大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その4(真玉町)

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 今回は大字黒土のうち、三畑(みはた)の名所旧跡をめぐります。中でも足駄木の磨崖仏は、このシリーズの中の目玉といってよいでしょう。

 

○ 三畑について

 黒土中村から堀切峠を越して、西都甲(旧豊後高田市)は一ノ払部落に出ます。一ノ払から西都甲の谷を上れば三畑です。地図上では地続きの土地ですけれども、黒土の谷から車道経由で三畑に行くには必ず西都甲を通らなければならず、いわば飛地のような位置関係になっているのです。谷筋の奥詰めにて、昭和末期までは車輌交通に限って言えば袋小路のような土地でありました。通称「はちまき道路」の開通や旧来の道路の改良により昔にくらべればずいぶん便利になりましたが、林業の不振や通学の問題等もあり、三畑の人口は減少の一途をたどっています。

 さて、三畑は山ノ口・足駄木(あしだぎ)・峠・龍ヶ谷(りゅうがたに)の4部落からなりますが、人口の減少が著しくただ1軒を残すのみとなった部落もあります。この状況にあっては旧来の年中行事の継続や耕地の維持管理には甚だ困難を来していると存じます。けれども、あちこちに残る素朴な信仰の痕跡や棚田の跡、古い道などといった文化財・史蹟は、山田を拓いて暮らしを立てた昔の方々の面影を今に伝えます。物的な価値にくわえて地域の生活史としての価値を見出せば、指定の有無によらで等しく大切なものであると言えましょう。興味関心を持つ方が増えて、粗末にならずに長く残ってほしいと願っています。

 

13 山ノ口の山神社

 西都甲は天念寺を起点に説明します。県道を上っていくと、一ノ払部落にて左方向に堀切峠への分岐があります。それを無視して先に進めば人家が絶えて、いよいよ傾斜が急になります。この辺りも道路改良が著しく、中央線のある立派な道になりました。しばらく行くと、右側に1軒の空家があります(坪に石祠あり)。山ノ口部落に着きました。その家の手前を右折して細い道を下れば、ほどなく左側に山神社がございます。ちょうど神社の下が広くなっているので、路肩に寄せて邪魔にならないように車を停めます。

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 拝殿の状態がよく、そう古い建物ではないような気がします。しかし鳥居が壊れてしまっているほか、石段も崩れています。左の方の石垣も傷んでいます。気を付けて上がれば問題ないように思えましたが右の方から回り込む坂道がありますので、迂回して境内に上がりお参りをいたしましょう。

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 道路端に壊れた鳥居の部材を重ねて置いてあります。その後ろのやや高くなったところに壊れた仁王像が立っていました。苔に覆われ、遠目に見ただけではそれと分かりません。腕や頭が失われて、ほんに痛ましいばかりでございます。廃仏毀釈の煽りを受けて破損したものと思われましたが、ほかにもいくつかの説があるそうで定かではありません。これほど傷んでいてもそれぞれきちんと立っている点に、素朴な信仰心が感じられます。もし何の思いもなければ倒れたままになっていたり、または谷底に打ち棄てられたりしているのではないでしょうか。

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 仁王像の後ろ、シュロの木の蔭には傷んだ石祠がございます。その手前に鳥居の扁額を立てかけてありました。

 

14 山ノ口の堂様

 山神社をあとに、少し行けば先の方に山ノ口の中心部の家並みが見えます(冒頭の写真)。今は1軒か2軒を残すのみとなっているようです。この家並みの方に行かずに、神社からすぐのところを右折して足駄木への道に入りますとほどなく、道路端の崖下に堂様がございます。適当な駐車場所がありません。通る車は皆無の状態ですが道幅が狭いので、神社から歩いて行くとよいでしょう。あっという間の距離です。

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 荒々しい断崖の真下の堂様は傷みが激しく、台風被害等による倒壊が懸念されます。床板を踏み抜くといけないので、外からのお参りにとどめました。

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 中の仏様です。向かって左端は木彫りの仏様のようです。蓮華座など、細かい彫りがよう残ります。その隣は下部が大きく破損していますが、牛乗り大日様ではなかろうかと推量いたしました。後輩の細かい文様と彩色、お顔の表情の慈悲深さなど素晴らしい造形であり、破損していなければ文化財に指定されていてもおかしくないレベルのものであると存じます。右側には真四角の石に対の仏様を薄肉彫りにしたものが3基並んでいます。一つひとつ造形が異なりますが一連のもののような気がいたします。

 人口の減少が著しく、堂様の補修に困難を来していると思われます。どうか壊れませんようにと願うしかできませんが、少しでも多くの方が気にかけてお参りをされますと荒廃を防ぐことができるかもしれません。

