大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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亀川の名所めぐり その1(別府市)

 別府市は亀川地区の名所旧跡を紹介します。このシリーズでは手元にある絵葉書をたくさん載せて、今ではすっかり忘れられてしまった昔の名所、それから景観が一変した名所・景勝地も織り交ぜていこうと思います。

 さて亀川地区で著名な観光地といえば、血の池地獄と竜巻地獄、十文字原展望台、柴石温泉・渓流、亀川温泉があげられます。また近年は、鬼滅の刃の関係で内竃の竃門八幡様にお参りをされる方が急増しているようです。鬼の岩屋や白亀塚も名所として知られていますが、観光のあり方の変容に伴い、今ではよほど興味関心のある方しか訪れなくなっています。

 そのほかには羽室の御霊社、姫山の立石、矢黒の観音堂、関ノ江海岸、亀川バイパスのフェニックス並木、湯山の湯ノ花小屋などの名所・景勝もあります。今は昔となってしまった名所・景勝としては謎が謎を呼ぶ亀川洞門、旧釜戸地獄、内竃から関ノ江にかけての棚田、フイガ城跡など。これらの中から、写真や絵葉書が手元にあるところに絞って順々に紹介していくことにします。

 

1 昔の亀川温泉(絵葉書)

 別府近郊の温泉郷を総称して「別府八湯」と申します。その仔細を申しますと別府温泉、浜脇温泉、観海寺温泉、堀田温泉、明礬温泉、鉄輪温泉、柴石温泉、亀川温泉で、かつてはこれに由布院温泉と塚原温泉を加えて別府十湯と呼んでいました。これらの温泉郷のうち亀川地区にあるのは柴石温泉と亀川温泉です。

 亀川温泉は国道10号の旧道沿い一円で、今は浜田温泉や亀陽泉(きようせん)など、地元の方に親しまれている立ち寄り湯が主になっています。ここでは昔の絵葉書を紹介します。

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脇蘭室
此処もまた 出で湯につれて 旅人の
いとど寄せ来る 浦の白浜

 亀川は別府へ四哩弱、東には漣波静な別府湾を擁し、西には翠滴る丘陵を負ひ、風光秀麗にして、温泉豊富な処、北別府と称せられるのも偶然でない。

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 名所宣伝の自信満々な表現にレトロな風情が感じられます。今では北別府という表現は耳にしなくなりました。そのような言い回しの宣伝効果か、脇蘭室先生の歌には「旅人のいとど寄せ来る」とあります。中央の写真を見ますと、まだ海岸線の埋め立てがなされておらず、浦辺の温泉街はさぞや風光明美なことであったと思われます。右下の写真は海軍病院(今の別府医療センターの前身)で、温泉を利用した治療で知られていました。

 亀の井バスの名所案内では次のように紹介されています。

「行く手に見ゆる市街地は 人口五千戸数千 海に面して山を負い 景色もいとど麗しく 温泉地帯の北端の 出湯溢るる亀川の 温泉場でございます」

 ついでに唄の文句を2節添えおきます。これは「別府郊外八湯」(別府十湯から別府温泉と浜脇温泉を除いた八湯)の新民謡の一部です。都々逸でも祭文でも、7775の好みの節で唄ってください。

〽山を背負うて海抱く湯町 お湯が溢れて北別府
〽来ても往いても汽車・バス・電車 いつも御越よ亀川へ

 2節目にあります「汽車」は今のJR、「電車」は今はなき別大電車(路面電車)をさしています。また「御越(町)」は、旧亀川町の旧称で「おいでよ」の意の「お越しよ」にかけています。

 

○ 新民謡「亀川温泉の歌」

 紹介した絵葉書の時代の新民謡に「亀川温泉の歌」があります。これは佐藤千夜子が歌った「紅屋の娘」の替歌で、戦前にずいぶん流行ったそうです。ところが文句の内容が時代に合わなくなり、とんと下火になっておりました。それを惜しんで、数年前に当該箇所を現代の景観と齟齬のないように改め、再度の普及が図られています。ここでは昔の文句を紹介します。

