大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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安心院の名所めぐり その1(安心院町)

 安心院町のうち安心院地区は大字古市・上市・下毛・木裳(きのも)・妻垣(つまがけ)・原(はる)・新原(にいばる)・折敷田(おしきだ)・飯田(はんだ)・荘(しょう)・戸方からなります。

 今回から2回に分けて、特に名所旧跡が密集している大字下毛をめぐります。下毛と申しますのは下市と南毛の合成地名です。下市には鏝絵のある古い建物が多く残るほか一面の美田、また名所旧跡も数多い、たいへんよいところです。特に有名なのは下市磨崖仏で、ほかにも三女神社、九人ヶ峠(くにんがとう)など歴史を感じられる名所がいろいろあります。下市周辺の名所旧跡は3時間もあれば一巡できます。

 

1 九人ヶ塔隧道

 下市から二日市(院内町)に越す峠を九人ヶ峠(くにんがとう)と申します。この峠は、それと知らいで通れば何のことはない道なので観光客の姿は全く見かけませんが、歴史的な事柄(後述します)はもとより古い山越道、総石積の旧トンネル、各種石造物など見どころがたくさんあります。

 冒頭の写真が現行の九人ヶ塔トンネルです。このトンネルは昭和52年に開通しました。用字が「峠」でなく「塔」になっているのは、後述の9体の石仏に由来すると思われます。〇〇峠と申しますと普通は「とうげ」と読みますけれども、古い地名で「とう」とか「たお」と読む例がときどきあります。こちらも、今は九人ヶ峠を「くにんがとうげ」と読むこともあるようですが旧来の読みは「くにんがとう」でありますので、ちょうど「峠」の「とう」が「塔」に通じたのでしょう。

 このすぐ横に旧トンネルが残っています。下市側から坂道を上っていって、トンネルの手前から左方向に分岐する車道に入ればすぐ、右側に旧トンネルが見えてきます。

 旧トンネル入り口はガードレールで封鎖され、車は入れません。この手前に1台であれば駐車することができます。一時期はトンネルの入り口を鉄格子で封鎖されていましたが最近はその格子が撤去され、見学が容易になりました。

 これは素晴らしい。総石積の坑口は見事な重厚感です。しかも特異なることに要石が3つもあります!そしてこのトンネルの特筆すべき点は、坑口付近のみならで内部の全てが石積になっている点です。昔の重要なトンネルで、特に傷みやすい坑口付近のみ石積で仕上げてある事例はいくらでもあります。けれども、普通は中の方は素掘りになっているのが相場です。それが、このように全てを石造アーチの構造で仕上げてあるトンネルは滅多に見かけません。素晴らしい文化財・史蹟であると断言できます。院内町は「石橋の町」として知られていますように見事な石橋が70基やそこら残っているほか、安心院町にも今井橋、丸田橋など石橋がいくつか残っています(昔はもっと多かったようです)。このトンネルの構造も、やはり院内・安心院の土地柄がなせる業といえましょう。

 このトンネルは、近隣の石橋群と同様に地域の交通に関する大切な文化財・史蹟でありますから、大切に保存するとともに標識や説明板の整備が望まれます。

 

○ 九人ヶ塔隧道と豊州線について

 総石積の九人ヶ塔隧道は大正2年の竣工です。安心院から九人ヶ峠を越した先の二日市には、かつて豊州線の二日市駅がありました。二日市駅の開業は大正11年で、そもそも豊州線の工事が始まったのが大正2年です。これほど立派なトンネルをこしらえたのは、豊州線の開通を見越してのことではないでしょうか。実はこのトンネルは2代目で、初代の九人ヶ塔隧道は次項で説明する石仏の近くにありましたがあまり用をなさなかったそうです。ですからこの石積トンネルは安心院・二日市間の往来・物流の増加に大変な利便性をもたらしたと推察されます。

 豊州線は宇佐から順次延伸し、日出生台経由で森駅(玖珠町)に接続する構想であったそうですが開業当初より経営難が続き、それは叶いませんでした。地元の方には大切な路線でしたが昭和26年にルース台風の被害で休業し、28年には廃止されています。けれども、よし廃線になったとて自動車交通の時代に突入し、ますますトンネルの重要性は高まりました。さしもの立派なトンネルも離合困難の幅員にて先に紹介した現行のトンネルの開通と相成ったわけですが、そのときに旧トンネルが破壊されずに残ったことはこれ幸いなことでございます。

 

2 九人ヶ峠

 旧トンネルから新道分岐まで戻れば、道路の反対側に説明板が立っています。道路端なのですぐ分かります。

 説明板の内容を転記します。

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九人ガ峠
 龍王城に籠城していた安心院千代松丸(公糺)は、防衛のこの峠で家臣共々9人戦死し、9代280年余続いた安心院氏も滅亡した。天正10年(1582年 安土桃山時代
 江戸時代(1747)この9人の供養のため頂上に9体の地蔵を安置した。現在もここにある。
安心院縄文会(平成19年6月)

