大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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安心院の名所めぐり その2(安心院町)

 前回に続いて、大字下毛の名所旧跡をめぐります。今回は三女(さんにょ)神社、下市磨崖仏、下市百穴の3箇所で、至近距離に位置します。下市磨崖仏の駐車場を拠点に、歩いてまわるとよいでしょう。

 

3 三女神社

 安心院町には妻垣神社、佐田神社、山蔵の大歳神社、東椎屋の熊野神社など、立派な神社が数々ございます。その中でも安心院地区の神社といえば、三女神社にとどめをさしましょう。広大なる社地、自然環境、歴史(由来)、いずれも素晴らしく、近隣の名所めぐりの際には必ず参拝するべき名所中の名所です。

 前回紹介した九人ヶ峠から車で市街地方面にまいりますと、道路左側に立派な看板と鳥居が並んでいます。

 この鳥居のところから側道を下って、橋の下をくぐれば下市磨崖仏の前に広い駐車スペースがあります。磨崖仏には後で参拝することにして、ひとまず側道を歩いて鳥居のところまで戻り、参道を辿っていきましょう。

 参道入口には立派な由来書が設置されています。内容を転記します。

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三女神社由来
鎮座地 宇佐郡安心院町大字下毛字三柱

一、祭神
 田心姫命湍津姫命・市来島姫命・他十柱神

一、由来
 そもそも三柱山三女神は日本書紀神代巻に曰く「即ち日神(天照大神)の生みませる三女神を持って葦原の中国の宇佐島に降り居さしむ云々…」とあり、宇佐島この地宇佐郡安心院邑、当三柱山一体とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都比古・宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に全国唯一の三女神の御名前を持つ社であるにして、水沼の君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座し今日に至ると伝えられる。
 境内は古代祭祀の面影を漂わせ、幾多の史蹟と伝説とを有し、特に三柱石はじめ多くの陰石を有し、宇佐神宮の元宮御許山(大元山)の御神体となり、3個の女陰を形どる巨石の組み合わせと対照的に男根的存在を現しているところに神秘さを藏している。応仁天王元年に社殿を改修したという記録がある。
 江戸時代に至り島原藩主累代これを崇敬し、三女神官との異名を持ち、多くの末社を数え22ヶ村の天神として崇敬せられると伝わる。鳴呼霊妙にして霊験あらたか、子授け、安産、縁結び、開眼、病気平癒はじめ産業振興、家内安全、交通安全の大神とされる。霊験あらたかにして里人はもとより関東・関西方面の崇敬者多く、当地方では宇佐神宮に続く多くの参詣者を記録し、隠れた神明の霊地としての存在大なるものがある。

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 軽自動車どうしであれば離合ができそうなほど幅広で(階段があるので実際には車は通れませんが)、階段も踏面の幅がちょうどよく、平地を歩くのと同じ歩幅で楽に上れるという、たいへん立派な参道です。しかも参道に沿うてたくさんの楓が植えられておりますので、秋には見事な景観でありましょう。それ以外の季節も、四季折々の風情があります。距離がやや長いものの全く苦になりません。日常を離れて、心が癒されます。

 碑銘によれば、昭和45年3月11日に森永三郎さんが楓110本を参道沿い不動山一体に植樹されたとのことです。

 参道を歩いていくと鳥居が2基並んでいます。手前の鳥居はどっしりと太く、重厚感がございます。

 奥の鳥居の方が大型で、こちらはすらりとした印象を受けました。この右側は急斜面が川まで落ち込んでいます。今は木が茂っておりますけれども、昔は安心院盆地を見晴らしてさぞや眺めがよかったことでしょう。

 説明板の内容を転記します。

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水沼井(おみず)

 当社東南500mの盆地内に根宮があり神池として清水が湧出する。伝説によれば三女神天降りの際の産水とされ、雨や旱に増減混濁することなし、また手足の不随にも著効ありという。
 奉仕の社家は水沼氏と称し、お供えや炊事の水にも用いられたとされる。
 この水沼井も安心院七不思議の一つである。

