大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上伊美の名所めぐり その5(国見町)

 今回は旧千灯寺跡と五辻不動をめぐります。いずれも仏様を巡拝しながらのお山めぐりコースとして、自然探勝と文化財探訪を同時に楽しむことができます。これに千灯岳や寺迫の金毘羅様、西不動霊場、鷲ノ巣などを組み合わせたコースを設定しますと、1日を楽しく過ごすことができます。

 

20 旧千灯寺跡

 名所旧跡の数多い上伊美地区の中でも、何はともあれ旧千灯寺跡は必ず訪れるべき名所中の名所であります。しかも広義に捉えれば西不動や五辻不動、下払坊、平等寺など一面が旧千灯寺関連の史跡であり、ただ一度訪れただけではその全貌を掴みかねるほどの奥深さがございます。何回も探訪しましたが未だに全部は廻れていないのと、昔撮った写真は適当でないので記事に使えず、不十分な内容になってしまいますけれども、ひとまず適当な写真がある場所だけを先に紹介することにします。

 道順を申します。前回、この近隣の名所をいろいろ紹介しています。リンク先にある「16寺迫の金毘羅様」の項を参照してください。その金毘羅様への枝道を過ぎ、しばらく道なりに車で上って行けば旧千灯寺の石畳の参道が分かれます。一旦通り過ぎてさらに上れば参道と2回交叉し、その先の左側に広い駐車場があります。この駐車場に車を停めて奥に行けば参道半ばに出ますけれども、そうすると西行戻し付近の文化財を見落としてしまいます。ですから、西行戻し上り口(参道の下端)の少し先の、左側路肩が広くなっているところに邪魔にならないように駐車して、参道を忠実に辿ることをお勧めします。

 

(1)西行戻し

 車道から石段を上がれば左側に宝篋印塔や小型の板碑、供養塔その他の石造物がたくさん並んでいるところに出ます。

 この辺りを西行戻しと申します。説明板の内容を転記します。

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西行戻し地名伝承

 平安時代末期、京都御所北面の武士であった佐藤義清は平家の没落を見て、世をはかなみ西行と名を改め、真言僧となり全国行脚の旅に出た。九州に渡り、六郷満山の千灯寺の住職の器量をみようと、登ってここまできたとき、たまたま小僧が綿を持って下って来るのに出会った。そこで西行は小僧に向かって「その綿は売るか」と言ったところ、小僧は即座に「谷川の瀬に住む鮎の腹にこそ うるかと言へるわたはありけり」と和歌で答えた。「小僧でさえこれほどであれば、和尚の器量は見なくても分かる」と、ここで引き返した。それでここを西行戻しと言うようになったという。

※うるか=「売るか」と「うるか(鮎のはらわた)」の掛詞
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 こちらの宝篋印塔は保存状態が良好で、細かいところまでよう残ります。小型ながらもかっちりとまとまった、秀作といえましょう。この裏のさらに高いところにももう1基立っているのですが、足場が悪く上がるのは容易ではありません。

 にっこりと笑うたお顔が印象深い仏様でございます。一目拝見して大好きになりました。西行戻し付近には、ほかにも小型の連碑などたくさんの石造文化財がございます。再訪でき次第、写真の追加・差し替えをしていこうと思います。

 

(2)伽藍跡

 西行戻しを過ぎてしばらく行くと車道と交叉します。この辺りから石畳がよう残っています。鳥居をくぐってもう一度車道と交叉したら、駐車場からの脇道と合流します。この辺りが西の坊跡で、お六部さんの塔や小型の五輪塔法華経一千部塔などが残っています。

