大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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伊美の名所めぐり その5(国見町)

 今回は大字櫛来のうち城山および陰平林道沿いと、大字伊美のうち西山方面をめぐります。行き方が難しいところが多いので詳しく説明します。

 

20 城山神社(櫛来城址

 道順の説明の都合で、前回との連続性は無視して道の駅くにみを起点とします。国道213号を岐部方面に行き、古櫛トンネル直前で右折して陰平道を進みます。斜めに突き当たったら左折して田んぼの中を一直線に進みますと、右側に旧櫛来小学校跡があります(運動場と講堂あり)。小学校跡を過ぎてなお進み、高地(こうち)部落のかかりでオレンジロード(広域農道)に出たら右折します。登り坂になり、切通しの両側にある側道のうち右の側道を上がります。この側道には非常に進入しづらく、軽自動車ならどうにか曲がれますが危ないので無理はしない方がよいでしょう。先でUターンして戻ってきて側道の上がりはなにバックで停めるか、またはどこか離れたところに停めて歩いて来る方がよさそうです。急な側道を上がったところが城山神社の境内です。

 城山と申しますのは、この小山が櫛来城址であるためです。城址と申しましても山城か砦程度のものであったと思われます。現状は、オレンジロード切通しにより地形が改変されておりますが、いかにもそれらしい立地ではあります。

 小山の頂上が神社の境内になっています。村の神社として櫛来の方の尊崇を集めてきました。前が広場になっていますから、昔は遊ぶ子供もいたかもしれません。

 用地の一角には石祠が並んでいます。中央のひときわ大きい石祠が金毘羅様で、立派な笠が目を引きます。特に四隅の造りがよいと思います。その右隣りは庚申塔、銘もそのまま「庚申塔」です。大きな字で銘を刻みながらもその字体はごく素朴です。

 オレンジロードとは反対方向にも参道が伸びていて、ごくなだらかな傾斜の坂道に石段を設けてあります。段をつけなくても問題なさそうなものを、より安全に上り下りができるようにということなのでしょう。

 碑銘により、石段は大正6年に安田與八郎さんが寄附されたものであることが分かりました。

 

21 天峯の宝篋印塔

 天峯の宝篋印塔は陰平林道から僅かに下ったところに立っています。行蔵部落から山道を歩いて登っても行けるようでしたが、林道経由の方が易かろうと思いまして、探訪時には高地部落から陰平林道を進みました。初めて通る陰平林道は簡易舗装がなされておりましたものの想像以上に道が悪く、曲がりくねった離合困難の大ホキ道が延々と続き、運転に胆を冷やしてやっと文化財標柱に行き当たりました。ところが近くに路肩の広いところが全くなく、やむなく路上に車を置いて大急ぎで見学したという苦い記憶がございます。ですからもし宝篋印塔を訪ねる際には、旧櫛来小学校跡に駐車して行蔵側から林道を歩いて行くことをお勧めします。小学校跡から国道方面に歩いて、右側1つ目の車道(陰平林道)へと右折します。いくつかの作業小屋を見ながらくねくねと登っていって、右方向に舗装路(自動車が通れる幅)が分かれるところで右折します。ここに目印がないので分かりづらく、つい直進しそうになりますので気を付けてください。

 しばらく道なりに歩けば、林道脇に写真の標柱が立っています。ここから斜面の下を見遣っても宝篋印塔は見え辛いと思いますが、下ればすぐ分かります。傾斜は緩やかなので、適当に歩きやすいところを下ってください。

 この杉林の斜面に、こんなに立派な宝篋印塔がぽつんと立っています。思うていたよりずっと大きく、しかも傷みがほとんどなく完璧な姿で立っていることに驚嘆いたしました。国東市ホームページ「櫛来地区の文化財」によれば総高214cmにも及びます。隅飾りや相輪も見事なものですし、塔身には全ての面に墨書にて梵字が書いてあります(写真では分かりにくいと思いますが実物を見るとよう分かります)。どうしてこんなところに立っているのでしょう。もしかしたら麓の、永明寺と何か関係があるのかもしれません。