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 古い道標が置いてあります。元々は別の場所に立っていたものを移したと思われます。変体仮名を調べつつあれやこれやと考えてみましたが、傷みがひどくてどうしても読み取れませんでした。右は「くまんせを」、左は「もんしゆ」のように見えます。左は「文珠」でしょうが「くまんせを」などという地名は思い当たりません。この道標の内容を御存じの方は教えていただきたく存じます。

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 堂様の並びには、岩蔭に台座をこしらえて、龕のような造りの石が置いてありました。中は空になっていて、いったい何であったのか全く分からない状況です。

 

15 足駄木の磨崖仏

 山ノ口から堂様の前を通って奥へ奥へと行けば、足駄木部落に着きます。足駄木までは普通車までなら通れる幅があり、舗装されています。

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 足駄木部落から歩いて並石(なめし)に越す古い道(車不可)に磨崖仏がある旨を『真玉町誌』で読んでいたのですが、詳しい場所や上り口が分かりません。地域の方に尋ねようにも人の気配がありませんでした。この部落には7~8軒程度の屋敷があるように見受けられましたが、ほぼ全てが空家のようです。

 このような経緯で、古い道を完全に紹介することはできないのですが、上から捜して無事磨崖仏を見つけることができました。ここではそのルートを説明します。来た道を一旦後戻って、通称「はちまき道路」まで上がり走水峠方面に向かいます。仁ノ田トンネルの直前、左側に広い駐車スペースがあります。そこに車を置き道路を渡れば、先ほど申しました足駄木から並石に越す古い道の半ばに出ます。

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 「はちまき道路」から旧の山越道に入ってすぐの風景です。下り方向に進んでいきます。上り方向は簡易舗装がなされておりますものを、下り方向は昔のままの状態です。

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 少し下って振り返った写真です。この左側の土手の上を、「はちまき道路」が取っています。ポイ捨てをする不届き者があるようで、ゴミが目立ちます。いかにも昔の山越道らしい風情のある道なのに、ゴミのせいで嫌な気持ちになりました。

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 ここから下は「はちまき道路」から離れていきますのでゴミもなく、いよいよ気持ちのよい道になってまいります。でも山道歩きの楽しさにかまけて先へ先へと進んでしまいますと、磨崖仏を見落とします。右側に気を付けながら歩いてください。上の道路からすぐのところです。

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 小川に平石を渡してあるところが目印です。逆光で見えづらいと思いますが、写真上の方の岩壁に仏様が写っています。ここから川を渡って、左上の方にトラバースしていきます。足元がじるいと滑落が懸念されますので、雨上がりの日は避けましょう。

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 夢にまで見た足駄木の磨崖仏をこうして間近に拝むことができ、わたくしは感激いたしました。しかも車道からあっという間の距離であったのです。この真後ろは「はちまき道路」の土手なのですから―

 さて、一見して分かるのは大きなお不動様でございます。腕をとんでもない角度に曲げていたり、光背が異様に幅広であったりと、個性豊かなお姿は一度見たら忘れられません。さらに、主尊の両側にも何らかの像が彫られています。三尊形式であるのでしょう。両側の仏様は彫りが浅く、植物の影響もあって見えづらくなっているのが惜しまれます。

 こちらの磨崖仏は、足駄木部落の方が病気治癒と村の平穏を願うて昭和8年に造立されたとのことです。年代的に新しいこともあるのでしょうか、全くもって等閑視されている状況であり、豊後高田市がこしらえた『豊後高田の磨崖仏』パンフレットにも残念ながら掲載されていません。

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 すぐ右側にも1体の仏様が確認できました。こちらはお弘法様とのことです。計4体の磨崖仏を見つけたわけですが、私が気付かなかっただけでほかにもあったかもしれません。

 足駄木の磨崖仏は、六郷満山の文脈からは外れます。けれども地域の方の生活に根差した信仰の痕跡として、大切に保存されるべき文化財であると存じます。足駄木部落はもとより三畑全体の人口の激減により、こちらの磨崖仏の信仰も今や絶えんとする状況であります。地域外の方は、存在を知らないので誰もお参りに来ません。このすぐ裏の道路を何台もの車が通りすぎます。中にはこのような文化財に興味関心のある方もおいでになると思いますが、存在を知らないので見学に立ち寄ることもないのです。

 そこで豊後高田市におかれましては、仁ノ田トンネル手前、旧道入口のところに「足駄木磨崖仏入口」の標柱を設置していただきたく存じます。年に数名でも、どなたかがお参り・見学に立ち寄れば、磨崖仏が粗末にならずにすむと思います。今の社会の礎を築いてくださった昔の方に思いを寄せて、地域の文化財を大切にしていきたいものです。

 ところで、足駄木磨崖仏を訪ねる際に車をとめた場所から山道を上がったところに「刀声権現」が鎮座している旨を『真玉町誌』で読みました。お参りをしたくて道も乏しい山中を右往左往しましたが、残念ながら訪ね当たりませんでした。そこで、その過程で見つけた自然風景をここに紹介いたします。