安心院地区まちづくり協議会 教育文化部会

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 この水沼井がどこにあるのか分からず、当日は訪ね当たりませんでした。後で調べたことには、大字木裳は賀来石油スタンドのところを入っていくと水沼神社があり、その井戸がそれにあたるようです。

 御門は思うていたより簡素な造りでした。大きく立派な狛犬が見事で、その表情や細やかな動きなど素晴らしいではありませんか。細部まで行き届いた造形に感心いたしました。

 今回、下市磨崖仏の側から参道を辿ってきました。反対側(木裳側)からの参道もここで合流します。合流するというか、一本の長い直線的な参道のちょうど中ほど、横向きに門があるのです。もし時間があれば、お参りをしたら反対向きに下ってみるのもよいでしょう。

 拝殿の建築には均整の美が感じられます。灯籠は3段の基礎の上に猫脚で乗っておりますので、すらりと格好がようございます。左は貴船様、右奥は英霊社、さらに右には皮篭大明神や三柱石が鎮座しています。順にお参り・見学をいたしましょう。

 由緒書を転記します。

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三女神社由緒
神代の昔高天原に於て天照大神素戔嗚尊盟約の結果
 田心姫の命 一の神殿
 湍津姫の命 二の神殿
 市杵嶋姫の命 三の神殿
の三女神を生み給い、葦原の中国の宇佐嶋に降し給うた宇佐嶋とはこの地宇佐郡安心院邑にして豪族筑紫君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。境域には現にこれに関する幾多の史蹟と伝説とを有している。江戸時代に至り島原藩主累代これを崇敬し社領10石を奉納し或は宮殿を造営し或は矢壷提灯ならびに釣燈籠等を奉納した。崇敬者は宇佐郡の一帯に及び江戸時代には島原藩山蔵組大庄屋配下の22ヶ村の氏神として崇敬せられ、その内鎮座地の関係村の字下市・木裳・新原・原が常時奉仕の責任にあたり現在に至っている。産業振興、家内安全、交通安全の神として霊験あらたにして古今を通じ住民の厚い信仰をあつめている。

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 貴船様にはごく小さな、かわいらしい狛犬がお宮を守っています。写真を撮り忘れてしまいました。

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貴船神社

元正天王養老2年夏4月より秋まで旱が続き田も畑も枯死寸前となり村人一心となり貴船大神に雨乞いの祈りをしたところ、その願いが神に通じ忽ち一点掻き曇り慈雨あまねく降りわたり田畑とも豊かな稔りとなったので翌年正月20日御社を建て貴船神社として祭祀した。

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 貴船様のところの灯籠です。この2基は造形が異なり、夫々のよさがあります。まず手前のものは笠の曲線美が際立ちます。竿部の「獻燈」の書体もよいし、特に素晴らしいのが猫脚の部分です。単にくるりと内向きにねじ曲がっているだけではなくて、よう見ますと細やかな装飾がほどこされていますし、何となく重厚な感じがいたします。奥の灯籠は竿にくびれがなく、六角柱をなしています。その上下の蓮華坐状の装飾(名前を存じません)の細やかさ、さらにその部分の円形と竿の六角形との接合部の違和感のなさ、基礎部分のくびれなど、こちらもよう工夫されたデザインであるといえましょう。

 こちらは英霊社です。昭和20年10月、山田さんの発案で安心院小学校の奉安殿を町から譲り受け、戦歿者の英霊をお祀りされました。それ以来、毎年春分の日に慰霊祭を執り行っているそうです。

 境内右側の区画に、皮篭(かわご)大明神や三柱石が祀られています。この写真は皮篭石です。説明内容を転記します。

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皮篭石

 当社西約100mに皮篭石なる名の字あり。そこに皮篭大明神といわれる当社の末社があったが明治初期、この玉垣内に移し祀られた。
 奈良時代に仁聞菩薩が三女神社に参拝し、ここに皮篭を下ろし面前の岩壁に仏像を刻んだと伝えられる。また一説には神武天皇東征の時、この石に皮篭を置かれたとも伝えられる。

安心院地区まちづくり協議会 教育文化部会

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 説明内容から、下市磨崖仏(乳不動)のところに皮篭大明神が鎮座していたことが分かります。明治初期の神仏分離により、こちらに移されたのでしょう。神仏分離にあたっては神社内の石塔類や石仏を境外(堂様やお寺、公民館など)に移動した例が多いように思いますが、磨崖仏は移動できないので大明神の石祠の方を移動したものと思われます。