 なお、林道よりも上手には天峯の庚申塔(文字塔)があるはずですが、その上り口が分からずまだ見学できておりませんので今回は省略します。

 

22 行蔵の庚申塔

 行蔵部落から山道を上っても行けますが、天峯の宝篋印塔からさらに斜面を下ると簡単に行き着くことができます。宝篋印塔からまっすぐ下るのではなく、少し左寄りに下ると分かり易いと思います。そう離れていないので、少し捜せばすぐ見つかることでしょう。2基の刻像塔が麓を向いて立っています(冒頭の写真)。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏、4夜叉、邪鬼、ショケラ

 碑面いっぱいにたくさんの像が緻密な彫りで表現された、オールスターの庚申塔です。これは素晴らしい。国東半島で4夜叉を伴うタイプは珍しいのです。その中でも国東町は小原地区周辺でときどき見かけるタイプは作例が比較的あるものの、こちらはそれとは別のパターンですからいよいよ珍しく、作者のオリジナリティが見事なものでございます。
 まず主尊を見ますと、肩幅に足を開き、右足に荷重してやや斜に構えるような立ち方をしているのがよいと思います。ショケラをさげた右腕を腰に回しておりますのも、ちょうどこの立ち方に合うているではありませんか。珍妙な帽子がある種独特の風情を醸しており、武器の取り方など見ますと一筋縄ではいかなそうな雰囲気がございます。童子はめいめいが主尊の方を向き、恭しく控えているのが可愛らしうございます。振袖の袂が僅かに風に靡いている点にも注目してください。
 主尊に踏まれた邪鬼は哀れなるかや七重の膝を八重に折りて、もはや地面に踏み込まれんとするばかりの危機的状況にてその顔には生気がありません。その下の枠では夜叉が、めいめいに所作を違えて動きをつけ、いきいきと表現されていますのもおもしろく、石工さんのさても見事なる表現力に感嘆いたしました。最下段では2匹の猿が取っ組み合いをするように向かい合うて、その外から鶏が優しく見守っています。猿と鶏は彫りがごく浅くてほんにささやかな表現ではありますけれども、却ってほのぼのとした雰囲気が感じられまして、これはこれでよろしいかと存じます。
 寛延2年、凡そ270年前の造立です。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 こちらの塔は対称性を意識してデザインされているようです。隣の塔は対称性を崩して諸像の動きのある表現が見事でした。それに対してこちらは、たとえば主尊の立ち方や腕の配置、童子や猿、鶏の様子など見ますと全てが左右対称になっています。あえて形式的に表現してあることで、全体として見たときに均整の美が感じられます。左右に並ぶお塔の美の文脈が異なりますので、夫々を見比べますとまた、いろいろな気付きが得られましょう。
 主尊のお顔は、先に紹介しました岐部地区は東岡の庚申塔に似たところがあります。腕をめいっぱいに横に広げて、その真下に小さな童子が収まっていますのでこの3体の一体感が強うございます。しかもみんな正面を向いています。それがために3人がかりで悪霊や病魔に立ち向うてくれそうな心強さが感じられるではありませんか。
 かわいらしい猿、接吻をしているかのごとく顔を近づけた対の鶏が、夫々帯状の区域に横並びになっているところもまた、この塔の形式美にそぐう表現であると存じます。
 享保7年、今からちょうど300年前の造立です。300年も昔から地域を守ってくださっている庚申様のありがたさは言うに及びません。

 

 大字櫛来は写真のストックがなくなったので、一応ここまでにします。今度は大字伊美は西中部落に移動して、西山の名所旧跡をひとまわりしてみましょう。

 

23 西中の妙見様

 国道213号を櫛海(くしのみ)方面に行きます。国見トンネルの直前を左折して山裾の道を進み、最初の角を右折して坂道を上ります。ほどなくカーブミラーのところで二股になっていますので、左の細い道に入ります。この道は軽自動車なら問題ないものの、普通車だとぎりぎりの幅しかありません。妙見トンネルの真上あたりまできたら、左に鳥居が立ち、右側が広くなってその奥の石段の上に石祠が並んでいます。妙見様に着きました。石段の下に車を停めてお参りをしましょう。