亀川温泉の歌

〽亀川温泉 春が来りゃ サノ春が来りゃ
 浜田の砂湯や潮干狩り トサイサイ 潮干狩り

〽亀川温泉 夏が来りゃ サノ夏が来りゃ
 ボートレースや釣り遊び トサイサイ 釣り遊び

〽亀川温泉 秋が来りゃ サノ秋が来りゃ
 滝湯の柴石 亀陽泉 トサイサイ 亀陽泉

〽亀川温泉 冬が来りゃ サノ冬が来りゃ
 血の池地獄や湯の煙 トサイサイ 湯の煙

 上記のうち、「砂湯」「潮干狩り」「ボートレース」「滝湯」が過去の風物になっています。「紅屋の娘」の節を御存じの方は、亀川を散策される際に「亀川温泉の歌」の文句で歌ってみると、いっそう興趣が増すことでしょう。

 

2 八幡竃門神社

 新川の交叉点から鉄輪線を進み、医療センター方面に右折します。標識に従って竃門八幡様の駐車場に上がり車を停めます。八幡様にお参りをしましょう。整備の行き届いた広い敷地に、立派なお社がございます。見晴らしもよく、たいへん気持ちのよい場所です。

 樹齢500年を超すというイッチカッチが御神木で、「魂依の木」の看板が立っていました。幹がウロになっても樹勢は衰えを知らず、素晴らしい枝ぶりに感嘆されること請け合いです。八幡様にお参りをされる際には、必ず見学すべき銘木でございます。

 お参りをしたら、正面の参道を歩いて下って観音堂に行きましょう。

 歴史を感じさせる、長い長い石畳が伸びています。この道は竃門八幡様の参道であると同時に、近隣の方の生活道路でもあります。

 

3 長福寺観音堂

 竃門八幡様の正面参道をずいぶん下ると、右側の狭い用地に観音堂が建っています。千手観音様にお参りしたら、坪の石造物の見学をお勧めします。 

 3基並ぶ五輪様にはいちめんに草や苔が絡みつき、いかにも歴史の古そうな姿でございます。形はそれぞれ異なりますが、いずれも達磨落としのような不安定さが感じられます。

 堂様の右側にも多種多様な石造物が並んでいます。この場所が「長福寺」なるお寺であったのでしょうか、それとも近隣に昔、長福寺というお寺があったのでしょうか。説明板がなく詳細が分かりませんでした。

 碑面の荒れが著しく、見るもおいたわしい姿でやっと立っています。角塔婆でしょうか。四面も仏様はその輪郭がやっと分かる程度で、種別は分かりません。四面仏の類かもしれません。

 右の半肉彫りの仏様はお弘法様です。塔身の余白を広くとり、この部分に「南無大師遍照金剛」と彫られていましたのでお弘法様と分かりました。国東半島から速見方面にかけては、だいたいお弘法様と申しますと大型・小型いずれも丸彫りであるのが普通です。それをこのように半肉彫りで表現した事例はたいへん珍しいのではないでしょうか。その碑面の状態は頗る良好です。

 一石五輪塔と思われる石造物がひっそりと立っていました。

 

4 旧亀川洞門(絵葉書)

 今は跡形もありませんが、戦前まで竜巻地獄の近くに「亀川洞門」とか「亀川鍾乳洞」と呼ばれた観光名所がありました。その絵葉書を1枚持っているので紹介します。

 亀川にこんな鍾乳洞があったの?と驚く方もおいでになると思います。種明かしをしますと、これは作り物です。

 洞窟の入口に仏様が安置され、お参りをして奥に進めば鍾乳洞風の洞窟を見学できるという趣向の名所であったようです。戦前、別府観光が飛躍する過程で別府から足を伸ばして風連鍾乳洞まで行くバスの便も設けられていたそうです。それで、おそらく風連まで行かなくても鍾乳洞風の景観を楽しめるようにとの意図で、亀川洞門が開かれたのでしょう。でも、別府は様々な地獄や湯煙をはじめとする温泉の景観、海、山、滝、渓谷など元々の自然が豊かな土地でありますので、このような作り物の自然、偽物の自然はそぐわなかったと思われます。それなりに集客はあったのでしょうが、早いうちに閉鎖されたようです。

 亀川洞門について調べてみても、郷土誌の類では全くといってよいほど言及されておりません。わずかに、昔の名所案内の小冊子にごく短く掲載されている事例が稀に見られる程度で、今ひとつその実態を把握しかねています。知り合いのお年寄り数名に尋ねてみましたが、はっきり覚えている人には行き当たりませんでした。

