大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上伊美の名所めぐり その4(国見町)

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 今回も大字千灯の名所旧跡をめぐります。前回に引き続き見どころのオンパレードで、特に寺迫の金毘羅様や下払坊跡は、旧千灯寺跡一帯を探訪される際には必ず立ち寄るべき名所中の名所です。

 

15 芹川の一字一石塔

 千灯寺の向かい側、公衆トイレのある駐車場に車を停めます。千灯寺や龍神社の紹介はまたの機会として、今回はこの近くにある一字一石塔を紹介します。駐車場の角から伊美川の方に進んで、十字路を右折します。少し歩けば、道路端に立派な一字一石塔が立っています。

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大般若理趣分壽命陀羅尼
大乗妙典宝篋印陀羅尼 ※宝と印は異体字
仁王経◆陀羅尼 血盆陀羅尼 ※◆は判読困難
一字一石

 大般若経、大乗妙典(法華経)、仁王経、血盆経の一字一石塔です。これだけのお経の一字一石とは、いかほどの手間でありましょうか。まずそれだけの数の小石を集めるのが一仕事です。文字が書けるような、平らな石でなくてはなりません。その石に、1つあて1字ずつお経を書写するのも大変なことです。よほどの信心がなければできることではありません。

 標記のお経のうち、血盆経は女性の死後の救済を願うたものです。所謂「赤不浄」の概念が根底にあり、現代の価値観にはそぐわないものですが、造立当時の時代背景を理解することが大切です。当時は、よかれと思うてのことであったのです。このことを踏まえて、今の世の中をよりよくしていくよすがにしようではありませんか。

 ところで、血盆経の一字一石塔は県内では本匠村に3基しかないとされていますが(以前紹介しました)、こちらでも見つけてあっと驚きました。本匠村と国見町は遠く離れていますから双方に馴染みのない土地ですし、こちらの一字一石塔は文化財に指定されておりませんので、本匠村の血盆経一字一石塔の説明を書いた方がご存じなかったのでしょう。こういったことは往々にして起こり得ます。ゼロの証明は難しいという話を思い出しました。私は庚申塔にことさらに興味を持っていますが、方々を訪ねる中で資料に掲載のない塔を見つけたことも何度かあります。ほかの石造物でも同様で、時代の移り変わりで信仰が薄れて、居住地域の石造物の存在をご存じない方が増加してきました。昔と今を結ぶ大切な文化財が粗末にならないようにしたいものです。

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孟春吉祥日
此塔之曰 有法則

 残念ながら造立年は分かりませんでした。

 

16 寺迫の金毘羅様

 一般に「千灯の金毘羅様」と呼ばれています。しかし大字千灯にはほかにも金比羅様があるかもしれませんので、項目名は所在地からとって「寺迫の金毘羅様」としました。ここは行き方が難しいので詳しく説明します。

 車に乗って公衆トイレの駐車場から僅かに赤根方面に行き、旧千灯寺跡の標識に従って左折します。橋を渡った先の二又は右折してしばらく行くと、道路右側に2軒の空家が建っています。この辺りが旧寺迫組です。『国見物語』によれば寺迫は明治初期までは16軒あったものの、明治20年頃の火災で5軒が罹災してから減少し始め、昭和10年代には北台組と合併し寺迫の名称はなくなったそうです。今は無住の土地になっています。

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 車道から、写真の石垣下の小道に入ります。道路端に建っている空家が目印になりますので、すぐ分かると思います。近くに車を停める場所がありませんので一旦通り過ぎて、旧千灯寺跡の駐車場に車を置いて歩いて戻って来るとよいでしょう。

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 段々畑の跡地の小道を進んでいきます。左にカーブして川が近づいてきたところで、写真のように二股になっています。ここを右にとって、九十九折に川原まで下ります。

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 橋はかかっていませんので、適当なところから徒歩渉りで対岸に上がります。透き通った水が美しいものの、この辺りは鬱蒼として昼なお暗い雰囲気にてあまり長居をしたくないような場所です。

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 ほどなく金毘羅様の鳥居が見えてきます。道がはっきりしないところもありますが、鳥を目印に適当に通り易いところから行けば問題ないでしょう。鳥居をくぐって、尾根伝いに登っていきます。

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 参道というよりは岩尾根を攀じていくよな道ですけれども、問題なく通行できます。特に滑り易いような場所もありませんでした。

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 金毘羅様に着きました。対の灯籠と狛犬、仁王様、石祠、手水が残っています。昭和25年頃までは建物があったとのことですが、おそらく寺迫組の人口減少により再建には至らなかったのでしょう。

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 狛犬は写実的な表現で、秀作であると存じます。小型ながらも強そうな雰囲気がよう表れているではありませんか。仁王様も上背が低くて、ほんの50~60cmくらいしかありません。4頭身の体型でよう肥り、腹を突き出して自信満々に立っています。

