっています。

 この掘割を抜けたら、道が左右に分かれています。先に左に行ってみたら、下を通る広域農道に出る坂道につながっていました。この坂道が旧参道であると思われます。

 

6 加来どんの墓

 金現観音堂から旧参道と思われる坂道を下って広域農道に出たら、参道上り口に「加来どんの墓」の標柱がありました。それで分かれ道のところまで後戻って、直進(観音堂からなら右折方向)してみました。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003541j:plain

 気持ちのよい山道です。迷いやすそうな場所ですが、幸いビニール紐を張ってくださっていましたので、その紐に沿うて歩いて行くだけで簡単に「加来どんの墓」まで行きつくことができました。傾斜がなだらかで、歩きやすい道です。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003545j:plain

 標柱には「加来どんの墓」と書いてあります。説明板は何もなく、いったい「加来どん」がどなたなのかさっぱり分かりませんでした。「〇〇どん」の呼び方には親しみが感じられますから、地域の中で人望を集めた方であったのでしょう。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220402003549j:plain

 こちらが「加来どんの墓」です。墓碑の形状から、そう古いものでもないような気がいたします。積石にて塚をなし、お花があがっていました。どなたか存じませんがこれもご縁と思いまして「加来どん」に手を合わせて、気持ちのよい山道を後戻って無事車に戻りました。

 

今回は以上です。この地域に不案内であるために、金現観音堂や「加来どんの墓」の由来が分からなかったのが惜しまれます。三光村についてもっとよく知りたいと思いました。当日「きりずしのトンネル」にも行こうと思うておりましたものを、長谷寺のお山めぐりに時間がかかったのでまたの機会に持ち越しとなりました。適当な写真がなくなったので深秣のシリーズは当分お休みとします。