 さて、西の坊跡には旧千灯寺関連の絵図の立札がありますので、よく目を通しておくとよいでしょう。西不動まで詳しく載っています。その絵図にある説明の内容を転記します。

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寺号 補陀落山千灯寺(天台宗
本尊 千手観世音菩薩

由緒縁起
 本寺は養老2年、仁聞菩薩の創建と伝えられ、六郷山中山本寺である。かつて末寺、末坊38か所を有していたと伝えられる。仁聞菩薩が同行5人と不動岩屋において不動の法を行じたとき、東北海の龍王がその徳に感じ、献灯すること1000に及んだ。よって千灯寺と称するに至ったという。
 当寺は仁聞入寂の地として、また六郷山無常導師所として六郷満山中で重要視された寺である。「太宰管内志」に「仁聞入寂の地・本堂千手・六所権現・山王権現・薬師石屋・大講堂・地主権現・大師堂・尻付石屋・普賢石屋・大不動石屋・奥の院不動石屋・退転牛王石屋・小不動石屋・八大龍王石屋・千灯寺末寺 平等寺 金光寺 真覚寺」とある。広い境内地の中に多くの史跡文化財があり、県指定史跡となっている。
 西不動は千灯の谷を挟んだ西山に点在し、修験道行者が聖地とした行場である。

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 乱積でありながら、その角の部分をきちんと造ってあり見事な造形に惚れ惚れいたします。この石垣から先は護摩堂、講堂などの伽藍跡が段々になっています。建物は全く残っておらず、石垣と伽藍前の石段、それから手水鉢、仁王像のみを残すのみとなっていますけれども、その広大な用地から往時の隆盛のほどがうかがわれます。

 伽藍跡でもっとも目を引くのが、対の仁王像です。こちらは国東半島の方々で見かける石造仁王像とは趣を異にして、石板に半肉彫りにて仕上げています。それがために丸彫りの石造では避けられない表現上の制約を離れて、より写実的に仕上げることに成功しているのです。殊に天衣や腕の表現は、丸彫りではなしえないものです。四季折々の自然によう馴染む文化財で、殊に銀杏が散り敷く時季の夕方には幽玄なる光景が広がります。

 仁王像の後ろに幅広の石段が写っています。その後ろに伽藍が建っていたのです。このように石造物以外が失われているのは理由があります。旧千灯寺は、その寺勢が殷盛を極めたために大友宗麟に目をつけられ、天正年間の焼き討ちで伽藍を悉く焼失したうえに寺領を没収され、数多の僧は離散し廃寺となりました。その後、文禄年間に再興し7つの伽藍を再建、信仰を集めましたが明治維新後に末寺分離、今の千灯寺に移り旧地は廃されました。さらに昭和40年頃の山火事で、残っていた伽藍も再び焼失してしまい今に至るというわけです。

 

(3)普賢岩屋

 伽藍跡の石垣下から左方向に枝道を辿ります。そのうち山道になり、擬木階段が整備されていますが壊れかけていますので、気を付けて登ります。登り詰めたところが普賢岩屋です。本参道から外れますが、ここまでは容易に上がることができますので時間があれば探訪をお勧めします。

 荒れ気味の道を辿れば、正面にお神輿を安置した岩屋が見えてきます。このお神輿は、山王権現様のお祭りで練っていたそうです。今やそのお祭りも途絶え、この岩屋に置いたままになっています。

 五輪塔と小型の板碑も残っています。五輪塔は水輪が饅頭型で、ずっしりと重量感のある造りになっています。

 

(4)奥の院岩屋

 普賢岩屋から伽藍跡まで戻り、本参道を登っていきます。半ばで、右方向に地主権現への分岐があります。そちらに行けば弘法堂跡付近まで近道できますが、道が荒れていますので通行はお勧めできません。地主権現にお参りをしたら本参道に返って、奥の院方面に上がる方がよいでしょう。

 長い長い石段を、杉林の中を登っていきます。この写真は石段の半ばで撮ったものです。もし金毘羅様などを歩いた後にこちらに来た場合、麓から頂上を見遣ればちょっと気が遠くなるような石段でありますけれども、頑張って登るしかありません。特に浮石はなかったと思います。歴史の道を辿るのは楽しいものです。枝の掻い間から木漏れ日が差す時間帯は特によいでしょう。