 国東半島のあちこちに金毘羅様が鎮座しています。その殆どが小高いところにある小社で、石祠と灯籠のみである事例も多うございます。それが、こちらは狛犬と仁王様を伴います。それだけ信仰が篤かったのでしょうし、往時の寺迫組にそれだけの費用を拠出できるだけの人口があったことが分かります。2軒の空家が残るだけとなっている現況からは、隔世の感がございます。

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 石祠は、四国の金毘羅大権現の方を向いているわけではなさそうでした。遥拝所ではなく、麓の寺迫組をはじめとする千灯一円の安寧を願うたものでありましょう。

 

17 寺迫の龍田社

 金毘羅様から尾根道を進んでいった先に龍田社が鎮座しています。見晴らしもよいので、せっかく金毘羅様にお参りしたのであればもうひと頑張りして龍田社まで行ってみてはいかがでしょうか。

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 金毘羅様から少し行くと、写真のように尾根筋がえぐれて堀切のようになっています。手前から奥に行くのですが、手前を下る分にはよいものの奥は段差が高くて上がりにくうございます。木の根を足掛かりに、両手をついてやっと上がるような始末です。ここを越したらいよいよ傾斜が急になってきます。

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 参道の途中に、半ばでお辞儀をした形が庚申塔のそれによう似た石塔が立っています。この塔の由来がずっと気になっていました。『国見物語』によれば「臼杵石塔」とのことで、臼杵から来た人が建てたとの伝承があるそうです。寺迫のカサにある臼杵神社と何か関係があるのかもしれません。

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 こちらを訪れたとき既にあちこちの山の中の名所を訪ねた後で脚が草臥れておりましたので、とどの詰まりにこの急坂を目にして気が遠くなりました。空手でも問題なく通行できますが、下りではつんのめるような傾斜です。適当に蛇行しながら通るとよいかもしれません。

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 龍田社の石祠に着きました。龍田社は、千灯寺の向かいにある龍神社と関係があるそうで、別名を「風神社」と申します。大風よけ、台風よけの霊験のある神様で、今も9月1日に風鎮祭(二百十日祭)を行っています。昔は寺迫組が担っていましたが、今は千灯全体で実施するとのことです。二百十日とは立春から数えて210日目で、新暦でいえばだいたい9月1日頃にあたります。昔から二百十日、二百二十日と申しまして、ちょうど大型の台風が盛んに襲来する時季でありますから農家は非常に警戒しておりました。二百十日も二百二十日も無事過ぎれば一安心ですが、この時季に稲が倒れたり、大水が出て農作物が流れたりすると収穫を前にして大きな痛手です。昔も今も、風鎮祭の祈願も真に迫ったものであると存じます。

 なお、龍田社周辺に女性が上がると大風が吹くという伝承あり、近隣地域の女性は近寄るのを遠慮する方が多いそうです。近隣の鷲巣にも同様の伝承があります(やはり鷲巣にも風の神様の石祠があります)。

 龍田社のあたりは、伊美の谷を一目の景勝地です。

 

18 旧道の石橋と石造物

 山を下りて車道に戻ります。旧千灯寺跡をめぐって五辻不動や臼杵神社にもお参りしたら、近くにある古い石橋の見学をお勧めします。先日、その石橋経由で下払坊までの道を散策しました。それで旧千灯寺・五辻不動・臼杵神社は後回しにして、石橋経由のルートを先に紹介します。

 車に乗って車道を元来た方向に下り、県道に戻らずに三叉路を直進します(県道からの場合は突き当りを左折)。道なりに引くと、左側に電波塔が立っています。その近くに車を停めたら、電波塔の手前から分かれる小道を下っていきます。

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 荒れた棚田跡を横切って下っていくような道で、石垣が崩れていますので用心して通ってください。この写真はまだよい方で、人が1人歩くのもやっとの道幅になっているところもあります。枯れ竹も目立ちます。適宜くぐったり跨いだりしながら進んでいけばお墓が見えてきます。お墓のところまで来たら石橋まで目と鼻の先です。

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 下り着いたところの右側に石橋が架かっています。石積みの状態が良好で、素朴な造形美が感じられます。この橋は「千灯古橋」の呼称で知られています。しかしこれは地元で通用している呼称ではないような気がしましたので、項目名は単に「旧道の石橋」としました。

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 下り着いたところから左を見れば、川に落ち込むぎりぎりのところまで棚田が造成されていたことが分かります。ここから川に沿うて歩いて行けば北台組に抜けられそうな気がします。確かめていませんがもしこの道が通れるのであれば、わざわざ電波塔のところから難所の道を下らなくても簡単に石橋を見学できるかもしれません。