 説明板の両脇には小さな狛犬が睨みをきかせています。この説明板の真後ろに、写真では分かりづらいと思いますが斜めに立った柱があります。これこそがこの神社の由来でもあります三柱石です。説明板の内容を転記します。

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三柱石

 三女神天降りの遺跡と伝えられ地上に突出すること2m余り
『古来試みにこれを穿ちて石根を見んと欲すれば宇宙闇然風雨至り大地震動してその声、雷の如しと言う。後人恐れて触るるものなし』
と言い伝えられる。
 なお、三柱石は安心院七不思議の一つとされている。

安心院地区まちづくり協議会 教育文化部会

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4 下市磨崖仏(乳不動)

 三女神社の参道を後戻って、県道を渡り階段を下れば正面の岩壁に磨崖仏が彫られています。参道入口には鳥居が立ち、神仏習合の名残が感じられます。三女神社と関連の深い史跡でありますので、同時にお参りをされるとよいでしょう。説明板の内容を転記します。

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仁聞霊場 生き不動

 この生き不動は安心院盆地の七不思議の一つに数えられ、安心院俚謡に 〽乳をもらいに五十里百里 岩に刻んだ生き不動 と唄われる。「乳を求め祈請すると必ず乳を授かる」と伝えられ、別名乳不動とも呼ばれている。
 主尊は不動明王大日如来の輪身(変身)で、眷属として矜羯羅・制多迦の二童子を両脇侍としている。この明王は一般に治病・安産・災害除去・怨敵降伏・財福等、広く進行されている。
 なお、古老の口伝によると、古く欽名天皇の御代に上宮・三女神社の末社火産霊神社として祀られた。後、元正天皇の御宇に高僧仁聞がこの里に遊来、三女神社に参篭をなし、不動霊山の板岩に不動明王及び諸菩薩を彫みこみたるもの。俗に言う不動山の称これなり。また、神功皇后三韓退治の時、生き不動の神力を刀に籠め征伐に向かわれたと伝えられる。数々の謎を秘め霊験あらたかなる神仏として現在も遠方よりの参拝者も多く、諸事祈請をされる篤信家をもち、毎日香灯が捧げられている。なお、縁日は20日とされている。

安心院地区まちづくり協議会 教育文化部会

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 多分に伝説的な内容が含まれておりまして真偽のほどは不明ですが、このように壮大な伝説が今に伝わるほどの信仰を集めてきたというわけです。磨崖仏の詳細については、別の説明板が設置されています。

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県指定史跡 下市磨崖仏

北東壁向かって右から 天部形立像、聖観音菩薩坐像、阿弥陀如来坐像、薬師如来立像、不動明王坐像、制多迦童子立像、阿弥陀如来坐像

南東壁向かって右から 阿弥陀如来坐像、加来坐像(阿弥陀如来か ※崩落岩塊)、加来坐像(阿弥陀如来か ※崩落岩塊)、阿弥陀如来坐像(崖面上方)

 北東斜面については、南北朝期を遡らない14世紀後半頃の造顕、南東壁については、鎌倉時代も13世紀頃の造立とみられる。
 以上のように、下市磨崖仏は2期に分かれて造立されたと考えられている。また、同磨崖仏の造顕には、この地の地頭新開氏あるいは領家であった宇佐宮が関った可能性がある。

宇佐市教育委員会

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 説明板によれば、11体の磨崖仏(うち2体は崩落)があるように読み取れます。でも実際は、北東面の末尾の「阿弥陀如来坐像」と南東面最初の「阿弥陀如来坐像」は同一の像を指しています(角にあたるのでこのような表記になったと思われます)。ですから実際は10体の仏様です。北東面は比較的保存状態がよいものの、南東面はやや荒れ気味で傷みもひどく、全ての確認は容易なことではありません。一応、目印としては夫々の仏様の直下に小さな屋根のついた線香立てが整備されていますので、それを目印にするとよいでしょう。

