大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上伊美の名所めぐり その6(国見町)

 今回は大字野田の名所を2か所(通堂の庚申塔平等寺)、それから大字千灯に返って鷲ノ巣を紹介します。特に鷲ノ巣は、ハイキングがてら自然探勝と文化財探訪を同時に楽しむことのできる名所として皆さんにお勧めいたします。旧千灯寺や西不動などと同様に、上伊美地区を代表する名所といえましょう。

 

22 通堂の庚申塔

 今の千灯寺前から県道21号を伊美方面に進みます。旧道と新道の分岐を旧道に入って道なりに行けば、道路右側に竹広の庚申塔があります。写真がよくないので今回は飛ばして、先に進みます。1つ目のカーブミラーの十字路を右折して、右カーブ手前を左折してすぐ、右側に庚申塔が立っています。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼

 この塔は笠が傷んできているのが惜しまれ、碑面も若干荒れてきつつありますけれども諸像の姿は今のところよう分かります。主尊の御髪の真上に光輪の一部と思われるアーチが見られ、それが三叉戟と宝珠の裏に隠れたところでぷっつりと切れてしまっています。自由奔放な表現方法に微笑ましさを感じました。三叉戟を杖代わりに立つ主尊は、両膝を少し曲げて立っています。上半身の勇ましい雰囲気に比べて下半身のなんとささやかなことでありましょうか。この遠慮がちな立ち方の所以か、邪鬼はニヤリと笑うて全く意に介さない様子です。

 童子はめいめいにひどって、主尊に畏怖を抱いているように見えます。特に向かって右の童子が顔を横に向けているのがおもしろうございます。邪鬼の真下にはお山型の細かい文様が刻まれ、「聞かざる」の腕がそのお山型にぴったりと沿うているのもよいと思います。ほかの2匹の猿は横向きでしゃがみ込み、鶏もほのぼのとした雰囲気にて、上部との対比もではありませんか。碑面いっぱいに諸像を配して賑やかな雰囲気がよう出ており、秀作といえましょう。

 

23 平等寺

 通堂の庚申塔から県道旧道に出て伊美方面に行きますと、道路右側に「平等寺釈迦堂」の看板があります。その角を右折してすぐ突き当りを左折、道なりに橋を渡ったところの二股は右に行きます。上り坂にかかれば半ばに害獣予防の柵がありますので開けて通り、必ず元通りに閉めます。少し行き、邪魔にならないところに駐車したら細い坂道を歩いて境内に上がります。

 平等寺は、もとは旧千灯寺の末寺でした。今は無住で、堂宇は釈迦堂を残すのみとなっています。こちらは堂様の中に木造釈迦如来像をはじめとする素晴らしい仏像が収められています。そのうちの一体が盗難に遭い、今は入口の戸が施錠されており、さらに仏様の並ぶ棚も鉄柵で仕切られているという厳重な管理体制になっております。管理をされている方に予め連絡すれば拝観させていただくこともできるそうですが、そうでなければ戸の隙間から遠目にお参りをするしかありません。仏様を盗んだ不届き者には必ずや仏罰が当たっていることでしょう。この項では、堂宇の中の仏様ではなく、坪に並んでいる数々の石造文化財を紹介します。

 境内にはおびただしい数の石塔が整然と並んでいます。そのほとんどが五輪塔で、中には組み合わせが怪しいものもありますが概ね良好な状態を保っています。

 こちらの宝篋印塔は、相輪は後家合わせのようですがそれ以外は極めて良好な状態を保ち、特に塔身の角のところがくっきりと残っているのに感激いたしました。もし平等寺に参詣される際には、注意深く観察してみてください。

 外れのほうには板碑も立っています。こちらは側面がややたわみ気味になっているのが珍しく、穏やかな感じのする仕上がりになっています。板碑の見方、見比べ方はまだまだ不勉強なので詳しく説明することができません。庚申塔や宝篋印塔、国東塔などと比べますと地味な存在ですけれども、奥が深そうです。

 この一角は山裾にてやや荒れ気味で、簡易的な龕の中におわします双仏が粗末になりはしないかと気にかかります。まったく、竹林というものは手入れが行き届いているうちはほんに気持ちのよいものですが、ひとたび管理が不十分になりますと始末に負えないものです。まして花が咲いて枯れ始めたら、とんだ不首尾の浜松屋でございます。

 こちらの宝篋印塔は五輪塔群からやや離れていますので、見落としてしまいがちです。坪に数ある石造物の中で、最も状態がよく、立派な造りであると思われます。

 