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 足駄木磨崖仏のすぐ後ろにある山桜の大木です。はちまき道路沿いですから、車窓からよう見えます。この下に磨崖仏があるとは思いませんでした。

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 刀声権現をさがして山道を上がりますと、たくさんのミツマタを見つけました。盛りを過ぎていましたので色は褪せ、あの独特の香りを楽しむことはできませんでした。この一帯は杉林になっていますが、昔はかなりの規模の棚田が広がっていたようです。三畑の棚田は傾斜が急で、しかもかなりの高所にて水も乏しく、耕作にはたいへんな苦労をされたことと思います。

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 権現様をさがして上へ上へと進みますと、ものすごい岩峰の直下に出ました。これ以外にもたくさんの岩峰があります。並石の岩峰群と一連のものにて、広義にはこちらも「並石耶馬」に含まれるのでしょう。

 

15 峠の小一郎様

 車に乗って、「はちまき道路」を赤根方面に進みます。道なりに地蔵峠の登りにかかり、右カーブして直線の急坂の半ば、県道31号の標識手前を左折して細い道を上っていきます。普通車までなら通れますが離合困難で、見通しが悪いので運転に気を付けてください。しばらく行くと右側に3~4軒の屋敷があります。峠部落に着きました。道路左側に小一郎様の石祠がございます。

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 小一郎(こいちろう)様は氏神や屋敷神として、大分県の北半分の地域で広く信仰されています。そのほとんどが簡素な石祠のみですが、まれに社殿を伴う場合もあります(杵築市中野田ほか)。用字はいろいろで、「九一郎」「今日霊」などありますが意味は同じです。小一郎様は、その石祠を動かしたり粗末にしたりすると祟る、それどころかその周囲の木を伐るだけでも祟るなどと申しまして、昔から非常に恐れられてきました。峠の小一郎様は、小さな狛犬と仁王様を伴います。狛犬や仁王様に護っていただき、鄭重にお祀りすることで祟りを避けようとしたのかもしれません。

 こちらの仁王様はむっちりとした体形で、お相撲さんのような力強さが感じられます。小型ながらも堂々たるお姿ではありませんか。道路端にございますので、見学をお勧めいたします。

 

16 龍ヶ谷の山祇社

 峠の小一郎様をあとに、奥へ奥へと進んでいきます。普通車がやっとの狭い道で、片側は崖です(ガードレールはありません)。その難所の道の行き止まりが山祇社です。境内で車を転回することができます。

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 何はともあれお参りをいたしましょう。この山の中にあって、立派なつくりの拝殿です。その手前には仁王様が睨みをきかせています。こちらの仁王様は、もとは龍ヶ谷の墓地付近にあったものをこちらに移したものとのことです。おそらく昔は、墓地の辺りに堂様があったのでしょう。

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 さても恐ろしいお顔立ちに、胆が冷えてまいります。天衣が破損していませんし、足の指など細かい部分までよう残っており感激いたしました。よう整うた秀作であると言えましょう。

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 阿形も恐ろしいお顔でございます。衣紋の裾まわりの細かいひだの表現が見事で、ちょど裾が地面に接するところと両脚とで三点支持方式になっておりますのも、ちっとも違和感がありません。

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 石祠の下の石垣に注目してください。見事な組み合わせ方で、ほとんど隙間がありません。祭壇としての石垣ですから、特別に高級な方法でこしらえたと思われます。

 

17 土谷家屋敷跡の石祠

 山祇社の鳥居前から急な坂道を上れば、元庄屋の屋敷跡にでます。

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 今は建物は何も残っていませんが、このような標柱があるのですぐ分かります。この広い敷地から推して、裕福な家であったと思われます。それは庄屋という家柄もありましょうが、今の感覚では不便を託ち苦労が多かったと思われる龍ヶ谷も、昔は大規模な棚田・段々畑や林業等で栄えていた時代があったということでしょう。

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 この石祠を拝見して驚きました。大人が体育座りをすれば、横向きに入れそうなほどの大きさがあります。中は空になっていますけれども、これほど立派な石祠はそうそう見かけません。

 龍ヶ谷から車で後戻るとき、道路下の崖にものすごい急傾斜の棚田跡が広がっていることに気付きました。その棚田が現役であった頃の写真があれば、一度見てみたいものです。

 

今回は以上です。三畑を探訪した際、庚申塔はただの1基も見つかりませんでした。もしかしたら誰も通らなくなった昔の道沿いにぽつんと立っているのかもしれません。または、三畑は上黒土の枝郷のような土地であると思われますが、その開発年代が庚申信仰の全盛を過ぎていたため、塔の造立には至らなかったという可能性もあります。もし見つけることができたら、また紹介します。なお今回掲載できなかった三畑の名所・文化財としては、本文でも言及しました刀声権現のほか、地蔵峠の旧道(トンネルの上を越す徒歩道)の一字一石塔などがあります。またいつか訪ねてみようと思います。次回は大岩屋のカサをめぐります。