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 この峠から二日市側に下る側に、かつてはもう1つ小さなピークがあり一人ヶ峠と呼ばれていました。その峠の下に一人ヶ塔隧道がありましたが道路拡幅の際に開鑿されまして、峠の面影はなくなっています。10人のうち9人が果てたところを九人ヶ峠、残った1人が越したところを一人ヶ峠と呼ぶそうです。

 さて、説明板のすぐ横から旧道(徒歩のみ)が伸びています。いまからその道を登っていきます。

 旧の峠道はS字カーブを描きなだらかに登っていきます。今はごく浅い掘割状になっていて車両はとても通れませんが、かつてはこの道を登っていった先に初代の九人ヶ塔隧道がありました。もしかしたら今は竹が生えているところも路面で、荷車程度は通れたのかもしれません。取り付き箇所が狭いのは下を通る新道により削られたと思われます。

 しばらく登ると、写真の場所で二股になっています。石仏・庚申塔に行くには、これを左に行きます。まずは右(直進方向)に登ってみます。

 しばらく行くとクランク状になった掘割が見えてきました。鞍部を越しており、こちらの方がより古い道のような気がいたします。掘割から先もずっと道が続いており容易に辿れそうでしたが、時間の関係でどこに出るのは未確認です。

 掘割を見学したら先ほどの分岐まで後戻って、今度は左方向に登る道を進みます。はじめは荷車程度であれば通れたであろう幅のあるなだらかな道が、現行の九人ヶ塔トンネルの方向に伸びています。ところが新道の開通により旧来の路盤が失われたようで、いきなり直角に右に折れ、ひっくり返るような急坂を登ることになります。どう考えても荷車は登れない坂です。おそらく九人ヶ塔トンネル開通以前は、荷車レベルの道がお地蔵さんのところまで通じていたのでしょう。今はものすごい急坂を気を付けて登るしかありません。登り詰めたら直角に左に折れ、心もとない細道を辿れば目の前が開けて石塔が見えてきます。じるいときは滑落が懸念されるような道ですので、用心して通ってください。

 最初に目に入る石造物には銘がありません。庚申塔(文字塔)の銘が消えてしまったか、或いは供養塔の類であるのか、詳細は分かりませんでした。このすぐ先にお地蔵様と庚申塔が寄り集まっています。

 この一角はきちんと草を刈ってありました。お参りや見学は稀であると存じますが、あの難所の道の先にあってきちんと手入れがなされていることが分かり嬉しくなりました。お蔭様で、文化財が粗末にならずに済んでいます。

 お地蔵様は素朴なお姿で、風化摩滅も目立ちますけれどもその優しそうなお顔はよう分かります。その手前には石幢の龕部のみ安置されていました。これは、お地蔵様をこの場で果てた9人の供養塔或いは墓碑と見て、墓地の入口に六地蔵様を安置するのと同じ意味で石幢(六地蔵塔)を造立したものと思われます。その他の部材は見当たりませんでした。

青面金剛
延享四卯歳
六月吉祥日

 旧道上り口にあった説明板によれば、9体のお地蔵様は1747年に安置されたものです。この庚申塔の銘も延享4年、つまり1747年です。人里離れたこの場所に庚申塔が立てられたのは、お地蔵様を守って頂くためなのかもしれません。墓地にある庚申塔と同じ意味でしょう。

 そもそもこの場所は、本当の意味での旧の峠道沿いではないように思います。麓からここまで登って来る道はありますが、ここから先は道がありません。それは道がなくなってしまったのではなく、もともと袋小路だったのではないでしょうか。先ほど紹介した掘割の方の道こそが、歩いて山を越していた時代の道筋なのでしょう。お地蔵様を安置するにあたって、あの薄暗い山道沿いではなく、尾根上にあって見晴らしのよいこの場所を選んだと思われます。

 そして初代の九人ヶ塔隧道は、このお地蔵様の先の少し低くなったところにほげています。崩落しており通行はできませんが、坑口はわずかに開口しているそうです。しかし藪になっていて確認することはできませんでした。おそらく昔は、その坑口のところまで、先ほど「新道の開通により失われた」と思われる旨を申しました荷車レベルの道筋が続いていたのでしょう。つまりその荷車レベルの道筋は初代九人ヶ塔隧道ありきの道であり、お地蔵様や庚申塔が安置された時代にはその道筋自体がなかったと考えるのが自然です。なぜなら掘割ルートの方が鞍部を通っておりますので、トンネルなしでは態々左の尾根を越すメリットがないからです。その頃、お地蔵様のところに行くには掘割あたりから左に斜面を上がって尾根上に出たものと思われます。

 長々と説明してきましたが、お地蔵様や庚申様の場所に行くには一部、通行に注意を要す場面があります。帰りは急坂を下る必要があるので、杖があると安心かもしれません。でも距離は知れたものですので、足下に気を付けて、お参り・見学をされることをお勧めします。

 

今回は以上です。次回は下市磨崖仏周辺の名所を紹介します。