24 鷲ノ巣

 さて、いよいよ鷲ノ巣登山でございます。こちらは、通常は鬼籠(きこ)の環状列石付近から登ります。西不動の尾根筋から登る道もあるそうですが、ものすごい急傾斜の大ホキ道にてよほど山歩きになれた方でなければ身の危険を感じるような道中のようです。前々回、西不動の項で「どうしても車で上がりたい場合は…」と申しました道順で鷲ノ巣林道入口まで車で上がります。西不動に行くには鷲ノ巣林道を直進しますが、鷲巣に登る場合は「鷲巣岳」の看板の角を右折します。ここから環状列石までが普通車がどうにか通る程度の道幅しかなく、しかも見通しがたいへん悪いので運転に注意を要します。環状列石はいずれ「竹田津の名所」シリーズで紹介することにします。この辺りからは道幅が改善する代わりに舗装が途切れて砂利道になりますけれども、徐行すれば問題ないレベルです。しばらく行くと「鷲ノ巣岳登山道 Pまで500m」と書いたイラストつきの看板が立っています。これを左折すると、はじめはコンクリ舗装がなされており軽自動車ならどうにか登れそうな幅があります。ところが100mほど進んだところから植物が道路にはみ出しており道幅がいよいよ狭まるうえに、そのうち舗装も途切れて路面状況は悪化の一途を辿ります。環状列石辺りの道幅の広いところの路肩に邪魔にならないように駐車して歩いて行った方がよいでしょう。

 上の駐車場からは車両の通行ができない登山道になります。なだらかで気持ちのよい登山道なので気が逸りますが、先に説明板をきちんと見ておきますと頂上付近の文化財を見学する際に理解の助けになります。その内容を記しておきます(読みやすいように一部改変しました)。

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鷲ノ巣岳遺跡

鷲ノ巣には縄文・弥生時代からの遺跡が眠っている。紀元1世紀頃、倭国大乱の時代の人々は騒乱を避けて標高200m~300mの高地に生活していた。その高地性集落があったのではないかと思われる。

○頂上 磐座、立石を含めて大きな石が散在する。

○鳥居より南100mの石室に、不動明王愛染明王役行者、風天宮を祀る。尾根先端には摩利支天、弘法大師を祀る。尖端の崖中途に風穴があり真玉に通じると言われている。戦前、この場で西方寺の人達がお接待をしていた。

老子池上、武田都社の元宮ほか3か所に立石あり、弥生時代のものと推定される。

○頂上より南1500m、鬼籠の上に環状列石(長さ130m、幅40mの楕円形)あり、縄文時代のものと推定される。

○北端に竹田津城の逃げ城と思われるジグザグの石垣がある(中世)。

○頂上部分に竹田津城の山城の跡と思われる堀切が、大小2か所ある。

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植林記念碑 西方寺青年団

 山道を小唄混じりに歩いていきますと、道筋から外れたところに碑銘が立っているのが遠目に見えました。近寄って見ますと西方寺(さいほうじ・竹田津地区のうち)の青年団による植林記念碑でした。裏を見てみましょう。

大正十五年春建之

 鷲ノ巣は尾根筋が長く、その東西で大字千灯と大字西方寺が接しています。ここでは「上伊美の名所めぐり」のシリーズで紹介しておりますが、「竹田津の名所」でもあるわけです。この碑銘の立っている辺りは西方寺の入会地であったのでしょう。

 

○ 昔の青年団「わけえもん組」について

 今は青年団そのものがほぼ消滅してしまっておりますけれども、西方寺に限らず、どこの地域でも戦前までは村(部落)の自治青年団が大きな役割を担うていました。青年団というのは新しい言い方で、古くは「わけえもん組」などと呼んでいたそうです。15歳頃になった男性は「わけえもん組」に加たり、結婚するまで組員として活動します。めいめいに自宅で夕食を終えたら「わけえもん宿」に集まり寝泊りをして、若者同士の絆を深めました(「わけえもん宿」はある程度大きな家で、老夫婦のみの家庭が場所を貸してくれたりしていた由)。年嵩の者から年少の者に、渡世の機微から色事までいろいろなことを教えたわけです。夜なべ小屋に集まった娘のところに加勢に行くこともありました。もちろん遊び仲間に終始するわけではなく、盆踊りや神社のお祭りなど地域の行事の準備・運営、夜回り、共有林の管理などに重要な役割を持っていました。

