大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上伊美の名所めぐり その1(国見町)

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 上伊美地区の名所旧跡をめぐるシリーズです。上伊美は大字野田・千灯(せんどう)・赤根からなります。この地域の白眉は、何と申しましても千灯寺に関連する史蹟群です。その景勝や数々の文化財は訪ねる人の心を惹きつけてやみません。ほかにも石造文化財の数多うございまして、上伊美地区全体をくまなく探訪するにはただの一日では到底足らないという奥深さがございます。今回はこのシリーズの第1回目として、大字野田のうち新涯(しんがい)部落の庚申塔を中心に紹介します。

 

1 新涯の八坂神社

 国道213号から県道31号の旧道を内陸方面に進みます。しばらく道なりに行き、現道と交叉する手前の道幅が少し広くなっているあたり、右側に鳥居が見えます(冒頭の写真)。路肩ぎりぎりに寄せて邪魔にならないように駐車して参拝しましょう。

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 鳥居には「牛頭宮」とあります。牛頭(ごず)様、牛頭天王とは祇園精舎の守護神で、その本地は薬師様であると申します。のちに素戔嗚尊(すさおのおのみこと)と習合しました。いわば神仏習合の神様であったのが、明治に入ってからの神仏分離の際に権現名号と並んで槍玉にあがりまして、全国各地にあった牛頭社は八坂神社に改称させられたのです。このような経緯があるので、今でも八坂神社のことを「牛頭さま」とか「祇園さま」と呼び習わしている事例が方々に見られます。こちらの八坂神社も、一般には「牛頭さま」と呼んで親しまれています。

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 参道石段の中程で仁王様が睨みをきかせています。名称を「牛頭宮」から「八坂神社」に改めたところで、こういったところに神仏習合の名残がよう残っています。もっとも、国東半島各地においては神仏分離に際して神社の仁王像や石塔類を近隣のお寺や堂様に移した等の事例が多々ありますから、或いはこちらの仁王様も一旦よそに移されたのがまた元の場所に戻ったという可能性もあります。または「運び出そうとしたが重くて無理だった」という例もありますから、この場所に留まり続けた可能性もあるわけです。まったく、神仏分離令というものは古来からの信仰のあり方を無視した、ほんに馬鹿らしい命令でありました。その弊害は数知れず、石塔を動かそうとして破損した等も多々ありまして、貴重な文化財がたくさん喪われてしまったのです。

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 あまり大きくはないものの、さても厳めしいお顔立ちや肋骨の様子などに強そうな感じがよう出ています。金剛杵を耳元にかかげる所作が、怒りのクレーム電話をしているようにも見えてまいりましておもしろく感じました。

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 吽形の方もすばらしい。二の腕の力こぶや、立ち方など格好がよいではありませんか。しかも衣文の裾まわりがドレープ状になっているところなど、全体的に自然な表現でよいと思います。

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 境内に上がり着いて左側には猿田彦の刻像塔がございます。国東半島の庚申塔の中でも、猿田彦の作例は数少のうございます。

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猿田彦

 首がもげるのではなかろうかと心配してしまうほど、ものすごく首を捻じ曲げています。虚空を見上げているやら物思いに耽っているやら、ほんに珍妙なお姿ではありませんか。両手で斜めに杖をつき、衣紋には何らかの文様が見てとれます。猿田彦は葉っぱの衣を纏うているそうですから、きっとそれを考慮しての文様なのでしょう。見事なシメがかけられ、信仰の篤さを物語っています。

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 境内の一角にある摂社です。近隣の小社を合祀したものでしょう。

 

2 新涯堀池組の庚申塔

 適当な駐車場所がないので、車を八坂神社下に置いたまま歩いて行くことをお勧めします。八坂社近くの十字路を右折して新道をしばらく行きます。道路右側に大型の庚申塔が立っているのですぐ分かります。

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 総高が3m近くもあり、国東半島にある庚申塔の中でも最大と思われます。新涯部落には八坂神社、堀池組、大年組、植松組(下り松)、成次の5箇所に庚申塔がありますが、概ね小型のものが多い中でこちらは群を抜いて大きく、異彩を放っています。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼

 碑面が徐々に荒れてきておりまして、特に日月は分からなくなってしまっています。主尊は口をヘの字に曲げていますけれども、見方によってはお慈悲の表情にも見えます。眼が、白目を剥いているようにも見えますし、または厚ぼったい目を閉じているようにも見えるのです。前者であればさても恐ろしげなお顔になりますけれども、後者であれば慈悲深うございます。腕を見ますと長さがまちまちで、その曲がり方なども失礼ながらいい加減な感じがして、あまり洗練された表現とは言い難い気がいたします。でも衣文の下部など細かい彫りがよう工夫された箇所もあります。この部分には僅かに彩色の痕跡が認められました。

 童子はほとんど消えかかっているのが惜しまれます。注意深く見れば振袖さんの立ち姿が見えてきます。邪鬼も分かりにくくなっています。猿と鶏は並び方がかわっていて、鶏は向かって左端に、右を向いて上下に並んでいます。そしてその右並びに、猿が「見ざる言わざる聞かざる」でしゃがみこんでいるのです。これだけ大型の塔であれば猿と鶏を別の段に並べることもできたような気がしますけれども、おそらく下部に講員の方のお名前を刻む関係で余白を広くとりたくてこのように表現したのでしょう。新涯部落の庚申塔の中ではもっとも人目につきやすいので、通りがかりにでも見学をお勧めいたします。

 