 鳥居の先には、麓の部落から上がってくる参道が残っています。やや荒れ気味のように感じられました。おそらく今は歩いてお参りに上がる方は少なく、車道経由が主になっているのでしょう。

 石段が急で、しかも踏面がたいへん狭く通行に注意を要します。無理に上がらなくても、遥拝でよいと思います。妙見様ほかの石祠にはみなシメがかかり、地域の方の信仰が続いていることが分かります。このカサには妙見平の字名が残るほか、下にほげているトンネルの名も「妙見隧道」です。

 

24 トビ石の庚申塔(〇チギリメン隧道について)

 この庚申塔はずいぶん前に単独記事で紹介しました。今回、写真を差し替えたうえで説明の内容も見直し、新たにシリーズの中に入れ込むものです。

 さきに道順を申します。妙見様に車を置いたまま、歩いて車道を進んでいきます。道路端にはお墓が点在しており、古いめいめい墓が寄せ集められたところには五輪塔やお弘法様などもございます(写真はありません)。しばらく行くと右に、チギリメン隧道への道が分かれています。このトンネルは半ばで崩れて通行不能になっており今やその道に入る人もなく、入口から竹藪になっていますのでそれと知らいで通れば気付かないかもしれません。チギリメン隧道は明治24年の開鑿で、国見町に数あるトンネルの中でも特に古いものです。トンネルの開通により伊美・櫛海間の交通が飛躍的に向上したものと思われます。その後、昭和9年に妙見様の真下に妙見隧道が、さらに昭和58年には国見トンネルが開通しました。名前は違いますがそれぞれ新旧の関係です。それにしても「チギリメン」という珍妙な呼称(小字名に由来すると思われます)は、一度聞いたら忘れられないインパクトがございます。

 チギリメン隧道への分岐を無視してさらに進み、写真の場所から右方向に山道を上がります。この山道は、おそらくチギリメン隧道以前の山越道と思われます。先に紹介しました中須賀からの櫛海越と同じ文脈のものでしょう。ここからくねくねと急坂を登れば一本道です。そう遠くないのですぐ見つかると思います。なお、ほかの入口から登っても行けないことはありませんが、半ばで右左折することになるので分かりにくいと思います。

 なお、写真を見る限り車道の舗装状況は問題なさそうに見えます。この道は新涯部落に抜けており、以前は自動車でも問題なく通れていたのですが、今はこの先が落石だらけでとても通れません。ですからトビ石の庚申塔を訪ねるときは、妙見様側からの方がよいでしょう。

 山道の脇に庚申塔や庚申石、灯籠の寄り集まった一角があり、庚申塚の様相を呈しています。この塔は西中部落のうち上組の祭祀で、所在地の字名は大字伊美字トビ石です。ですから、塔の名称としては字名をとれば「トビ石の庚申塔」、組名をとれば「西中上組の庚申塔」となります。蛇足になりますが小字名と部落名は、ともに地名ではありますけれどもその文脈が異なります(この点については以前、宇目町の記事の中で申しました)。一応、このブログでは字による呼称を優先し、小字名がわからない場合のみ組名による呼称で項目を設けています。同一の組が複数の場所に塔を立てている例もありますし、土居(部落内の組や班)と庚申講の範囲が一致しない場合もありますので、混同を避けるためにこのようにしています。