 奥の院岩屋に着きました。こちらは滝本岩屋の比定地とされています。岩屋にめり込むように堂宇が建っています。おそらく先の山火事以降に再建されたものでしょう。中にはたくさんのお観音様が雛壇に並んでおり壮観です。どなたでも自由にお参りすることができます。お参りをしましたら、岩屋内の左の壁を注意深く確認してみてください。磨崖仏が残っています。

 磨崖仏は風化摩滅が著しく、輪郭を残すのみで細部はほとんど分からなくなっています。小型の仏様がたくさん彫られており、前回紹介しました千灯石仏によう似ているような気がしました。磨崖仏が岩屋の左内壁のみに彫られているのはいかにも不自然です。おそらく、元は右内壁にも彫られていたものを、伽藍(現存するものよりも古い時代のもの)を建てる関係で岩屋を右方向に掘り広げた際に右側の磨崖仏が失われたのではないかと考えています。

 奥の院岩屋で道が左右に分かれています。先に左に行きます。岩壁に沿うて供養塔が並ぶほか、丸形や駒形の掘り込みが目につきます。龕というよりは、磨崖梵字あるいは磨崖碑の類のような気がしますけれども詳細は分かりません。

 

(5)枕の岩屋

 奥の院岩屋から左にいけばほどなく、枕の岩屋がございます。こちらは仁聞菩薩入寂の地とされております。

 どなたでも自由にお参りできます。仁聞菩薩が実在の僧であったのかどうかも定かではありませんが、国東半島においては絶大なる信仰を集めていました。以前は香華の絶え間を知らなかったと思われる枕の岩屋も、時代の移り変わりによりお参りが稀になっているようです。どなたでも自由にお参りできるように線香立て等を置いてくださっています。山火事予防のため、そばを離れるときは必ず火を消してください。

 この岩屋の前に説明板が立っています。内容を転記します。

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仁聞菩薩入寂の岩屋(枕の岩屋)

 養老年間(717~723)、国東六郷満山の各寺院を開基した仁聞菩薩は千灯寺奥ノ院 枕の岩屋にて入寂したと伝えられる。
 豊鐘善鳴録(延享2年)によると「其の年の十月二十六日 千燈窟に於いて入寂す三楞石で封す」と書かれ、五輪塔群の北端にある三個の角ばった大石の中央に埋葬されたようである。
 また、豊後国志(寛政年間)には「僧仁聞の墓は、伊美郷千燈寺にある。伝えるところによると、近世墓の樹が枯れようとしている。寺僧が植え替えようと根を掘り、余尋程掘ったところ砂礫が非常に多く、胴筒三個が出た。蓋を開けてみると皆白舎利で、仁聞の遺骨だった。その周りは砂の入った十五の小壷で囲まれていた」と。

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 枕の岩屋の並びにも掘り込みの浅い岩屋があって、五輪塔やお弘法様などが鎮座しています。この前を通って先に行けば岩棚の上に出ます。眺めがよく、一休みするのに最適です。これから先は危ないので、来た道を引き返して奥の院岩屋まで戻ります。

 

(6)六所権現岩屋

 奥の院岩屋から右方向に行けばほどなく、左に上がる荒れた石段があります。この上が六所権現岩屋ですが、石段が壊れかけており浮石も多く、通行に注意を要します。

 六所権現岩屋は堂宇が残っていたのですが、昭和40年代に山火事で焼失して今ではこのように何も残っていません。わずかに石仏が1体のみで、往時の様子をうかがい知ることは叶いませんでした。石段が危ないので無理に上がらなくてもよいと思います。

 

(7)弘法堂跡

 六所権現下を先に進めば次第に山道の様相を呈してきます。右側に地主権現への近道を見送って左に折れた先が弘法堂跡です。

 弘法堂跡にはたくさんの五輪塔が並んでいます。傾いたり壊れたりしているものが目立ちます。

 この国東塔は仁聞菩薩の供養塔です。返花の細やかな花弁が美しく、塔身は下部のすぼみが小さくどっしりとした印象を受けます。首部には納経孔が見えます。この孔が正面を向いていることは少ないような気がします。笠の軒口や相輪の上部が破損しているのは残念なことです。