 ほかにも、未婚の女性が加たる「娘組」や、子供達の「文殊講(もんじこ)」もありました(のちの子供会)。生活改善運動が盛んになる過程で「婦人会」が盛んになった時代もありました。このように、昔はどこの部落にも、ちょっと堅苦しい言い方をすれば友愛組織のようなものがいくつもありました。これらは時代の流れとともに下火になりまして、今では「老人クラブ」を残すのみとなっている事例が多々見られます。

 

 閑話休題、尾根筋を先へ先へと進んでいきます。

 尾根筋に沿うて椿がたくさん自生しています。花の時季に登るとよいでしょう。

 道中には立派な鳥居が立っています。ここまでほとんどがなだらかな坂道で、容易に登ることができます。

役行者 蔵王権現 不動明王 風天神

 お不動様を鳥居の扁額に表示してあるのは、神仏習合の名残です。神様と仏様の隔てなく敬ってきた国東半島らしい景観であります。

 おそらく説明板にあった堀切と思われます。堀切というよりは鞍部に近いような地形なので、予め説明板を呼んでおかないとそれと気付きません。

 頂上付近には磐座、立石など、岩尾根の様相を呈してまいります。適当によけて通れば問題ないレベルでした。

 いろいろな書籍で写真を見て、一目拝みたやと願うていた摩利支天様が見えてきました。

 文化9年、いまから210年も前の造立とは思えない保存状態のよさに驚嘆しました。これほど細かい彫りなのに、ほとんど傷んでいません。それは石材の質にもよりましょうが、大岩のねきに安置してあることも影響しているのでしょう。

 厳めしい風貌、複雑な文様の衣紋、脚の表現など、何から何まで行き届いた秀作といえましょう。摩利支天様は、国東半島においては石像としての作例は多くはないように思います。護身や蓄財の神様として信仰を集めてきました。

 お弘法様は2体並んでおり、特に右のお弘法様は近隣であまり見かけない見事な表現です。蓮華坐の複雑な花弁の表現が素晴らしく、その膨らみから衣文の裾まわりが一体になって、まるで達磨さんのようにふっくらと、優雅な雰囲気を醸し出しています。左のお弘法様の台座には「大光禅寺」の文字が見えます。竹田津にあるお寺さんです。説明板にはこちらで西方寺の方がお接待を出していたとのことですが、麓からここまでお接待に上がるのは容易なことではなかったでしょう。

 摩利支天様・お弘法様のところから今来た道を振り返れば、石でこしらえた御室の中に数体の仏様が並んでいます。中の仏様を左から順に紹介します。

 2体のお不動様は、立像と坐像で、夫々お顔から爪先まで細かい部分までよう残っています。特に坐像の方は一面に火焔光背を刻み、ずいぶん手の込んだ造りになっています。お灯明立には「山」の字が浮き彫りになっています。お不動様の足元に置いてある壊れた石像は山の神様であったのかもしれません。

 こちらは蔵王権現様です。役行者の化身であると申しまして、奈良の金峯山の御本尊として知られています。右脚を上げるという儀軌に沿うた表現ながら、石仏としての表現の制約からか、まるで足踏みをしているようにも見えてまいります。こちらの蔵王権現様は背部の形状がたいへん風変りで、光輪と下半分の切り替え部分に工夫がこらされています。天衣のレリーフ状の彫りまでよう残り、その丁寧な表現に感嘆いたしました。

 役行者は、その座り方などは方々でよう見かけるものと似通っておりますけれども、お顔の表現が風変りです。優しそうなお顔が印象に残りました。台座にはびっしりと銘文が刻まれています。やはり竹田津の方によるお祀りです。

 大岩にハート型の窪みをこしらえてお手水にしています。自然に生じていた窪みを整形したものでしょう。

 尾根筋を先に行けば、大岩の裏に風の神様の祠がありました。前々回、寺迫の風の神様の項で、女性が上がると大風が吹く云々の伝承があると書きました。こちらも同様の伝承があるそうで、『国見物語』に、調査に行かれた女性が登頂を逡巡された旨の記述がありました。

 尾根の尖端からは素晴らしい展望が得られます。西不動から西方寺にかけての岩峰群のものすごい地形は、何度見ても厭きまん。山桜の時季は特によいでしょう。ここまでゆっくりお参りをしながら登ってきても、片道1時間もあれば十分です。傾斜が緩やかなので、鬼籠の環状列石から歩けばファミリー登山にも最適でしょう。

 

今回は以上です。上伊美のシリーズもずいぶん長く続いてきました。写真のストックが少なくなったのでこのシリーズは当分の間お休みにして、しばらくはいろいろな地域の記事を気の向くままに書いてみようと思います。