 西中の庚申塔の中でも大型の部類で、総高は200cm近くにも及びます。周りに並んでいる庚申石には、銘は確認できませんでした。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 笠の上部を僅かに打ち欠くのと、主尊の表情が分かりづらくなっている以外はほぼ完璧な状態を保っています。全体的に彫りが浅い中でも、たとえば腕と三叉戟の重なりなど、僅かに前後差をつけて丁寧に表現いしてあることに感心いたしました。
 この塔は主尊の表現の特徴から所謂「異相庚申塔」に分類する説もあるようですが、その真偽のほどは分かりません。防空頭巾のようなものを被った主尊は下膨れのお顔で、目つきがよう分かりませんけれども口許に優しそうな雰囲気がにじみ出ています。腕の配置はほぼ左右対称で、合掌した腕以外がX型をなし、持ち物もあわせて碑面いっぱいに表現されてありますのでなかなかの存在感ではありませんか。足を180度開いて立っているのはご愛敬ですが、概ねよう整うたデザインであると思います。
 童子はほんにささやかな表現で、どうも主尊と同じような衣紋を纏い、めいめいに合掌しているようです。猿は三つ子のようなるかわいらしさ、鶏は雄鶏と雌鶏で脚の様子が異なるのもまた乙なものです。全体的に見て対称性を重視したデザインであり、均整の美が感じられます。
 享保2年、300年以上前の造立にしては細かい部分までよう残っています。

 

25 中尾辻の庚申塔

 トビ石の庚申塔を見学したら車で西山道まで後戻りますが、鋭角にて左折できません。一旦麓まで下り、転回して再度登ります。二股を妙見様の方に行かずに直進(右)、どんどん上っていきますと道が平坦になるところの辻の左上に庚申塔が立っています。気を付けないと行き過ぎてしまいます。

 道路から一段高いところの崖口に立っているので、正面からの見学に難渋しました。向かって右、植物に隠れているのは文字塔と思われますが、銘は消えてしまっていて全く読み取れません。左の、戸が壊れている石祠の中にも庚申塔が収まっています。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏

 重厚な笠を戴く石祠も、今や傷みが進みつつあります。その中に納まった庚申塔は雨ざらしになっているわけでもないのに、傷みがひどく進んでいて諸像の輪郭を残す程度になっているのが惜しまれます。大きさがぴったりと合うていますので、無関係の石祠に後から収めたのではないと思います。それなのにどうしてこんなにも傷んだのでしょう。近隣では櫛海にも石祠に収まっている庚申塔がありますが、県下全域で見ますと少数派です。貴重な作例であり、大切に保存されることが望まれます。

 それにしてもこの庚申塔は、どちらの庚申講のものなのでしょうか。近隣には人家が見当たりません。

 

26 鬼塚古墳

 中尾辻を過ぎて種田方面に行き、道標に従って左折します。離合困難の道になりますが普通車でも問題なく通れます。すぐ近くに駐車場も整備されています。

 周囲の整備が行き届いていますので円墳の形状がよう分かります。中を見学するには教育委員会に事前に連絡して鍵を開けて頂く必要がありますが、格子の隙間からでもある程度は見ることができます。説明板の内容を転記します。

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史跡 鬼塚古墳

所在地:東国東郡国見町大字中2428の1
造営年代:6世紀末
出土遺物:刀・鏃・金環・ガラス玉
     須恵器(坏・高坏・坩・平瓶・提瓶)
     土師器(壷)

 鬼塚古墳は、11基から成る西山古墳群の一つで、線刻壁画のある装飾古墳として知られている。
 石室の構造は、大形の石材を用いた単質の横穴式石室である。丘陵傾斜地に立地するため、玄室を半分ほど地下に埋め、これに傾斜のある羨道部がついている。
 線刻壁画は、玄室奥壁および左右の側壁の一部にある。各壁面とも線の重複が多いため図柄がはっきりとしないが、奥壁には、樹木・木の葉・舟・人物などが描かれ、右壁の腰石上部の石には、素朴な描写の鳥が2羽向い合っている。また、左壁腰石には、樹木のようなもののほか多数の鳥がみえる。
(指定 昭和32年11月)

古墳の規模

墳丘 東西10m 南北13mの楕円形
石室 全長8.5m 玄室長3.8m 奥壁幅2.3m
   天井高1.95m 羨道長約4.2m
主軸の方向 N-22度-E

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 入口からでは壁画を確認することはできませんでした。

 

今回は以上です。特にトビ石の庚申塔はたいへん素晴らしい造りで、心に残っています。長い記事が続いたので、次回は短い記事を挿もうと思います。