 

(8)千灯墓地

 仁聞菩薩の国東塔を過ぎてほどなく、斜面いちめんにおびただしい数の五輪塔が並んでいます。その一角に仁聞菩薩の墓碑もあります(案内板あり)。

 写真に写っているのは僅かで、見渡す限りの五輪塔です。ものすごい密度で五輪塔が並ぶ光景には、世俗を離れた仙境の感もございます。

 

○ 民話「伊美のぐりんさま」

 千灯墓地に999基のぐりん様(五輪塔)があります。このぐりん様は、もとは権現崎にありましたが粗末になりがちでした。それで仁聞菩薩は、権現崎のぐりん様を千灯寺に移してお祀りしたいと考えていました。すると鬼が現れて、仁聞様の意を汲んでぐりん様を運びはじめました。一度にたくさんを抱えて飛び移りながら何度も往復して、ものすごい速さで移していきました。ところがあと1基で千を数えるというときに夜が明けて、鬼はその姿を消したのです。その作業であまり慌てた鬼は、谷筋にいくつものぐりん様を落としてしまいました。伊美の谷筋に残るぐりん様は、そのときのものであると申します。

 

21 五辻不動

 千灯墓地から山道を上がれば上の林道に出ます。近くに五辻茶屋があり、その下が広くなっていますので林道経由で車で上がることもできます。五辻茶屋は五辻不動のお祭り(3月半ばの日曜日)のときなどのみ開けて、普段は閉まっています。

 五辻茶屋下の広場の端から、長い擬木階段を登っていきます。竹の杖を用意してくださっています。参道が長いので、杖を借りた方がよいでしょう。どんどん登っていけば岩尾根の上に出て、左方向には岩戸寺に下る尾根道が分かれています。馬ノ背と呼ばれる痩せ尾根を鎖渡しで登れば対の灯籠が立ち、正面に堂様が見えてきます。

 馬ノ背を鎖渡しで登ったところから振り返れば絶景が広がります。山桜の時季がよいのですが、春先は霞みがちで姫島もおぼろげです。晩秋の晴天の日に登れば、もっと遠くまで見晴らすことができます。

 五辻不動は岩棚にめり込むようにして建っており、正面は中空に迫り出しています。以前、この辺りに蜂の巣がありました。登る時季によっては注意を要します。どなたでも自由に拝観できますので、中に上がってお参りをいたしましょう。その際、天井絵をご覧になってください。鮮やかな色彩が見事です。春のお祭りのときにはお接待が出てものすごい人手ですが、それ以外はちらほらと参拝客が登る程度なのでゆっくりとお参りできます。

 堂宇の手前より右方向に岩棚を上がれば、いくつかの石祠と龕の中のお弘法様などがございます。お参りをしたら、岩を辿って旧参道と思われる道を歩くこともできますが危ないので、無理に進まない方がよさそうです。

 千手観音様は転落したことがあるのか、お顔が傷んでいました。

 岩棚の仏様にお参りをしたら再び堂宇の前に返りまして、先に進みます。上り下りしながら細道を行けば、左方向に千灯岳への山道が分かれています。時間があれば登頂を目指すのもよいと思いますが半ばより急傾斜になりよう滑りますので、履物を選びます。もし千灯岳に行かない場合には分岐を右にとって、岩山の裏を廻って馬ノ背の下に返ることができます。

 岩山の裏の道中にも、お地蔵様などが安置されています。巡拝しながら戻りましょう。

 五辻不動の裏の岩山には、とても登れそうにありません。ものすごい地形に足がすくみます。まったくこの一帯は山また山、しかも対岸にあたる西不動や鷲ノ巣方面の岩峰群もものすごく、夷谷に比肩する自然景勝地といえましょう。

 

今回は以上です。この記事は、写真を撮り直すことができたら差し替えて、改訂版として再掲載したいと思います。次回は鷲ノ巣や平等寺を紹介します。