 

5 竜巻地獄

 竜巻地獄は、別府に数ある地獄の中で唯一現存する間歇泉です。隣接する血ノ池地獄と並んで、柴石温泉を代表する観光地として遊覧者が後を絶ちません。

 竜巻地獄を訪れるなら、つつじの時季を強くお勧めします。園地の裏山がいちめんつつじ園として整備されています。遊歩道はありませんので駐車場や道路から眺めるのみですが、さても見事な景観です。別府随一の花の名所といっても過言ではないでしょう。

 竜巻地獄は凡そ30分おきに吹き上がります。その勢いたるや凄まじく、100℃ほどの熱湯がかつては50m近くも吹き上がっていたそうですが、飛び散った飛沫により遊覧者が火傷を負う事例がありましたので、安全のために囲いや天井が設けられています。そのため迫力は半減しておりますけれども、現地でその勢いをご覧になりますとあっと驚かれることでしょう。

 

6 昔の竜巻地獄(絵葉書)

 先ほど、竜巻地獄は別府に現存する唯一の間歇泉である旨を申しました。昭和10年頃まで、このほかにも前八幡地獄と朝日間歇地獄がありました。3箇所あった間歇泉のなかで最も遊覧客が多かったのは前八幡で、八幡地獄に隣接していたこともありずいぶん賑おうたそうですがお湯が涸れて閉鎖されました。朝日間歇地獄は本坊主の近くにあったそうで、古い絵葉書を見ますとものすごい高さまでお湯が吹き上がっていたようです。こちらも泉源の整備等により勢いが衰え、早くに閉鎖されています。

 前八幡、朝日間歇地獄は数種類の絵葉書がありますが、竜巻地獄はなぜか戦前の絵葉書がなかなか見つからず、まだ1度も見たことがありません。亀の井バスの名所案内でも、なぜか言及されていません。これは一体どうしたことでしょう。戦前の一時期、閉鎖されていたのでしょうか? このあたりの事情がとても気になっていますが、今のところ確からしい理由に行き当たっていません。

 戦前の絵葉書を持っていないので、戦後のものを乗せます。今の竜巻地獄と同様に、このときには既に天井を設けてあります。その一方でその前は小さな池のようになっており、今の景観よりは幾分、風流であるような気がいたします。

 

7 血の池地獄

 血の池地獄は竜巻地獄のすぐ上手に隣接しています。赤錆び色のお湯はまさしく血の池の景観で、そのおどろおどろしい雰囲気は海地獄とは対称的です。

 園地が整備されて久しく半ば箱庭のようになっています。裏山の緑豊かな景観と相俟って、ある種独特の風情がございます。この禍々しい色合いは一度見たら忘れられません。

 

8 昔の血の池地獄(絵葉書)

 血の池地獄は別府の地獄の中でも昔から人気が高かったようで、たくさんの種類の絵葉書が出ています。それを見比べてみましょう。

 奥の看板には「血の池地獄最近大爆発」とあります。昭和2年に大爆発し、景観が一変したようです。それを境に園地を再整備し、徐々に今の景観に近付いていったと思われます。

the touching scene of CHINOIKE JIGOKU, BEPPU
(別府名所)其の名と共に物凄き血の池地獄

 白黒の写真に着色した絵葉書のようです。藁屋根の建物がいかにも昔風で、まだまだ素朴な観光地の印象がございます。建屋の奥には段々畑も見られます。この絵葉書は鉄輪線の開通以前のものでしょう。当時は山手の道路が未整備で、今のように効率よく地獄を巡ることができませんでした。

 この絵葉書は、昭和2年の大爆発以前のものかもしれません。方々から湯気が上がり、今の血の池地獄とまるで様相が異なります。ニオが見られることから周囲を田んぼに囲まれていたと思われますが、こんな地獄のすぐそばで稲が育ったのでしょうか。

 亀の井バスの名所案内では次のように紹介されていました。

「つぎの地獄の血の池は 赤く湛えし大地獄 赤い熱泥たぎり立ち そのものすごい紅は 海の地獄の紺碧と 思い合わせて不可思議な コントラストでございます」

 

今回は以上です。亀川洞門のことが気になって仕方がなく、謎が謎を呼ぶばかりです。次回は旧の釜戸地獄から始めます