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 石橋の下は荒れた沢になっています。水量は乏しいものの透き通った水が美しく、ここから僅かに遡れば小渓谷の体をなしています。紅葉の時季は特によいと思います。

 実はこの石橋を一目見たやと思い、挑戦すること3回目でやっと行き当たったのです。過去2回は枯れ竹に阻まれ、藪に阻まれ、到着できませんでした。以前からこの石橋の先の道がどこに出るのか気になっていたので、思い立って行けるところまで行ってみることにしました。

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 橋を渡ってしばらくは、木立の中を行く気持ちのよい山道です。ほぼ平坦なルートですし倒木等もほとんどなく、楽に通ることができました。この二股まで来まして、右は荒れ気味のようでしたので左に下ってみました。

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 左に下れば川原に出て、そこにはイゼの取水口がありました。左の道がそれほど荒れていなかった理由が分かりました。ここにきて「旧道」の正しいルートは右であったことが分かりましたが、荒れた山道を通るのも気が引けましたのでここからイゼに沿うて進んでみました。

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 ほどなく広い耕作放棄地に出ました。これは振り返って撮った写真で、奥の方からイゼに沿うて、石垣の下を歩いてきたわけです。先ほどの分岐を右に行けば、石垣の上を通っている小道につながっていると思われます。

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 石垣の上の屋敷跡の様子を見てみますと、仏様や石祠、五輪塔か何かの笠などが散在していました。こちらの仏様の味わい深いお姿に、道も乏しい道中の疲れが癒されました。この近くから沈み橋を渡れば県道側の家並みに抜けることができます。こちら側にはただの1軒も残っていませんが、屋敷跡と思われる石垣の規模から推して昔は5軒程度はあったようです。

 沈み橋への分岐の先は道が荒れ気味でしたが、先ほどの石橋を通っている「旧道」はおそらく対岸に渡らず下払部落につながっているのではないかと思いまして、イゼに沿うて先へ先へと進みました。

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 下払部落に差し掛かったあたり、道端で見かけた石祠です。このすぐ先で車道に出ました。今は一面が耕作放棄されており寂しい道でしたが、昔この道を地域の方が往来していた頃の様子を思い浮かべて、自然散策を楽しむことができました。

 

19 下払坊跡

 先に、車道経由の道順を申します。千灯寺から県道を伊美方面に行き、新道と旧道の二股の直前を鋭角に右折します。その先を電信柱に沿うて左折し、橋を渡ったところが下払部落です。

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 右折してこの坂道を上れば、ほどなく旧下払坊(法教寺)に出ます。車は近くに停めることができます。法教寺は旧千灯寺の末寺で、旧下払坊を前身とするものです。

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 今はお寺というよりは堂様のような様相を呈しています。境内には石造文化財がたくさんありますし、建物の中には30体以上のお観音様が安置されています。旧千灯寺関連の史蹟を探訪される際には必ずお参りに立ち寄るべき名所で、特に桜の時季の参拝をお勧めいたします。

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 何はともあれお参りをいたしましょう。中央には木彫りのお不動様を中心に、三尊が堂々たる風格でおわします。江戸時代の作とのことで、その保存状態は頗る良好、彩色もよう残ります。火焔の表現など細かいところまで行き届いた秀作です。脇侍のお顔の珍妙な表現もおもしろいので、よう観察してみてください。素晴らしいお細工に感嘆されること請け合いでございます。その左右にはお観音様がずらりと並んでいます。その数しめて34体、整然と並んでいますので壮観です。自由にお参りができますが、火災防止のためそばを離れるときには必ず蝋燭の火を消してください。

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 境内の石造物のうちもっとも目を引くのは、こちらの国東塔です。右隣りの石祠は小一郎様です。小一郎様については三畑の名所めぐりの記事で説明していますので参照してください

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 見れば見るほど素晴らしい造形に、思わずため息が出ました。これほど見事な塔はなかなか見かけません。南北朝時代初期の造立と推定されているそうですが、長年の風雨もものともせで、相輪尖端の火焔や格狭間など細かい部分もよう残ります。この塔で特によいのが、塔身下の請花でありましょう。複弁にてふっくらと表現してあり、本物の蓮の花を見るような優美な雰囲気がございます。総高265cmにも及ぶ大型の塔です。ぜひ現地で実物を見学していただきたいと思います。

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 六地蔵様の右並び、単独で立っている仏様は緑色の毛糸で編んだ帽子や襟巻をつけていました。近隣の方の素朴な信仰心が感じられて、心温まるものがございます。右葉sに写っている御室の蓮華座も見事な彫りです。

 

今回は以上です。このシリーズの次回はいよいよ旧千灯寺跡へと進んでいきます。この一帯の名所旧跡の核心部といってよいでしょう。でも同じシリーズばかりが続くのもおもしろくないので、どこか違う地域の記事を少し挿んでからにしようと思います。