3 下り松跡の石造物

 こちらは行き方が難しいので詳しく申します。堀池組の庚申塔の横の道を上って、突き当りを右折します。ほどなく「くにさき六郷舎」の建物が左右にあります。そのすぐ先から左に上がる細道からも行けるのですが、ここからだと道順が分かりにくいのでこの細道は無視して車道を進みます。すると右側に小さな墓地があります。その墓地への下り口のあたりまできたら、左側の竹藪の間から小道を登ります。

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 ここが車道からの入口で、車で通ったら見落としてしまいそうな道です。側溝に蓋をしているのが目印です。ここから先は道が荒れ気味ですので、歩きやすい靴で、できれば杖を持って行くとよいでしょう。マムシの被害も懸念されますから、できれば秋から冬がよいと思います。

 谷川に沿うて、元は耕作されていたと思われる段々を横に見ながら登っていきます。すると古いめいめい墓のところに出ます。ここが一見して突き当りのようになっていてつい左右どちらかに行きたくなりますが、左から回り込んで段差を上がり、直登します。ほどなく正面の崖上に五輪塔庚申塔が見えてきます。

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 右側から小道を上がれば、簡単に上に登ることができます。

 ところで、初めてこちらに訪れたときは「六郷舎」横の小道から上がったものですから、その先にいくつもあった分かれ道をどう行けばよいのかさっぱり分からず適当に進みました。たまたま行き当たりまして、石塔群が見えてきたときには喜びのあまり手踊りの首尾でございました。帰りはここからまっすぐ下ってみますと車道まで一本道であったので、今回はその道順で説明したというわけです。

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庚申

 墨書の銘がわずかに残っております。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 残念ながら風化摩滅が著しく、主尊の腕の数の確認は困難を極めました。それにもまして、童子や鶏はほとんど消えてしまい、痕跡を残すのみとなっています。猿は、写真では分かりにくいのですが実物を見ますとそれなりに分かります。こちらは植松組の庚申塔で、昔はここまで上がってお祭りをしていたそうです。

 隣に小さな碑銘があります。それによれば「下り松跡」とのことで、樹齢は約400年であったと伝わっているそうです。こちらにあった「下り松」なる銘木はところの名物で、往時は近隣の樹木が茂っていなかったので麓からもその枝ぶりがよう見えたと聞き及びます。

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 近くの五輪塔群です。中には一石五輪塔もあります。おそらく大昔の方のめいめい墓でしょう。

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 お稲荷様の石祠もありました。下り松周辺は、今は荒れていますけれども昔は信仰の場であったことが推察されます。

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 小さな板碑が斜面に倒れかかっていました。このほかにも壊れた板碑がいくつか確認できました。

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 お稲荷様の祠の横には龕をこしらえています。中の仏様は見当たりません。里に下ろしたのでしょうか。庚申塔のすぐ近くですから、いろいろな石造物を注意深く捜してみてください。

 

4 新涯大年組の庚申塔

 こちらも行き方が難しいので詳しく申します。下り松跡から車道に下りたら左に進みます。しばらく行くと右側に岡本鉄工の建物が見えてきます。その駐車場への下り口まできたら、左側にお墓があります。ここからお墓左側の細道を登っていきます。はじめは舗装されていますが、すぐに荒れてきます。歩きやすい靴で、やはりマムシの時季は避けた方がよいでしょう。

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 昔、この辺りは段々畑であったようです。その水路跡に沿うた小道が、石垣が崩れて歩きにくくなっています。転ばないように気を付けて登っていきます。

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 そうこうすると谷川道の様相を呈してまいります。雨降りのあとはじるいので、天気のよいときにしましょう。この先で、みかん山のパイロット道と思われる軽自動車の幅の道路と交叉します。これは無視して、正面の急坂を上ります。

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 坂道を登り詰める直前の右側に庚申塔が見えます。かなり近づかないと見えづらいので、行き過ぎたのではないかと不安になるような道です。初めて訪れたとき、入口は分かっていたもののそこから先が全く分からず、適当に進みました。右往左往してやっと到着しましたので嬉しかった覚えがあります。

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青面金剛6臂、3猿、2鶏

 一目拝見して、こちらの庚申様が大好きになりました。まず瑞雲がお花模様のような表現で、優雅な雰囲気です。主尊はターバンを巻いているのか、または坊主頭なのか定かではありませんけれども、卵型の輪郭に穏やかなお顔立ちがよう合うております。一般に青面金剛と聞いて思い浮かべるような厳めしさは微塵もなく、今は荒れるに任されている段々畑や麓の部落を優しく見守ってくださっているかのようです。体前に回した手は合掌しているのかなと思うたら、よう見ますと定印を結んでいます。ストンとしたシルエットの衣紋から覗く足は裸足で、その指先まで丁寧に表現されているのに感心いたしました。

 この写実的な主尊に対して、猿や鶏の多分に漫画的な表現がまたおもしろうございます。特に猿のおどけぶりはどうでしょう。見ざる言わざる聞かざるの腕にて、ガニ股でやっこらさのさと立つ姿の珍妙なることといったらありません。優しくて、楽しくて、親しみ深い庚申様でございます。今は誰も通らなくなった山道に寂しく立っています。これからも粗末になることなく、長く今の姿が保たれればと思います。

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 刻像塔の真後ろには、文字塔が密接しています。或いは庚申石かもしれません。刻像塔を支えるつっかえ棒のようになっています。なお、この辺りでは庚申塔以外の石造物は見当たりませんでした。

 

今回は以上です。植松組の庚申塔(下り松跡)と大年組の庚申塔は行き方が難しいので、詳しく説明しました。新涯部落のうち成次の庚申塔はまだ行ったことがないので、またの機会に紹介します。次回は大字赤根の名所旧跡を掲載します。