 最も状態がよく、すぐ分かるのがこちらの4体です。右からお観音様、阿弥陀様、お薬師様、お不動様で、お観音様や阿弥陀様のにっこりと笑うたお顔が優しそうで、一目拝見してたいへん親しみを覚えました。お不動様は多分にデフォルメがなされ、さても恐ろしげな形相が目を引きます。この右側、岩の窪みのようなところに説明板にて「天部形立像」とあります1体が確認できますが、傷みがひどく輪郭を残す程度にまで風化してしまっています。写真をうまく撮れなかったので掲載は省きます。

 お不動様の左側にやや頼りなさそうな表情で佇む制多迦童子もおもしろい表現ですが、線彫りに近い表現であるうえに左側が断裂してしまい、状態がよくありません。つい見落としてしまいがちですので、お参りをされる際には注意深く岩壁を確認してください。その左の阿弥陀様(北東面と南東面の角)に至ってはお顔がほとんど分からなくなっています。

 南東面の、崩落した岩に残る仏様のお顔です。北東面は薄肉彫りであるのに対して、こちらはその残部から比較的厚肉彫りにて表現されていたことがわかります。それがために却って傷み易かったのでしょう。

 南東面左端の阿弥陀様で、こちらは崖のかなり高いところにありますので見落としがちです。線香立てを目印にさがしてみてください。

 

5 下市百穴

 下市磨崖仏の南東面からの地続き、同じ岩壁に32基の横穴墓が残っています。以前はすっぽん養殖場の裏の小路を辿って行き来できていたのですが、今は道が崩れて通れませんので回り道をします。下市磨崖仏奥から階段を上がり、一旦上の道路(旧県道)に出ます。左に行けば「下市百穴」の看板がありますので、そこから階段を下りていけばすぐ横穴墓が見えてきます。

 時季によってはご覧の通りやや荒れ気味にて、32基すべての確認は困難を極めます。特に磨崖仏寄りのところは道が崩れて通れなくなっています。百穴と申しますのはやや誇張しすぎの感もありますけれども、大正の頃に上を通る旧県道の工事によって壊された横穴もずいぶんあったそうです。それ以前は100に近い数の横穴があったのかもしれません。説明板の内容を転記します。

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安心院町指定文化財 下市百穴
昭和49年2月8日指定

 三女神社の頓宮と磨崖仏との間一帯の崖に広がって横穴古墳が32基ある。
 この横穴古墳は、古墳時代の末期のものとされ、岩質は安山岩で、穴底には皮の栗石が敷かれているものが多い。
 出土品としては、弥生式土器、祝武土器と須恵器高盃、碗、皿などが記録されているが現在はほとんど残っていない。

安心院教育委員会

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 この横穴は特に状態がよく、入口部分の装飾的な造りなど立派なものであると存じます。

 横穴どうしが中で繋がっているところもありました。もとからこのような造りであったのかもしれませんが、戦時中に防空壕に転用するなどして地形を改変した可能性もあります。

 

○ 俚謡「安心院の七不思議」

 記事中の説明に「安心院の七不思議」の文言が何度か出てきました。これは盆口説になっていますので、こちらに紹介します。マッカセ、レソ、エッサッサ、大津絵、蹴出しなど、字脚が合う節であればどの音頭でも唄うことができます。現に、盆踊りの際に盛んに口説かれています。

安心院盆地の 不思議な話 語り伝えて 七不思議

〽水沼お水は 濁らず涸れず いざり大蔵の 脚も立つ

〽忠義一途の 二階堂様の 五輪汚すな 腹がせく 

〽騒ぎ過ぎると お叱り受けて 泣かぬ蛙の 最明寺 

〽乳を貰いに 五十里百里 岩に刻んだ 生不動 

〽七つ星さま 六つこそござる 一つ深見の 剣星寺

〽奇岩屹立 麓は桜 床し宇佐耶馬 仙ノ岩

〽佐田の京石 昔の名残 都偲んだ 祭り跡

 

今回は以上です。下市百穴のすぐそばには三女神社の御旅所があるのですが、適当な写真がありませんので省略します。安心院シリーズは一旦お休みにして、次回はどこか違う場所の記事を書いてみようと思います。